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2009年5月

2009.05.31

人間失格

人間失格 (集英社文庫)  太宰 治 1990 集英社文庫

はしがきだけを読んで、本を閉じた。それは、何年前のことであったか。
ある男性が、この本を読んだ時に自分のことだと思ったと語っていた。私は日本の文学なるものを苦手としていたから、恥ずかしながらきちんと読んでみたことなどなかった。
その人と別れてから数年。読み始める確かにその男性が思い出されて嫌になった。露悪的な陶酔感に、無性に腹が立った。
それから更に数年。今度は最後まで読んだ。

内容については、名作であるため、触れるの及ばないだろう。
代わりに、主人公はヘタレでトホホな属性はマックスでありながら、どうして私はこんなに萌えないんだろう?と考えてみた。
主人公の周りには次々と女性が現れる。主人公はさも迷惑であったかのように、ほとんど一目で女性に気に入られて、かまわれるようになることを描く。時にはほとんど幸福になることもあれば、心中すら試みながらも、その女性達の感情はといえば希薄にしか読み取れない。
そのあたりが、たとえばもりみーの描く主人公とは違うんだろうなぁ。におい立つようなナルシシズムが鼻につく。なんか、可愛くない。可愛くないったら可愛くない。

作者の娘である太田治子の鑑賞がよかった。この鑑賞を読んで、すっきりと腑に落ち着いた感じがした。彼女は「私はどうしても女ではない、男の強がりを感じずにはいられない」(p.193)と書く。いやまさに。
自分はだめだー人間失格だーと書きながら、顔がいいもんもてるもん画才だってあるもん金持ちのぼっちゃんだもん、と同時に書いているのだから。
そこを単なるナルシシズムとして読まずに可愛げのある強がりだと思うと、見える像が変化した。
しかも、作中では「都会の男女の場合、男よりも女のほうが、その、義侠心とでもいうべきものをたっぷりと持っていました」(p.127)と書いているように、すっかり女性に頭が上がらなくなっているものだから、男性としての見栄の張り方も工夫がいったことだろう。

太田が作者を「赤ん坊のような素直さ」と「明るい心の持ち主」と書いているが、露悪的に見えるようにかっこつけずにいられない。そうでもしないと自己愛が守れないぐらいのヘタレ具合に気づいたら、だんだん可愛くなってきた。よし。
落語の若旦那ばりの人の好さ、生活力なんてからきしなくて、人に振り回されたばかりで、そのかっこ悪さの自覚ばかりはあっても甲斐性はやぱりなくて、努力する場所を間違えてしまっていまさら修正できなくて、しょうがないからかっこ悪いなりにかっこつけてみました、みたいな感じ? どうしようもなくかっこよくないのだもの。それは、よくわかっているんだ。
そんな作者の顔らしきものが見えてくると、作者が森見登美彦の『新釈 走れメロス』を読んだらきっと楽しんでくれるんじゃないかって気がしてきた。

人前で仮面を取り繕わざるをえないような自己の在り方であるとか、日蔭者であるというアイデンティティの持ちようには、共感もする。
自分ばかりが普通にふるまうことがへたくそで仕方がないようなもどかしさを、引きずりながら生きてきた。
とはいえ、そこに同調しながら読むよりも、この主人公が診断がつくとしたらどうなるんだろうと気になって、むしろ対象として突き放すように読んでしまった。
抑うつ状態を伴うアルコール/薬物依存に、パーソナリティの問題もある気がする。だとしたら、自己愛性の人格傾向が一番顕著かな、と思ったり。でも、もともとうつ病の素因を持つ人であったのかもしれないとも思ってみたり。だとしたら、主人公は死なないが、本書を書いたすぐ後に自殺してしまった作者の自殺は、症状としての自殺ではないかと思えてきたり。
主人公のような人は多い気がする。言い換えれば、本作が今なお色褪せていない、十分に現代的である。

