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香桑の近況

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2009年1月

2009.01.31

自衛隊の国際貢献は憲法九条で:国連平和維持軍を統括した男の結論

自衛隊の国際貢献は憲法九条で―国連平和維持軍を統括した男の結論  伊勢崎賢治 2008 かもがわ出版

『武装解除』のその後を知りたくて、購入。
本書の感想を書こうとして、前書の感想も読み直した。なんだか、似たようなことしか、書けそうにない。

私自身は、憲法に九条があることを誇りを持って教えられた世代だと思う。
感想を書く前に自分の立場を明示するならば、改憲派ではなく護憲派になるのだと思う。
その半面で、鋭敏な感性や繊細な悟性を共有し、成熟した理性や冷静な知性を用いて交流することが、常に必ず可能であるとは限らないことを、私は既に知っている。
必要悪としての暴力の必要性を、とてもよく知っている。あるいは、交流が断絶するしかない自体のことを。自分の理性もまた腐食しうるものであることを。
したがって、潔癖で空疎な理想論にだけ立脚して正義に酔うような幼稚な振る舞いは、私はしたくない。

今回もまた、著者の感覚に驚く。
軍事研究家・評論家・オタクな臭いもせず、かといって、自衛隊の出自というわけでもなく、あくまでも文の立場から軍事について語ることができる人が、日本人の中にいたということに、私は驚いた。
平気について薀蓄を語るのでもなく、自衛隊の存在の是非を感情的に語るのでもなく、思想的に永遠平和について語るのでもなく、極めて実際的で具体的な見地に立った言葉が並ぶ。
この説得力が、現場に立ったことのある人のものなんだろうなあ。
今ある、この状況、この条件から、ベストな結果をたたき出す思考力と行動力が筆者の人間的な魅力となって、言説につい引き込まれてしまった。

この本の中には、第九条が持つ国だからこそできたこと、できることが紹介されている。
「美しき誤解」と呼ばれる、日本に対する「人畜無害な経済大国」というイメージ。
とりあえずは平和で中立。国内に犯罪がないわけではないが、特に若年層ほど凶悪犯罪は減少をたどっており、世界水準から見て、おとなしい国。
思い返せば、このイメージの恩恵に私はあずかったことがある。あれは、ヴェトナムでのことだ。
小市民だとか平和ボケとか、自嘲的な表現に陥ることもあるけれど、私はこの誤解された美しさを自己に身に着けるのは嫌いじゃない。
顔色を見る方向性を変えれば、今までの日本が培ってきたものや身に着けてきたものへの肯定的な評価もある。
その憲法を、外国から押し付けられたってなんでわざわざひがむ人がいるんだろう。今、この瞬間、その法に従う自分の主体性を、なんでわざわざ否定しなくてはいけないんだろう。私にはよくわからない。

固有性や独自性を保ち、自分達だからできることを通じて自分達の価値を押し上げることができるのに。
全体としての多様性を持つことによって、役割分担というものができるようになるのに。
国を動かす人たちには、複雑な状況や曖昧な情報を多様な尺度で処理・対応できる知力を持っていてもらいたい。
世界を俯瞰する視野と、未来を予測する展望と、現実を吟味する胆力と……リクエストが多すぎるだろうか。
近視眼的で自己保存的な官僚主義では、ダメなんだと思う。プラトンに倣い、哲学者
の素養を政治家に求めたい。つまり、上質な知性を。

だって、どう考えたって、私自身の戦闘能力やらサバイバル能力は低そうなんだ。この日本だからこそどうにか乗り切っている。
しかも、綺麗事を言えるだけの環境を与えられてきて、これってとても恵まれている。
けれども、自分の身を守るためには、周囲もまた落ち着いていなくてはならない。自分ひとりだけの利潤を追い求めようとすると、必ず失敗する。ツケは自分の頭上にふりかかってくる。アフガニスタンもガザも、他人事ではないのだ。
絵空事にせずに綺麗事を言えるとしたら、それってすごいことだと思うのだ。

