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香桑の近況

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2008年12月

2008.12.31

発達障害かもしれない:見た目は普通の、ちょっと変わった子

発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子 (光文社新書)  磯部 潮 2005 光文社新書

宿題のための準備その2。
先に読んだ杉山登志郎『発達障害の子どもたち』の記憶が薄れないうちに、慌てて借りて読んだ。
発達障害については、専門家によって説明が微妙に変わる印象がぬぐえない。説明から思い浮かばれる病態像が、どうもぶれてしまうのだ。
私があまりにも知らないせいかもしれないし、人によって見方が違うせいかもしれない。概念が新しすぎて、定説が定まっていないせいかもしない。
あるいは、発達障害というものを、中核になる古典的な自閉症らしい自閉症を中心に描写するか、それとも辺縁にある多様な発達の偏りを視野に入れて描写するか、その違いのように感じた。
たとえば、これはまったくの個人的な印象であるが、今回読んだ磯辺は前者、先日読んだ杉山は後者という印象である。

どちらが正しいとか、どういうのが良いとか、判じることは私の手に余るが、言葉の持つ幅にある程度は敏感でありたいと思う。
同じ言葉を用いていても、それをどのような定義で用いているのかが異なるとき、会話はたやすくすれ違う。
だからこそ、言葉の定義を明確にすることは重要である。その言辞が診断名であるならば、その診断基準を。
本書は対応や治療についての記述は少ないが、DSM-ⅣとICD-10の診断基準を丁寧に紹介しながら、自閉症、高機能自閉症、アスペルガー、LD、ADHDを解説してある。
どのような基準を持って診断がなされているのか知りたい人には、一挙に紹介されている点で便利であろう。
実際例を、医師である著者、当の本人、その家族の三者の目線で言述しているところは目新しく、興味深かった。

個人的には、診断基準を読むと眠くなるのです……。
私がDSM-Ⅳを読んでいて面白いのは、それぞれの疾患の概念や鑑別ポイントが書いてあるあたりだ。DSMは決して、箇条書きの診断基準の羅列だけで構成されているわけではない。
この基準だけを見て自己判断することは不適切だと思うが、心当たりが生じれば専門家に相談するよい契機になるとも思う。

もう一つ個人的には、自閉症というよりも、広汎性発達障害の単語のほうに馴染みつつあるため、本書が出版されてからの3年間の時間経過を大きく感じた。
メチルフェニデートがADHDの治療薬として紹介されているが、本書より後に、悪用する大人たちへの対応のため、使用が非常に制限されてしまった。
また、特別支援学級をめぐる法的な整備をめぐり、現在は特に、中核的な自閉症には該当しなくともなんらかの発達の偏りがあるケース全般への対応が迫られている。
そういった状況の変化も計算に入れつつ、情報には接していかなくてはならないだろう。

本書は就職や結婚について、同胞や出産についての問題点も明記しており、耳に心地よい情報ばかりではない。
著者が臨床家として出会ってきたケースの数々の中で、ここには書かれていない様々な心痛があっての苦言であろうと思われた。
本人の性格の問題でもなければ、保護者のしつけの問題でもない。ただ、外見ではわからないところに苦手なものがあって、それもある程度は克服可能な苦手を持っているだけだということ。偏見や誤解が減じ、適切な対処がなされることを祈っている。

2008.12.30

ひかりの剣

ひかりの剣  海堂 尊 2008 文藝春秋

最初は読みたかったはずの本が、非常に読みにくくて挫折しかかった。
同じ作者の本を読み続けて飽きてきたというのもあるし、『螺鈿迷宮』が重かったというのもある。
なにより、清川吾郎が苦手で……読むのがしんどかった。『ジーン・ワルツ』を読んだら変わるのかなぁ。
これだけを読んでも面白いかもしれないが、やはり他のシリーズとあわせて読むほうが、魅力倍増だと思う。