集英社文庫を買ったのは、小畑健の表紙に釣られたからである。そのくせ、Bookokaでつけてもらったリリー・フランキーのカバーを重ねているが。
年表や小説の素材となってであろう写真、小林広一の解説、太田治子の鑑賞に加えて、丁寧な語註もついており、若年の人にとっても言葉に戸惑うことは少ないと思われる。

不倫のリーガル・レッスン

不倫のリーガル・レッスン (新潮新書)  日野いつみ 2003 新潮新書

この本、どこにやったっけ?
出版当初の頃に読んだきりであるが、その頃に作った資料を読み直してみた。
そうだそうだ。胎児認知という制度を知ったのも、この本がきっかけだった。

不倫と、不倫にまつわる離婚や出産といった問題について、弁護士が書いた本。
弁護士が不倫に絡む仕事をするとなると、もっぱら離婚に際したカップル+αということになろうか。
配偶者が不倫をしている人の場合、既婚者と不倫をしている人の場合、浮気をしている最中の既婚者の場合、それぞれが法律的に関わる、あるいは「法を犯す」と考えられる場合を具体的に解説する。
それら諸々の面倒くさいリスクをきちんとマネジメントして、それでも不倫をするか。それとも、リスクの大きさを心得て、不倫を控えるか。それは各人の責任おいてなされることである。

旧刑法では、婚姻している女性が、夫以外の男性と性的な関係をもったとき、夫からの告訴によってのみ、姦通罪で裁かれた。
戦後に、婚姻している男性に適応して男女平等とするのではなく、姦通罪そのものが廃止される。これをもって、「不倫」そのものは法律違反とは言い難くなったことになる。
しかし、依然として、不倫は「道に外れた」行為であるという倫理観を持っている人は多いと思われるし、現に不倫中の人であってもなにがしかの罪悪感を感じている人もいるであろう。そのやましさが恋愛の味付けになるという人もいるのかもしれないが。

先ほど読み終えた太宰治『人間失格』は姦通罪が現存していた時代が舞台であるが、主人公は妻の貞淑を気にしつつも、気にせず有夫の女性とも関係を結ぶ。
赤松啓介などを読むと、もっと大胆で、ええ加減である。もしかしたら、現代よりもよっぽど融通無碍な感覚じゃないの?と驚いてしまう。
だからこそ、法律で縛らないと男性がいたってことかもしれないし、一夫一婦制という思想の儚さであるのかもしれないし、難しいもんである。
リカツという言葉が登場してきたように、こういった本を参考書にして、抜け目なく自分にお得な離婚をすべく、わざわざ離婚を準備している人を想像すると、ちょっと怖いような気もした。
読み直したほうがいいかもしれないと思うが、さて、どこに置いたかなぁ。

2009.05.28

死にぞこないの青

死にぞこないの青 (幻冬舎文庫)  乙一 2001 幻冬社文庫

息ができなくなる。
思わず、手で胸を押さえた。そのまま服を握り締めながら、ページをめくるのももどかしく読み進んだ。
苦しい。息苦しい。息詰まる。一息つくことを許されない。
このままではどうなってしまうのか、最悪の結果にはなってほしくない、しかし、このまま続いては主人公が壊れてしまう。
息が止まるほどの緊迫感を感じた。多分、私の記憶のどこかが重なったからだろう。

小学校5年生の男の子。成績はよいが体育は苦手、少し人見知り傾向があるが友人関係を保つことはできる、ごく普通の男の子、マサオ。
5年生に進級して、担任が新任の男性教師になったところから、マサオの周囲が異質なものに転じていく。
教師が教室を把握するためにとった方法の卑劣さは、胸が悪くなる。それがまた、実際にどこかで行われていそうで、今もどこかにマサオと同じように言葉を奪われている子どもがいるであろうことに、胸が苦しくて苦しくてたまらなくなるのだ。