2009.01.30

プラナリア

プラナリア (文春文庫)  山本文緒 2005 文春文庫

勧められて数年。文庫で見つけたのでようやく手に取った。
5つ短編が収められており、表題作が最初に来る。
どれもが1999年から2000年にかけて、雑誌に発表されたものである。そのため、今ならおそらく携帯電話となりそうなところがPHSだったりして、懐かしさを感じた。それ以外に違和感は特にはない。

この著者には遺恨がある。
正確には、もうかなり前になるが、この著書のある作品のファンを名乗る人から、非常に理不尽な嫌がらせをされたことがあった。
以来、坊主憎ければ袈裟までも憎いというか、本を買って著者を稼がせるのも癪だと思うぐらい、この著者は避けてきた。

そういう先入観のもとに読み始めたので、一つ目の短編「プラナリア」を読んでいるときは苦行のような気分だった。
突然の乳がんによる乳房切除。傷ついた自己を受容しかねる苦しみは、頭ではわかる。こういう風に振舞ってしまう人がいるのもわかる。だけど、どうにも好きになるのが難しい。
もちろん、二十代の女性の不器用さ、寄る辺のなさは気の毒でもあるのだ。しかし、主人公の醜悪さに、共感するよりも先に反感を感じてしまったのだ。多分、私の中にも同じような露悪的な傾向があるためだろう。
自分が傷ついているからと言って、他者を傷つけていいのか。そうではないだろう。それはないだろう。だけど、自分もしたことがないとは言い切れない、後味の悪さ。

「ネイキッド」は、離婚して、離職して、引きこもっている三十代の女性が主人公だ。「プラナリア」に続いて、同じようなすさんだ生活の有様、心持の様子に、読み心地の悪さを感じる。
そこに訪れる、再会と変化。最後の涙に救われた気がする。再スタートの予感がある。

「どこかではないここ」の主人公は、更に加齢して、四十代の女性だ。夫との関係は性的な色合いはないが、不満はありつつも安定している印象。ただ、子どもたちが自立をもがく年頃で、実母は年老いて介護を必要としつつある年頃だ。
その中で、磨り減りそうで、でも、確かにある、自分というもの。最後の2行がなければ、好きになれたかもしれない一遍。

「囚われ人のジレンマ」の出だしのプロポーズの言葉、最低だなぁ。と、いかに、この男がふられるかを期待しながら読み始めた。
こういう男は知っている。読み進めてぞっとした。自分の過去を覗き見られたような、暴き出されたような、気持ち悪さだ。くだんの嫌がらせにまつわるもろもろを思い出して、小説とは関係ないところでも吐き気がしてくる。
期待通りに、男がふられてほっとした。そこでやっと、主人公が可愛くなった。ついでに、作者の印象もアップした。笑

「あいあるあした」が、一番、読み心地がよかったな。これまでの4作の主人公は女性だが、これだけは男性が主役だ。三十代の、会社勤めを止めて居酒屋を始めた、離婚歴のある男性である。
思った通りにいかないと怒鳴るところや、なんだかんだと言いながらは面倒見のいいところが、ちょっと堂上教官系。
なんとな、ヘタレなところが可愛いじゃないか。と、にまにましながら読んだ。タイトル通り、明日に希望が残る作品が締めでよかった。

そして、ふと気づいた。私、男性のヘタレは許せるけれども、女性がヘタレると不寛容かもしれない。
そもそも、私にとって、普段は頑張ろうとしているのがうかがえる男性が時折ヘタレるのは萌えなんだが、最初から最後までヘタレていると視界に入らない。
女性の場合は、どんなにへたれこんでいても、その女性が振り払って立ち上がる力強さを見せてくれるときに魅力を感じるんだよなぁ。
ただただしんどい、つらい、きつい、苦しい、私は不幸だ、世界は絶望的だ、未来は真っ暗だ、こんな人生は誰かの所為だと呪詛は、現実に溢れている。わざわざ娯楽の中でまで、私は触れたくない。自分の中の醜さだって、自分で見つめればすむことであり、外在化してもらおうと思わない。
自分が頑張れないぐらい疲れたときにも、もう頑張れない~ってうじうじしている話を読むより、頑張る人の姿を取り入れるほうが好きなんだ。
苦行は思ったよりも楽に終わったが、遺恨の作を読むかどうかは、慎重にしておこうと思った。