速水はいいんです。速水だから。
田口も島津も出てくるし、若かりし頃の、やっぱりタヌキな高階さんも出てくるから、そこは楽しい。
高階院長のあだ名に親近感。若い頃から食えない人だった上に、凄みの元が垣間見えたのがファンとして嬉しい。
麻雀の場面がちょこちょこと出て来るが、そういう学生らしい場面が微笑ましかった。

速水晃一と清川吾郎。性格も剣筋もまったく異なる二人が、ほとんど交互に別々に物語を進めていきながら、最後の対決へと盛り上がっていく。
この作りは『武士道シックスティーン』『武士道セブンティーン』を思い出した。好敵手を描くなら、これが一番なのだろう。
同時に、この二人は部の主将としてチームを育てる方法も、異なっていく。そのあたり、後に速水が東城大学病院のERで組織作りした様子を思い起こさせる。
剣道は、一人と一人の対決であるだけでなく、チームとチームの対決でもある。

そこに、スポーツではなく、真剣の世界を持ち込むのが高階だ。
剣道の世界で終わるのではなく、その外にある医療の世界を体感させる。臨床というのは、つまり、真剣勝負に他ならない。特に、手術室の中では。
対決する前から逃げ出すような性根や、しがらみに雁字搦めになって本領を発揮することをためらうような性根では、一瞬の好機を掴み、奇跡を引き寄せることはできない。
治療の現場で真剣になれないような医師はいらない。それが高階の発するメッセージではないだろうか。
その高階という先輩に、二人の天才が本物として磨き上げられる過程を描いたのが、この本だと言えよう。

気になるのは、「獅胆鷹目」の意味の続き。教えてもらえるものは、とりあえず、聞いておこうよ。田口氏。
これまで何度かがんの告知や病状説明に立ち会ったことがある。医師によって説明の仕方や口調は異なる。
死期を伝えることを苦にして涙ぐみつつも重要なことをきちんとインフォームしてくれた医師もいれば、歯に衣を着せぬ説明の末に最後に苦い顔で首を振った医師もいた。何重にも真綿にくるんだ耳に優しい言葉の羅列のうちに、大事なことを煙に巻かれて、慇懃無礼な印象しか残らなかった医師もいる。
どのような接し方、伝え方がよいかは、医師と患者およびその家族との相性の問題も大いにあるのではないか。
私はどっちかというと、すっぱりきっぱり言ってくれた方がいいな。言葉を飾ればよいというものではない。誠実さは、言葉以外のところで伝わるものだ。

それにしても、現在の医療界の苦境は、これだけの時間をかけて作り上げられてきたのか。
構造改革と叫ぶのは簡単であるが、どのような哲学をもって、どのような制度にしていけば、医療は成り立っていくのだろう。
深い溜め息が出た。

 ***

「獅胆鷹目」の続きは、海堂尊ファンさんのサイトで教えてもらいました。お知りになりたい方は、下記TBからどうぞ。

2008.12.26

発達障害の子どもたち

発達障害の子どもたち (講談社現代新書)  杉山登志郎 2007 講談社現代新書

発達障害という言葉が普及したのが、いくつかの事件の報道が契機となったのは、残念なことだ。
子どもたちの才能や素質の多様性を表現する概念の一つだ。多様性を分類して形骸化するためではなく、多様性を無視して画一化するためでもなく、多様なモノを多様に取り扱うための鍵になるものだ。
ただし、鑑別の難しさや対応可能な範囲の問題など、知識と経験が必要であるからこそ、私は下手に手出しすることは難しい気がしている。気軽に論述することも難しい。

知的な障害は、子どもの身体の表面に表れる障害ではないが、障害の程度と領域による分類がある。
精神遅滞と境界知能、自閉症、アスペルガー、ADHD、学習障害、更に虐待から二次的に生じる発達障害まで、本書が紹介する状態像は多様である。
それぞれに事例を加えてあるため、診断基準を読むよりも、具体的にイメージしやすいものとなっている。文章も平易で、読みやすくわかりやすい。
更に、生まれつきか環境かという誤解のもととなっている原因論を踏まえて、早期療育のコツや特別支援教育、薬物療法までを含む対応の概観を示す。