あとがきで作者が触れるとおり、言葉遣いは小学生らしからぬところがあるが、小学生が感じているであろうことを、大人にわかるように翻訳した小説だと受け止めてみる。読んでいて違和感はない。
アオを別人格として、解離性障害を援用して解説することはいささか蛇足の感もあった。が、そういう自分の中のネガティブな部分を自分の一部として受け容れていく作業は、成長に大いに必要なことである。主人公の成長物語としてはずせないのかもしれないが、読者が想像してそこにたどりつくのでもいいかな、と思ったり。

最後の最後にマサオが見せた結末。
担任を抜いて、マサオのほうが大人に近づくことができたことに、私はようやく方に入っていた緊張をゆるませ、息を大きく吐くことができた。
自分の怒りに気づき、認め、受け入れ、だけど、拳は振り上げるのではなく、収めどころを見つけることができたら、いい。
相手をそれなりに認めたり、許したり、哀れんだり、できたのなら十分ではないか。たとえ、愛するとまでは至らなくても。

なんで、人は犠牲を求めるのか。
犠牲の羊を求めてしまうのか。
犠牲となり、復活した奇跡の人は救世主となった。
犠牲を求める心は、救済を求める心と、実は紙一重である。

相変わらず見事なストーリーだった。これってホラーになるのかなぁ? よくわからないけれども。
緊張のあまり、とっても疲れちゃった……。ああ、無事でほんとによかった。

2009.05.27

コミュニケーション不全症候群

中島 梓 1991 筑摩書房

この本に出会ったのは大学生の頃だ。図書館で借りたことを憶えている。

高校生ぐらいの頃から栗本薫の小説を読み始めていたが、結局、どれも途中で投げ出してしまった気がする。
『グイン・サーガ』も『魔界水滸伝』も、高校の頃は買っている友達から借りていたものであるが、大学に入るとそのネットワークが使えなくなったのも一因。
いつかまとめて読みあげたいと思ううちに巻数が増えすぎて、手も足も出なくなったり。
今も『グイン・サーガ』を読み続けているという友人が二人いるが、それだけで尊敬に値すると思える。

そんなわけで、著者の小説よりも、私にはこの本が一番印象に根強い。
オタク第一世代の発生について語っている本であり、同時代を知っている人が現に見て書いているところが希少のような気がする。
とはいえ、正直なところ、内容の詳細を憶えているわけではない。ただ、ここで取り上げられているコミュニケーション不全こそが、ひきこもりなど、現代的な問題を説明する大きなキーワードとして現在も生きているように思うのだ。
言い換えれば、出版から18年が経ち、今現在の解説として読むことは難しくなろうとも、現在の社会の抱えるものの現れ出る一過程として読むことで、今なお活きる評論ではないだろうか。

その後、コミュニケーション不全という言葉は、なんとなく一般化していったような気がする。
オタクは以前よりも市民権を得たのか、腐女子という概念も出現してすっかり定着してきた感がある。
ダイエットは極端な拒食や過食を含みつつ、摂食障害として低年齢化・高年齢化が同時に進み、男女比も男性がやや増えつつある。
いじめはネットを用いて多角的に展開するようになり、不登校も一時期よりは減ったとは言われるが教室で当たり前の光景となり、高校中退は増えている。
「モンスター」と冠されるペアレントやペーショントも一種のコミュニケーション不全かもしれないが、職場におけるコミュニケーション不全がモラールの低下やうつ病による休職をもたらすとも論じられる。
そして、増え続ける自殺者。

作家の慧眼、詩人の直観を感じる、忘れられない一冊である。
今の私を形作っている本の一冊であり、今の仕事に通じている本の一冊である。
心からの冥福をお祈り申し上げます。

2009.05.24

海の底(文庫本)

海の底 (角川文庫)  有川 浩 2009 角川文庫

買うのは買っていたんですよ。この本。
こっちを持っておいたら、「前夜祭」の入っている雑誌のほうが処分してもよいかな、と思って。
有川作品の中では一番のお気に入り。単行本で何度も読んでいるので、買うだけ買って積んでいた。