2009.01.26

地球人のお荷物:ホーカ・シリーズ

地球人のお荷物―ホーカ・シリーズ (ハヤカワ文庫SF)  ポール・アンダースン&ゴードン・R・ディクスン
稲葉明雄・伊藤典夫(訳) 2006 ハヤカワ文庫

この表紙を見よ。
可愛いでしょー?
あまのよしたかさんのふかふかテディベアのイラストは、よく見るといろんな格好をしている。
あまりの懐かしさに見つけ次第、購入。再版されているとは知らなかった。

ホーカ・シリーズと題されるシリーズの1巻で、ハヤカワ文庫から3冊出ていたはずだ。
もともとは1972年初版の古きよきSFで、今回は新井素子さんの解説を加えて新装版として発刊されている。SFと言っても難しいことは何も出てこない。
確か、高校生の頃だったと思う。友人から借りたシリーズなのだ。
ほいほいと本を買うには、文庫本とはいえ、お小遣いが足りなかった頃。
イラストの可愛さとストーリーの面白さが忘れられず、社会人になってから探したときには入手困難になっていた。2冊目だけ、古本屋で見つけることができた。
残念なことに、2冊目の『くたばれスネイクス』、3冊目の『がんばれチャーリー』は絶版のままだ。
なんでだーっ。どうせなら、3冊とも出してくれ~。

表紙のテディベア達は、ホーカと呼ばれる異星人。人というか類熊人。トーカという星に住んでいる。
記憶力と想像力にすぐれていて、本を読んだり、映画を見たり、オペラを見ると、その世界を再現してしまう。西部劇にドン・ジョヴァンニ、カリブの海賊、あるいは、シャーロック・ホームズ……。
彼らは気に入った空想世界を見つけると、現実をそれに近づけてしまう。衣装を身に着け、町も作り変え、作中の人物を名乗り、物語の筋書き通りに生活しようとするのだ。
まさに、costume play。いわゆる「コスプレ」ではなく、もともとの芝居の一ジャンルとして、ある時代の「衣装を身に着けた演劇」を日常生活で繰り広げようとするのである。
プレイは演じることであるが、もちろん、遊ぶことでもある。彼らはとても遊び心に満ち溢れた種族であるといえよう。
ついでに、彼らは酒に強くて、力も強い。他者を傷つけるのが大嫌いな心優しい種族でもある。

ただし、トーカの大地に不時着し、ホーカに出会い、彼らのプレイに巻き込まれる主人公アレックスのほうは、たまったもんじゃない。
ホーカ達は自分たちのプレイを、人間のために中断することはしない。容赦なく、アレックスにも役回りを押し付けて、問答無用に物語にひきずりこんでいく。
当然、いろんな出来事が起こる。そのドタバタを笑いながら読ませてくれる、穏やかで楽しい、平和でお気楽なSFなのだ。

英語圏文化による世界の啓蒙という路線、アレックスはトホホ属性のヘタレキャラだが、恋人のタニは美人で嫉妬深く、ややヒステリックな女性という造詣。そういったところで、古さのほうを感じないわけではない。
なにしろ、オリジナルが書かれたのは1950年代だもの。ただ、それも一つ目の短編ぐらいで、話が進むほど、ホーカ達の大騒ぎの前に、文化や性差の偏見の入る余地はなくなる。
今、読んでも十分に楽しめる魅力的な小説だから、復活していて嬉しかった。解説は……別にいいかな。

2009.01.21

夏目友人帳(1)

買ったきっかけ:
雑誌で読んだときに、ニャンコ先生に一目惚れです。
アニメのほうはチェックしていません。

感想:
妖怪が見えてしまう主人公の夏目の成長物語。なんとなく周囲から浮いてしまう人を描くことの多い作者ですが、巻を重ねるにしたがって、夏目が年齢相応の顔を見せるようになりました。最初の頃のほうが、ほろりとするような、切ない物語が多くて好きかな。

おすすめポイント:
猫好きで妖怪好きな人にオススメ!!
絵柄は好みが分かれるでしょうし、どちらかといえばあまり好きではなかったのですが、とにかくニャンコ先生が可愛い。ぽてぽてとてとてと歩く姿の愛らしさ、それでいて中年男性のような世間慣れした言動、食い意地が張っていて自信満々で優しい父親のような眼差し。本性の妖怪としての姿もふかふかで素敵です。
そして、私の机周りにはニャンコ先生グッズが増えていく……。

