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2008.12.16

私という病

私という病 (新潮文庫)  中村うさぎ 2008 新潮文庫

かっこいいと思った。
自分を切り開き、切り刻み、さらけ出す作業は、しんどいこともある。
時には軽い口調で楽しんでいるように見せかけながら(それは躁的な防衛にも見える)、容赦なく自分自身を追い詰める姿勢は潔く凛々しい。
本になるのは、作者の意識が公表してもよいと許した部分であり、無意識の検閲の入った安全な内容であろうと思う。彼女の心の百パーセントを求めるのはナンセンスだ。
露悪的であると本人は書くが堂々と言語化してみせるところや、その言葉は自分の責任において紡ぐものだと断固として背負ってみせるところに、好感を持った。自らから目を背けない、勇気のある人だと思った。
だけど、少し、痛い。イタいとカタカナで書くのではなく、漢字で痛い。痛々しい。私自身が痛みを感じる。

『女という病』に続けて読んだ。作者は、前掲書で「女の自意識は、それ自体、病である」と問題設定していた。
『女という病』が「『女』の自意識は病である」という部分を取り扱っていたのに対して、この『私という病』はいわば「女の『自意識』は病である」という部分を取り扱ったのだと思う。
そういう意味で、より深化した自己分析であり、より進化した論である。
女であることは、女性とは共有しえても男性とはなかなか共有することが難しい問題である。トランスジェンダーの人たちを除外する形で書いているが、大体において、ということで受け止めてもらいたい。
しかし、私であるという自意識が問題になってくると、より具体的・個別的・主観的な中村うさぎ個人の問題になると同時に、性別を超えて共有可能な余地というものも生まれるかもしれないではないか。

前半は、作者がデリヘルという「売る側」の実体験を、ハイテンションな口調で語る。単なる興味本位のルポルタージュではない。
やむにやまれぬ女性であるという自意識の問題から端を発する実験なのだ。そこまでやるかーっというツッコミは入れたくなったが、本人なりに安全に配慮して取り組んでいる様子も見て取れる。
しかし、途中から、「男という病」に触れざるを得なくなる。女性は、性的な対象として男性からまなざしを送られることで、容赦なく女性にされるのだ。そのことに無自覚な男というものに。
そこから、口調が変わり、論調が変わる。自己の中に内在化された男の目線と戦うモードに入ったように見えた。
もちろん、男性が女性に求め、認めるものは性だけではない。性的ではない次元での評価も大事なものだ。かといって、性的な次元を無視して軽視することは偽善である。

三十代になってからの恋愛は、なぜにかくもしんどいのか。
執着心が燃え上がり、もだえ苦しんでは、自分も相手もくびり殺そうとする。そんな厳しい恋愛に結局は心身の不調を呈する人が、身の周りに続いた。自分も含めて。
つらつらと考えていたのは、生殖の限界という問題点だった。これが最後と思い定める余りに、過度に必死になってしまったのではないか。
そこには、生殖の限界のみならず、女性としての賞味期限の問題というか、中村の言葉を使えば、「やらせてやる」立場から「していただく」立場への転落が視野に入ってきたことも、少なからず影響していたのだろう。
これを逃せば、次があるとは限らない不安。そんな風に勝手に解釈したら、友人たちは怒るだろうか。少なくとも、私にはそういう要素があったんだろうなぁ……。

しかし、私の中にも根深い男性への復讐心があることも認めておこう。
男性には力ではかなわない。暴力や暴言への恐怖心、嫌悪感、不信感といったものは、今では馴染み深い感覚となり、男性とは性的な距離に近づかないことで生活に支障を与えない程度に過ごすことはできている。
近づきすぎると、これがまた、私の中の特殊なモードにスイッチが入るので後片付けが大変になるのだ……。これが、反動形成ってやつか!?
おまけに、私は実践主義者だ。自分が体験しないとわからないと割り切っている。さすがに風俗を体験しようとは思わない臆病者であるけれども、この本を読むにつけ、作者に「先輩~っ」と泣きつきたくなるようなシンパシーを持った。
作者にしてみればいい迷惑だとは思うけれど。

いや、男性への復讐心があることを認知し、受容してからは、そうはならずにすむ関係を模索することもできるようになった気がしている。
私が復讐したかった相手は、過去の知り合いであり、過去の見知らぬ男性であって、目の前の友人や恋人ではないからだ。
その点、言語化するということは、京極夏彦が描くように魔を払う行為に等しい。正体不明のものに「枯れ尾花」と名づけることによって、幽霊の正体がなくなり、恐怖心を抱く必然が消える。
身体感覚や情緒といったわけのわからなぬものに言葉を与えていくことによって、思考というプロセスで操作可能な素材に処理することができるのだ。
だから、私は、こういった文章を書いた中村の、その次に興味を惹かれる。この人も、いつか少しは痛みがやわらぐといいなぁと願う。

読み終えて、困ったことに、なんとか育てようとがんばっていた恋心めいたものが、しゅるしゅると小さく薄れて消えてしまった気がした。
ああ、やっぱり、所詮、私には無理なのだ。どんだけ友人に口をすっぱくして言い聞かせられようとも、当たり前のことを当たり前にこなすことが、とてつもなく難しいのだ。人には適性ってものがあるんだから、向いていないものはしょうがないのだ。
でも、だからこそ、あえて、男性の力強さに憧れる自分自身もいるわけで。どっちも私なんだからしょうがないやってところで、うだうだ毎日を生きていくしかなかろう。
女になりたくなかった私と、女になりたがる私と、どちらも私。私の心と体の主人は私。その座を誰かに譲ることはできない。
こうして、私は、私自身にひきつけながら、この本を読んだ。とことん、私という自意識に問題を置いた本なのだから、読み方として間違っていないと思う。とても身近なところで触れ合うような作者の感性に、今後も注意を払っていきたいと思う。

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