今朝、なんとなく手に取った。
ぱらぱらとめくってみた。

……はまった。

あー。
何度も読んだ本なのに、読み始めたら止まらない~っ。
展開も、下手したら台詞も、憶えているのに、引き込まれて止まらない~~っっ。
ここもあそこも、好きなシーンの目白押し。
拭いても拭いても涙が出てくる、あれやこれやの名場面。
結局、最後まで一気読みしてしまいました。

おかげで朝食を食べ損ねて、昼食も遅くなってしまったぐらい。
うん。やっぱり、この本が私の中で有川作品第一位。
あー。面白かった。面白いというと語弊があるけど、面白かった!!
叫んだから、すっきりしたー。ついでに『クジラの彼』も読んじゃえー。

まじめなレビューは、単行本『海の底』のほうをご覧ください。

猫の本:藤田嗣治画文集

猫の本―藤田嗣治画文集  藤田嗣治 2003 講談社

レオナール・フジタ。
その人の絵は、女性の肌を独特な乳白色で描いたことで有名だそうだが、猫がよく出てくることでも有名だ。
特別展のポスターを見ていると、なんとなく居心地の悪くなるような絵だと思って、私は見に行かなかった。
代わりに、見に行った家族が御土産に買ってきたのが、この本だった。

猫が可愛い……とは言えないかも。
やまと絵風に描くと半端にリアルで、猫は可愛いというより不気味になる気がする。
特に、目が。
けれども、めんそう筆と墨で描かれたふんわりとした毛並みの柔らかさは、ほかに見ないほどで撫でてみたくなるほどだ。
だから、ころんと丸まったり、のんびりながながと寝そべっている姿の猫だけ、選んで眺めていたりする。

藤田は猫には「ひどく温柔かな一面、あべこべに猛々しいところがあり、二通りの性格に描けるの面白い」と書き残しているそうだ。
複数の猫が争っている図は、観察している人ならではで、画家がまぎれもなく猫と身近に暮らしていたことを実感させられる。
それがまた、ひどく躍動的で、まことに猫らしい猫の絵なのだ。

この本には藤田のエッセイもいくつかちりばめられており、画家に興味のある人には手に取る価値があるだろう。
画家には興味がなくとも、1920年代にフランスに留学していた日本人の生活が垣間見えることも面白い。
路上で捨てられていたような猫を拾い上げて飼っていたことや、フランスに留学しながらも日本の筆と墨にこだわったこと、帰国してからも忘れえぬフランスへの思慕の念など、文章を読むことで藤田の印象が少し変わった。

森見登美彦『恋文の技術』に何度も藤田の名前が出てきたが、何度見返してみても、猫も怖いが、女性はもっと不気味である。
総じて私は苦手なのですが、だんだん、見慣れてきた気がします。

2009.05.19

恋文の技術

恋文の技術  森見登美彦 2009 ポプラ社

書簡集という形式が苦手で、もちろん作者がヒントを得た夏目漱石の書簡集も読んだことがない。
買うのも、読み始めるのも、読むのにも時間がかかったけれども、のんびりと穏やかな七尾湾の景色を思い浮かべるひと時は存外に心地よいものとなった。
往復ではないけれども、主人公守田の書いた手紙だけで、彼を取り巻く人々の人物像、相関関係、その中での守田の位置づけ、時間を追うごとの様々な出来事が透けて見える。