夏目友人帳 (1) (花とゆめCOMICS (2842))

著者:緑川 ゆき

夏目友人帳 (1) (花とゆめCOMICS (2842))

2009.01.20

映画と恋と遺伝子と:映画にみる遺伝子と疾患

安東由喜雄 2006 マネージドケア・ジャパン

ある意味、とてもマニアックな本。
映画の面では、私も観たことがある、タイトルは知っているというものが多く、とっつきやすいコラムになっている。「ファインディング・ニモ」に始まり、「エデンの東」や「王様と私」「ローマの休日」といった名画から、「解夏」や「東京タワー」「Always 三丁目の夕日」など日本の作品、「私の頭の中の消しゴム」「ダ・ヴィンチ・コード」「ミリオンダラー・ベイビー」といった比較的新しい作品まで様々だ。
ああ、最近、映画を観ていないな。新しい作品ほど、タイトルしか知らないもの。

が、そこに付随された遺伝性の疾患の描写の点では、マニアックだと思う。そこに出てくる蛋白の種類だとか染色体の位置だとかは、私の守備範囲外だったのである。
気管支喘息や肺がんや大腸がん、ダウン症やアルツハイマー病など、認知度の高いであろう病気もよく紹介されている。
スティル病やモルキオ病、アミロイド・アンギオパチーというと、病名だけではなんのことだか……。
いろんな病気が遺伝によって左右されるらしい、ということはわかった。
そして、いろんな病気や障害と遺伝の関連は、ずいぶんと研究されているのだ、ということも。

しかし、映画の中では様々な疾患や障害が登場するものである。著者は医師の目から見て、病気の紹介や描写の適切さをも問う。
レントゲン写真が裏表になっていないか、今となっては医学的常識が覆されてはいないか、病気があれば感動があると勘違いしたチープな作りをしていないか。
病者の描写は、病気があるから感動的なのではない。その病者が、病気を抱えながらもいかに生き、いかに死んでいったか、その戦いが感動に繋がることを指摘している。
そういった目線に、著者がどのように患者に接してきたのか、うかがい知れるようだ。多くの苦労を見てきた人の目線である。

映画の見方、病気の見方として面白い箇所も多かったが、遺伝子診断によって、将来の病気の可能性が予見できるようになるのは、少し恐ろしいと思った。
遺伝負因なら、私もきっとある。高脂血症と消化器系のガンおよび婦人科系の疾患の家族歴がある。
家族歴だけを見ていても憂鬱になるのだ。遺伝子レベルで診断されると、ちょっとつらいなあ。
わかるとしたら知りたいと思うかもしれないけれど、知ったことを受け留めるのはつらいこともある。かといって、インフォームされないことは、更に嫌だ。
そのあたりを心理的に援助する遺伝カウンセリングは、まだそんなに確立されたとは言えない領域である。
また、遺伝子レベルで問題ないことを重視する優生学的な思想に偏らないよう、社会自体も成熟しなければならない。

最後に、後書きで医学部の窮状というか惨状というか、そういう事態に言及されていた。海堂尊も繰り返し小説の中で書いていることであるが、どこもかしこも、やはり大変らしい。
本書の内容は興味深かったし、観たい映画、観なおしたい映画もあるけれど、なんだかその後書きがひっかかってならない。

 ***

医学部は教員の定数削減で研究力の弱体化が懸念され、医学部附属病院でも高度先進医療より利潤追求が優先されるようになり、医療の質の劣化が心配されはじめている。一方、教育は今までの講義中心の押し売り型から全員参加型の実習形式が求められ、これは学生の理解力を上げ、考える医師を育てるためには大変よいことだと思うのだが、教員の負担はさらに重たくなり、授業に振り回されるような状況が起こりはじめている。このような状況のなかで大学医学部のスタッフの多くが余裕をもてなくなり、無力感が漂いはじめているかにみえる。(pp.194-915)

2009.01.12

トランスジェンダー・フェミニズム

トランスジェンダー・フェミニズム  田中玲 2006 インパクト出版会

やっとこういうことが語られるようになったのだなぁ。
どちらかといえば、薄い本である。読むのに時間はかからない。だから、多くの人に手にとってもらいたい。世の中、「自分の身体的な性別に違和感がない異性愛者」だけではないことを確認するために。
著者は何度も繰り返し、性の多様性を示す。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、インターセックス。これだけでは多様性を示すには足りないことをも示す。
身体の性の面においても、社会的・文化的な意識上の性の面においても、性的な志向の面においても、性は多様だ。多様なものを組み合わせると、タイプ分けが不毛になるほど、多様になる。
この本の秀逸なところは、そういった性の多様性を語るときに用いられる言葉について、丁寧に解説を補っているところである。トランスジェンダーについて詳しくない人にもとっつきやすく、最初に手にとる一冊としてお勧めだ。

残念なのは、「障害」という用語に対する、著者の偏見のようなものである。偏見であるとは言わないし、差別と言うと語弊があるが、その割り切れなさを感じて、ここでもやはり、という残念さを感じた。
DSMを通じて、精神疾患は「病気」から「障害」へと表現を転化させており、このことに対する賛否はいまだ消えてはいないものの、一般的には「障害」と表現する用語法が普及した感がある。
「障害」というと、先天的な不自由さや、今後も好転しない恒久的な不自由さのイメージがある。障害者自立支援法における障害とは、そのようなものであると思う。障害は障害であるのだから治らないのが前提、という、用語法に基づくのだ。
しかし、精神科諸領域の疾患に用いる気分障害、摂食障害や発達障害、性同一性障害といった診断名の「障害」の概念は、disorderの訳語であり、旧来的な「障害」の概念とは軌を一にしないのである。
乱暴ではあるが私の理解で私の言葉に直すならば、摂食障害eating disorderは「食事に関して困っている状態」であり、性同一性障害gender identity disorderは「性同一性に関わることで問題を感じていること」という意味以上の含みはないと考える。発達障害developmental disorderならば「発達上でなんらかの偏りがあるらしく得手不得手があるんだ」だし、気分障害mood disorderなら「気分の面でうまくいっていない感じ」なのだ。
調子よくいっていないことを、disorderは表しているのだから。handicapという意味ではない。そこを、著者はhandicapとして受け止めているように感じられて、読んでいて齟齬を感じた。
言葉に過剰な意味を盛り込むことには慎重であらねばならない。適切な表現というのは実に難しい。自戒にしておく。

とはいえ、現実の医療従事者の対応を見たり、性同一性障害の治療に関する精神医学・臨床心理学の記述を読んでいて、残念に感じることもある。
性同一性障害の「治療」を通じて、結局は男女二元論に還元・回収しようという無頓着さが横行しているからであり、その点では、著者が診断されることを嫌がったのも無理はなかろうと思う点である。
性同一性という言葉を使うことによって、ジェンダーに関する社会学が積み上げてきた議論に対して不勉強であり、治療者サイドが自らの性差別意識に無自覚な傲慢を感じることがあるからだ。
その上、ネットの本屋さんで検索をしてみれば瞭然であるが、MTFの発言は多いがFTMの発言は少ない。専門書の中身を紐解いてみても、GIDというとMTFが中心であって、FTMに関する情報の薄さに苦労する。
ジェンダー・アイデンティティを扱うのであってジェンダーを扱うわけではないから、ジェンダーを語らなくても良いというのは、私は詭弁だと思う。治療者のジェンダー観、セックス観、セクシュアリティ観が反映されないわけ、ないじゃないか。
FTMおよびMTFの人が持つ多様性の可能性を、単純な男女二元論に振り分けて圧縮することを、私は残念に思う。ついでに、必要とする人へのサービス提供が不十分な現状も残念に思う。
それでも、著者には思い出してもらいたい。ジェンダーが多様であるように、サポートする側も多様であることを。その多様性の中に希望があることも。