この作者は、同じようなことを文体を変えて何度もリライトするのが好きだなあ。
そう。渾身の技と力を駆使して、力いっぱい目いっぱい阿呆をしてみせる精神は顕在。
そういう意味では『四畳半神話大系』の実験を連想した。特に、失敗書簡集の章である。
途中までは恋文として……というか、手紙としてまともなものでありながら、どこかで崩れてしまう。その崩れ方のヴァリエーションたるや。しかも、反省が添えてあるところで、思わずぷぷっと吹き出すことしばしば。
もう一つ笑わずにいられなかったのは、おっぱい連呼のあたりだろう。こう書くと、また怪しげなTBが続々と届きそうであるが、そこまで阿呆を追求せんでも……と笑い転げてしまった。
こんだけ煩悩にまみれておきながら、もりみーの文章は妙に清潔感やら可愛げやらがあるから、ずるい。
最後の手紙なんか、読んでいる最中で愛しくてにまにましてしまいましたよ! これって、私がヘタレ男子好きなだけか??

だいたい、手紙を他人に読まれるなんて恥ずかしいことはない。日記も恥ずかしいが、手紙も恥ずかしい。
手元に送信済みの内容を残せるメールと異なり、手紙は送ったら送りっぱなし。前に何を書いたっけ?と思っても、自分で確かめようがない。
困ったことに、これまで自分が書き散らかした手紙なるものは、とっくの昔に郵便屋さんの手によって配られまくられ、私自身の手元にはないからだ。
これがいいことなのか、単なる恥さらしに過ぎないのか……。取り戻しようがないので、すみやかに処分され、各自の記憶の彼方に追いやられていることを祈りたい。
でも、手紙を書いて送る。返事を待つ。その一連の作業の間、相手を想う。この営みの喜びを知っているから、懐かしくて微笑ましかった。
メールは便利だけれども、手書きの手紙も嬉しいものなんだ。

不思議な食べ物も相変わらず。
猫ラーメンの魅惑の味も垂涎だが、ぷくぷく粽って何? それって何??と気になった。
京都で、粽であるだけに、祇園祭の長刀鉾の前とかで売っているのかなぁ。
でも、お腹は壊したくない……。
天狗ハムも初登場。赤玉先生のイラストがラベルに描いてあるとか??

ラストは読者に委ねられるが、それは手紙に書き得ないものだからしかたがない。
おそらく作者が書いたら、更なるどたばたになりそう。だから、私が思い描くほうがおとなしくハッピーになっている気がするので、勝手にハッピーエンドを想像することにする。
本はそもそも赤い風船に結び付けられた手紙のように、作者の手元から離れたところに行ってしまうものなのだ。
書簡集が苦手な人でも、結構、読みやすかったことを付け加えておく。

追記:これは初恋の思い出(正確には、過去の自己愛の傷つき)を乗り越えて、年齢相応の現実を受け入れる物語だよなぁ。不安を乗り越えて、今の幸せに向かい合い、受け入れる。肥大した自己愛から、等身大の自分自身の受容へ。そういうところが、すごく健全でいい。不幸に酔う自分を捨てることができたら、幸せになる可能性はぐっと増えると思った。

2009.05.10

イスカリオテ

イスカリオテ (電撃文庫)  三田 誠 2008 アスキー・メディアワークス電撃文庫

イザヤ。
旧約聖書における最も偉大な預言者の名前の一つ。
その名は、神は救いであることを意味する。

イスカリオテと聞くと、どうしても「イスカリオテのユダ」と続けたくなる。
イエスの十二弟子のひとり、イエスを裏切った会計係。その罪の大きさに首を吊り、イエスを売った代価で買われた土地に埋葬された。
映画にもなったミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』の解釈が好きなので、ユダは気の毒な常識人のイメージを持っている。
その裏切り者という犠牲がなければ、イエスが十字架にかけられるという犠牲もなされなかったかもしれないわけで、聖書を読んでいたら、うーむむむと眉間にしわがよりそうになる。