子どもの頃から今に至るまで、性的に欲望されない自分になりたいという願望がある。男性になりたいわけではない。しかし、女性として欲望されることへの嫌悪感や違和感が私の基底に流れている。ついでに、自分の欲望も捨て去ることができたら、どんなに楽だろう!
自分の女性をあきらめて引き受けたのと同じ頃、私はフェミニズムを見限った。フェミニズムがヘテロセクシュアルな女性原理主義・全体主義へと傾倒していることへの無自覚さが息苦しく、興味深いが自分を同一化させるのは嫌だと思ったのだ。
私は、家父長制度的な価値観の根強い文化圏に生活し、モノガミーへの撞着を捨てきれない19世紀的な倫理観を内在化させており、まあ、一応はセックスもジェンダーも女性系で、とりあえずはセクシュアリティもヘテロっぽい。性別に以前は違和感はあったが今はなく、おおむね異性愛である。
ここに「一応」「とりあえず」「系」「ぽい」「おおむね」と付け加えたところが、私が男女二元論を再構築していったある種のフェミニズムへの抵抗であり、反感である。
今も私はえせフェミでいい。それぐらいの立場でいる。

私は私である。私は私の立場から、女であることにこだわっていたい。
私が自分自身の性別を肯定的に受け入れ、楽しめるようになるまでは、実に長い時間がかかったように思う。それでも、いまだに不思議になる。
女性が他者から性的なまなざしを受けることによって性化されて女性として生きざるを得なくなる、この簡単なシステムを、フェミニズムに共感的であると自認する男性でさえ、なにゆえ理解することが難しいのだろう。そういう人に出会うたびに、私は単純な二元論で相手を切って捨てたくなる。
中村うさぎや桜庭一樹を読めば、その戸惑いの大きさがわかりやすく描かれている。山田詠美や三浦しをんもいい。レヴィナスを読むよりも、よっぽどわかりやすいと思うんだけど。
世の中、まだまだ変わらないんだろうなぁ。嘆息。

2009.01.10

天使の骨

天使の骨 (集英社文庫)  中山可穂 2001 集英社文庫

本には、読む「とき」というものがある。
読みたくて積み重ねていた本も、その本が「今だよ」と囁きかける瞬間を待たなくてはならない。
その声に耳を傾けるとき、なんともいえない時間を持つことができるのだ。

中山可穂の本はうかつに読んじゃいけない。
胸が痛くて、涙が止まらなくなるような、死にたくなりそうな恋の話は、今は読めない。
気持ちを揺さぶられて、私のほうが死にたくなって、立ち直れなくなる。そんな思いから、ここしばらくは避けていた。
それなのに、『天使の骨』に呼ばれた。順番が来たと本が言う。あの『猫背の王子』の続きを書いた本なのに。
仕方がない。今の恋が終わったらどうせボロボロになるのが目に見えているのだから、終わるしかない恋なのだから、来る日のイメージトレーニングとでも思うか。
私はようやく呼び声に応えた。

演劇と恋人と、そのどちらも失ったミチルは、やむをえず旅に出る。
飲みだくれて、酔いどれて、身を削って、心を削って、魂を削って。
天使に手招きされながら、誇り高く日本を出る。死ぬと言われた西へ向かって。
トルコからヨーロッパを、ユースホステルに泊まり、ユーレイルパスで移動する、旅だ。
のっけから死に掛かっているところが、中山さんの主人公らしくって、なんとも愛しくなった。
不器用で、潔いから余計に不器用で、誇り高いのに無様な姿をさらしながら、傷ついても茨の道を歩むことをやめやしないのだ。

主人公と一緒に、ボロボロな気分を味わうかと思ったら、途中から元気になってしまった。
なんてことだ。予想外だ。これは、死と再生の物語だったのだ。
どんなに涙を流し、胸をかきむしり、自らを痛めつけたとしても、どうしても生き延びてしまう。
中山さんの描く登場人物の多くは、何度ボロボロになっても、また恋をする。そんなタフさを持っている。

「男がだろうが女だろうが関係ないよ。どんどん好きになって、何度でもふられて、いい歌が歌えるようになるんだ」(p.205)

ローザという、ファドを歌う、母親のような偉大な凄みと温もりのある老女の言葉に出会えたことが僥倖だった。
私の荷物がすとんと落ちたのを感じる。ああ、何度ふられても大丈夫なんだ。きっと致命的なことにはなりやしない。
何度でも恋をして、何度でも失恋をして、それが私のいい仕事の糧になると言えばならないこともない。
ダメなら、ファドを習ってやる。そういうことにしておこうか。