さて、このイスカリオテという単語に断罪衣という意味を与え、黙示録を解題して、聖人たちの伝説を突っ込んで、新たなファンタジーにしたのが、三田の小説。
『レンタルマギカ』シリーズはキリスト教に駆逐された西洋的な魔術の世界だが、この小説の中の聖霊教なる宗教はカトリックっぽいものである。赤い服の女であるとか、手のひらと脇腹の傷とか、塩の柱とか、聖書の中のモチーフがあちこちに使われていることに、にやり。
ルターの宗教改革も一種の原理主義運動であるが、繰り返しそういう運動が起きるほどに、長い歴史の中でキリスト教も多様な要素を吸収合併してきているのだ。
そういう意味で、プロテスタントよりもカトリックのほうが、多様で多層で多重な世界を持っているかもしれないし、だからこそファンタジーに親和性があるのかも。

滅びた聖都。失われた英雄。
一年間、その英雄の身代わりとしてイザヤを名乗ることを引き受けた主人公。
そんな取引を持ちかけた枢機卿代行。英雄のために開発された、盾となり武器となる人形。
襲い来る脅威「獣(ベスティア)」達と、彼らが欲してやまないバビロニアの大淫婦。
風呂敷が大きく広げられ、今後への期待が高まるような一冊だ。さあ、お楽しみはこれからだ。

この作者流の魔法の動かし方、非現実的な現象への理屈の与え方というものがあって、そのあたりのロジックが面白い。
個人的に最も興奮したのは、竜殺しの聖人の名前。イングランドの守護者ですねー。いい人選だー。ふっふっふ。

2009.05.07

三匹のおっさん

三匹のおっさん  有川浩 2009 文藝春秋

呼ばれ方によって気分は変わる。
名前で呼ばれるか、役職や続柄などの属性で呼ばれるか。名字で呼ばれるか、ファーストネームで呼ばれるか。「さん」付けなのか、あだ名なのか。
学校でも、会社でも、地域でも、血族間でも、呼び方一つで関係性が決まってくるような部分がある。
大事なパートナーには、もちろん、きちんと名前で呼ばれたい。

「俺たちのことはジジイと呼ぶな。おっさんと呼べ」 (p.60)

還暦を迎えた男性3人が、地域限定正義の味方として暗躍する物語。
確かに、60歳になったから、「さあ、今日から高齢者」と扱われて平気かというと微妙な気分になることは間違いない気がする。自分が20歳になったときに、成人の自覚というものがよくわからなかったことを思い出す。
でも、私、加齢をネガティブに捉える風潮はあまり好きではない。「後期高齢者」という表現に抵抗を持った、該当する年齢の人たちの反応を見ているときに、とほほな気分になるように。
年寄りで何が悪いと開き直って欲しい。高齢者という表現にひがまれても困る。若さは善ではないし、全でもない。いつまで若作りをしなくちゃいけないのだろう。
極めて自然な現象である加齢を否認することが老害をもたらすことに繋がってはいまいか。少なくとも、年齢相応である自分の陶冶と受容は必要ではないか。
年寄り臭くなればいいというわけではなくて、この小説の中のおっさん達のように、それなりの分別のある大人になりたいし、そうなっていてもらいたいのだ。

とはいえ、この三匹のおっさん達、それぞれアブナイ顔ぶれである。キヨさんは剣道、シゲさんは柔道、ノリさんは改造した電気機器類を使いこなす。腕に覚えがあるから、自警団というイタズラを思いついた。
勧善懲悪な時代劇風味が活きている。それぞれの家族の在りようや、関わり方といった家庭内のドラマと、その家庭の置かれているコミュニティの人情にも触れつつ、そのコミュニティの希薄化をしっかりと問題視して描き出す。
性的暴力や動物虐待、詐欺商法など、身近にいつ遭ってもおかしくないような出来事をとりあげつつ、6話から構成される。
それにしても、どの事件も、大体、身近や近所に聞くようなことばかりだ。そう思うと、ほんとに油断のならない世の中だ。いやだなぁ。