ああ。旅に行きたい。
こんな命の限界に挑戦する旅じゃなくていいから。もうちょっとモデラートな旅で。
一人ではびーびー泣けないかもしれないけれど、逆に思い切り泣けるかもしれないし。
この恋が終わったら。恋がいつか終わるものならば。

2009.01.09

推定少女

推定少女 (角川文庫)  桜庭一樹 2008 角川文庫

これのどこがハッピーエンドなんだ。
解説を読みながら、子どもの頃の自分が反抗するのを感じた。

小説にしてマルチ・エンディングというところに、軽い驚きを感じながらページを繰った。
最終章以外は、物語は一筋に進む。桜庭一樹が描く少女らしい、痛みと怒りを甘さでくるんだような、少女でしかありえない少女たちの物語だ。
主人公のぼくこと巣籠カナは、全裸で凍りついていた美少女・白雪と出会い、夜を逃げる。
家族内の問題や、教室の中の閉塞感、世代特有の焦燥感や無力感。胸の奥がひりつくような懐かしさが立ち上る、圧倒的な既視感。
あの年頃の気分を、どうしてこう、この人は書くのが上手いのだろう。大人になりたくない、あの頃の気分を。
大人になることが途方もなく難しく感じていた。ましてや、大人の女性なんてものは別の生き物だった。

逃げ出したいほどの現実の中で。
だけど、それは逃げ出したいだけで、どこかに行きたいわけではない。
消えてしまいたいけれど、いなくなってしまいたいけれど、死にたいのとはちょっと違うんだ。
誰も彼も、私のことなんか忘れてしまえばいい。私なんて最初からいなかったことになればいいんだ。だから、私の存在の一切の痕跡を残してはいけない。
誰か私を見つけて。いや、誰も私に気づかないでいて。
見つけるのは、たった一人でいい。気づくのは、たった一人でいい。あいするのは、その人だけでいいんだ。その人があいしてくれれば、きっとそれだけで生き延びられる。

作者のセンスにうなったのは、「あいしている」と子どもが言うのは難しいというところだ。「それは大人の言葉だから」と。
年齢的には大人になった私は、そこで我に返って苦笑いをした。
はたして、愛を語れるほどに、私は大人になれているだろうか。
普段、一応の社会人のふりをしているが、中途半端で不器用で、あっちで傷つき、こっちで傷つけ、壁に向かって床にしゃがみこんでのの字を書きたくなるようなことが相変わらずあるというのに。

同時に、私は主人公達の気分を、私を取り巻く環境の中、知っている子ども達の中にも見出すことができる。小説を読んでいて、これはあの子の物語じゃなかろうかと思い浮かぶ顔があり、切なくて仕方がなかった。
今現在、逃げ出したいほどの現実の中で、逃げ出したくて仕方がないのに逃げ出すことを許されない子ども達。その子ども達を、私は確かに愛しく思うのだ。
私も、少しは大人になれているのだろうか。

逃げても、逃げても、現実は追いかけてくる。
現実からは逃げ切れない。現実に追いつかれ、飲み込まれる。
そんなエンディングが、なぜ、ハッピーエンドになるの?
Ending2を読み始めたところから、私は泣き出してしまった。主人公が現実に戻れたことを喜ぶよりも、逃げ切れなかったことのほうが、私は悲しかった。
Ending3でも、同じように涙が出た。『少女に向かない職業』の主人公に比べれば、ずっとハッピーかもしれないが、一番、穏当な終わり方だとわかっているからこそ、大人にならなければならないことが悲しかった。

もちろん、大人になる、生き延びることで得られることのハッピーがある。
私自身、あの頃よりも今のほうがずっとずっと楽で幸せなのだから、それを否定するつもりはない。
でも、せっかくのSF設定なのだ。一人ぐらい、そのまま逃げ切ることを許してあげてもいいじゃないか。
そんな風に、私の中の子どもがぶつくさと言っている。全部を読み終えて、そんな風に感じている。
だから、私には、Ending1が一番のハッピーエンドだった。