悪役は共通して無名のところが興味深い。その作法は、コミュニティの外部、見知らぬ他者であり、徹底して排除されるべき存在を意味する。
この物語の身近な事件をなんとかしたい願望をすくいあげる感覚は坂木司の作風を連想したが、悪役も登場人物の一人としてその後の物語の中に回収していく坂木さんに対して、有川さんは悪役を端役として物語から去らせ、敗者復活戦はないのである。
本を読んでいると、時折、自分と同じ名前、知り合いの名前が、悪役とかぶって微妙な気持ちになることがあるのだけれども、この悪役は無名という手法なら免れられる。読み手が嫌な気持ちにならずにすむ。これはいいな、と思ったところ。

でも、現実の場面において未成年者を無名の犯罪者で済ませるかどうかは、別の話だ。
この本の中で個人的に一番後味が悪かったのは、未成年者に動物虐待の章だ。うやむやに済ませるやり方が一番気に食わん。
現実ならば尚更一層うやむやで片付けられることもさもありなんだが、動物虐待はエスカレートしやすい。そして、エスカレートする動物虐待は、放火と並んで、かなりの要注意なのだ。
それはどこまでエスカレートする危険性を持っているのか、冷静に考えてから対処すべき事柄のように思う。対象が同族であるヒトにまでなりうる、という危険性だ。
だからこそ余計に、作中の中学生2人が愛しく思えたし、救いも感じる。

雑誌で第一話を読んでいたからと積んだままにしていたが、読み始めたら止まらない、いつもの有川マジックで一気読み。
有川作品ではラブの面も見逃せないが、これも例外ではなく、素敵なカップルが育っていく。おっさんばかりのネズミ色な物語ではなかった。
ただ、もうちょっとわかりやすく書いて欲しかったな。地の文の描写が、登場人物の誰のものかがわかりづらくて。もう少し、主語を補って欲しいなぁ。
総じて、楽しい読書となりました。あー、面白かった。

2009.05.03

サグラダ・ファミリア(聖家族)

サグラダ・ファミリア「聖家族」 (集英社文庫)  中山可穂 2007 集英社文庫

なんでこんなに泣けるんだろう。
中盤を過ぎたところから、ページを繰るたびに涙が出ては文字が読めなくなった。
本を読んでここまで泣いたことは、ついぞ思い出せない。
それぐらい、泣けて、泣けて、最後まで泣いてしまった。

ピアニストの響子とルポライターの透子。
響子の前から去った透子が再び現れるとき、父親不在の子どもを産んでいた。
そして、子どもを置いて逝ってしまう。永遠に。

去年から、私の周りに死が多い。
死はいつもそこにあり、私の周りに限らず、誰の周りにもあるものだが、意識させられることが増えた。
自分や家族の死に面している人に関わるうちに、いつも私自身の指先が死に触れているような感覚が消えなくなった。
そんなときに読んだから、余計に小説の中の死に反応してしまった。
つらかったわけではない。やっと泣くことができた。そう思った。

照ちゃんみたいな人になれたらいいのになぁ。
憧れるけど、私には難しい。作者は、主人公にして、「女が男に絶対にかなわないことがひとつだけある…(中略)…それは、オカマの人のやさしさである」(p.204)と言わせる。だから、女である私には難しくていいことにしておく。
どうしても、自分を重ね合わせるなら、響子の不器用な生き方のほうになる。仕事では評価されるが、女性的、母性的な役割に同一化するのはぎこちない。

偽装結婚に養子縁組。
そこに血の繋がりはない。性の関わりもない。でも、愛なら。
目前に不在の人への愛だけで結ばれた家族は、だから、奇跡のような家族だ。
彼らは愛という神に捧げられた犠牲なのだ。だから、聖なる家族なのだ。
彼ら、聖別された家族が、いつまでもその神を忘れずにいられたらいい。
いや、忘れることなどない。きっと。
生きることは、祈りに似ている。

愛が生活に飲み込まれることへの恐れや、魂が壊れてしまいそうなぐらいの大きな喪失体験。
音楽という芸術の高揚や、さまざまな人との出会いの妙。愛して、愛されて、別れて、それでも生きている、今ここにいる自分というもの。
他の作品とも通底する作者の主題はピアノの音に彩られ、とても美しい祈りと慰めに満ちた小説になっている。

彩雲国物語(18):黄梁の夢

彩雲国物語  黄粱の夢 (角川ビーンズ文庫)  雪乃紗衣 2009 角川ビーンズ文庫

18冊目の彩雲国は、あとがきによると本編が最終章に入る前に出したかったという短編集。
短編と言うには、しっかりと長い物語が3つ収められているので、今まで一番の厚さじゃないかな。
秀麗と劉輝はほとんど出てこない。共通して、先代王戩華パパが健在な頃の話である。

一つ目の主人公は、第二公子清苑。その母と戩華王、おまけに、末の公子であるちびちゃい劉輝が出てくる。
意外なところで、戩華王の死因判明。そこはかとないパパっぷりと天然っぷり、冷酷というよりも無頓着なだけに見えるあたり、ファンが増えそうな御仁でした。
間違いなく、劉輝のパパだなぁ。というか、劉輝はある一点においてパパを超えたんだなぁ。もうちょっとがんばりゃいいのに……ぶつぶつ。

二つ目の主人公は、燕青。太陽が黒点を持つように、その明るい人柄に隠れて見えない闇の部分を描く。
燕青と南老子、そして、小旋風との出会い。梁山泊風味なので、水滸伝を読んでいる人はにやりとするポイントが多いと思われ。
美味しいのは茶鴛洵と宋隼凱じゃないだろうか。私、この世代のおっちゃん達、好きだわ。豪快豪胆豪傑揃いで、ノリがよすぎ。超超超すごすぎる、ありえないほど最強軍の活躍、見てみたかったな~。

そして、三つ目は、邵可と薔薇姫の出会いの物語。ハー○クイン風ということだが、甘いというより、若い邵可が可愛くて楽しい。糸目が開いているとかっこいいんですが、いやー、若いなぁ。あは。
何事にも対価がいる。小さな力には小さな対価、大きな力には大きな対価。運命を捻じ曲げるには、それだけの対価が。

誰か/何かのために死ぬことは、わかりやすい。誰か/何かのために生きるより、はるかにわかりやすい。
目標は、何か問題の不在ではなく、他の状態の存在でもって設定されるべきである。
たとえば、不安にならなくなることではなく、代わりに、どんな風に過ごすことができたらよいかを考える。不安でなければ、友人と出かけるのか、ぐっすりと眠れるのか、家族との会話が増えるのか、自分ひとりで趣味の時間を持てるのか、それとも?
しかるに、「生きる」ということは、「死なない」という死の不在によって規定される目標であるために、達成しているかどうか判断が難しい。生きてはいることと、その目的のために生きていることとの峻別を誰ができるだろうか。また、生きているその生の質の程度まで配慮するならば、判断はますます難しくなる。
生きて、何をすれば、その人のため、そのことのために、なるのだろうか。
目標設定をするならば、そこまでしないと。生きて共に過ごすこと、生きて共に笑うこと、生きて共に食べること、生きて共に寝ること、生きて共に歌うこと、生きて共に耕すこと、生きて共に働くこと、生きて共に愛し合うこと……。

生きる意味がわからないと嘆いていた三人が、ちゃんと生きていられるようになる過程を描くところで共通していたように思う。
それにしても、一番の罪つくりは羽羽様だったとは。予想外のことが多すぎます。

 ***

  彩雲国物語(17):黒蝶は檻にとらわれる
  彩雲国物語(16):黎明に琥珀はきらめく
  彩雲国物語(15):隣の百合は白
  彩雲国物語(14):白虹は天をめざす
  彩雲国物語(13):青嵐にゆれる月草
  彩雲国物語(1-12)

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