2009.01.06

イノセント・ゲリラの祝祭

イノセント・ゲリラの祝祭  海堂 尊 2008 宝島社

こんなに不吉な予感がいっぱいで終わられると、どうにも居心地が悪くなる。
不吉な予感は『螺鈿迷宮』から感じていたが、この巻を読んでますます強くなった。
「野性時代」の特集インタビューを斜め読みしたが、このシリーズはもともと桜宮市の医療崩壊を描く三部作だったと書いてあったと思う。
そうなのだ。いずれ崩壊していくことへの予感が、怖い。

田口&白鳥コンビの復活ということで、楽しみに読み始めて、あれれ?と思った。
なんか、田口のキャラ、こんなんでしたっけ?
口調が速水っぽい。昼行灯っぽくないです。へたれ要素が減ってます。
違和感を感じつつも、田口が厚生労働省の会議の委員に引っ張り出されるまでの前半は、テンポのよい会話に笑わせられながら、するすると読み進んだ。
田口もいいけど、白鳥も楽しいけど、加納さんが想像して楽しい。もちろん、高階タヌキ院長も。
あと、すみれの香りが漂う場面では、しんみりとしてしまった。

後半は厚生労働省の会議の連続。噂に聞く恒例の行事が出てきて苦笑いする。
こういうことが現にありそうなところが、滑稽でも苦々しくて笑い飛ばせない。
会議となると、当然、登場人物も飛躍的に増える。各科の医師、法医学者、医療事故被害者遺族、厚生労働省、マスコミ、法曹界、司法省に内閣府……。
各立場が入り乱れての議論は、まるでなにかの前哨戦だ。この物語はここで終わらない。
立ち上がったゲリラは、自らの失敗を予期しつつ、それでも立ち上がらずにはいられないのだから。

社会批判性の強さにひやりとした。
官僚主義に対する批判は舌鋒鋭く、かつ、皮肉たっぷりだ。
これは小説じゃないと書けない。創作だから許される。うかつに書くと後が怖そう。
そんな風に感じてしまう私の感性は、それだけ官僚主義社会を信頼していないということである。
そんな風に感じてしまう文章を書き上げた作者が、イノセントなゲリラを企図しているのだと思う。

臨床は体力だ。
医師は、つくづくと肉体労働だと思う。拘束時間は長く、要求される業務は多い。公共の福祉のため、無償で要求される業務もある。責任は重く、失敗は社会的に許されない。
だが、人は必ず死ぬ。人は老いる。傷つく。医療は完璧ではない。そのことを忘れるユーザーもいる。
医療が完璧であるというファンタジーは、時に治療者も持つことがあるので、それはそれで要注意なんだけど。
とはいえ、これでますます給料が安くなったり、当然の結果でも裁かれるようなことが増えれば、医療従事者がばからしさに仕事を放棄したくなるのもむべなり。という気がする。

こんなことを書いている私は、しかし、医療に対する不信もある。あれは医療過誤ではなかったのか、と疑いを持つことがいくつかある。
しかし、死者が焼かれた後になっては、何も確かめようがない。
入院患者が、左の部屋から順番に感染症で死んでいったのは、施設に問題はなかったのか。
解熱剤の長期投与により、血液が凝固せず、傷が治りにくかったことが、胃を摘出した患者の死を早めたのではないか。
なぜ、最後の最後、本人も意識が朦朧とする中、家族にも何も説明せず、モルヒネの量を勝手に増やしたのだ。誰が了承したのか。勝手に安楽殺しただけではないのか。
人が死ぬのは当然の事象であると受け止めていても、そこに人間の過失や意図が紛れ込んでいなかったか、家族はとてもナーバスになるものなのだ。
そこに回答するサービスは、私個人は、まだ受けたことがない。

今のままで医療ユーザーが無関心を保つとどういうことになるか。そんなカタストロフを作者は用意しているのではないか。
なぜかならば、作者は一貫して、現在の医療が抱える苦境を小説を通じて訴えてきた。
作者はミステリーを書きたいのではない。警告を放つ訴状を書きたいのだと、私は感じている。
最も強い警報の一つが、現状の維持の将来像を呈することではないだろうか。
だから、期待はせずに次を待ちたい。再生は死が前提であることを思い出しつつ。

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