子どもに関わる人はすべて読んでほしい。言い換えれば、すべての大人に、という意味である。
子育ての最中の人もいれば、教育領域、福祉領域、医療領域、行政領域、司法領域……ありとあらゆる人が子どもと直接的、間接的に関わっているはずである。
特に、「国語力の不足が内省の不足をもたらし、多動に拍車をかける」(p.167)という指摘は、教育行政に関わる人たちに意識しておいてもらいたい。
しかも、発達障害であった子どもたちも、やがて大人として生活を送る。すなわち、誰にとっても他人事ではなく、隣人を理解するために知っておいてもらいたいことが満載だ。

子どもは育つ力を持っている。大人よりもはるかに大きな変化する力を持っている。
得手不得手があったとしても、そこを補いながら自分の力をよりよく発揮できるように育つことができる。
十分な能力を持ち、十全な教育を受けて成長してきた大人でさえ、年を取るうちに心身の能力は衰えて、他者の力を借りずに生活することが難しくなることも珍しくはない。
どちらの意味でも、人間の能力は不変ではないのだ。だから、障害の診断は未来を否定するものではないことを知っていて欲しい。
適切で十分なサポートがあれば、自立して適応的な生活を送る可能性が増す。そんな著者の祈りを感じた。

発達障害とその周辺は、避けて通ってきた。
しかし、いずれは勉強しないといけないと思い、買っておいた本。
買ったまましばらく積んでいたが、いよいよ差し迫った必要性から、一夜漬けのように読んだ。
うーむむむ。やっぱり、避けては通れないなぁ。重要なトピックだものね。もうちょっと取り組まねば。

2008.12.18

彩雲国物語(17):黒蝶は檻にとらわれる

彩雲国物語  黒蝶は檻にとらわれる (角川ビーンズ文庫)  雪乃紗衣 2008 角川ビーンズ文庫

物語はいよいよ佳境に入っているんじゃなかろうか。
あんな伏線、こんな登場人物、入り乱れての陰謀の気配。
朝廷での注目を集める秀麗。高まる評価と不満。
ますます劉輝は孤立し、苦境は険しくなる一方。
悠舜と晏樹の不穏な言動。得体の知れぬ黒幕。
そして、紅家・紅州にも激震が走る。

なんだか皇毅が可愛いんですけどー。
上司だと大変だけど、大変可愛いんですけどー。
イラストの登場回数も多く、珍妙な表情を見ることができました。ふふふ。
私の中で株が上がりました。奇人をしのいで一番のお気に入りになりそうな勢い。
いや、忘れていました。一番のお気に入りは、邵可パパでした。
なんと言っても、糸目の開いた邵可パパはかっこよく美味しいところを持って行ってくれるのです。

この作者、一冊目を書いたときに、どこまで思い描いていたのでしょう。
ようやく出た新刊はいつもより分厚い。
登場人物の多さに混乱しそうになるが、なかなか全容が見えてきません。
新しく出てきた登場人物も、個性的で、変わり者で、インパクト大。
いつのまにか複雑な重層構造の物語になっていることに舌を巻きました。
厚さにかかわらず、ついつい先を急ぎたくなる面白さに、またも一気読み。
その上、こんな終わり方をするなんて。

先を読ませろーっ。
次の巻はなるべく早くお願いしますです。

2008.12.16

私という病

私という病 (新潮文庫)  中村うさぎ 2008 新潮文庫

かっこいいと思った。
自分を切り開き、切り刻み、さらけ出す作業は、しんどいこともある。
時には軽い口調で楽しんでいるように見せかけながら(それは躁的な防衛にも見える)、容赦なく自分自身を追い詰める姿勢は潔く凛々しい。
本になるのは、作者の意識が公表してもよいと許した部分であり、無意識の検閲の入った安全な内容であろうと思う。彼女の心の百パーセントを求めるのはナンセンスだ。
露悪的であると本人は書くが堂々と言語化してみせるところや、その言葉は自分の責任において紡ぐものだと断固として背負ってみせるところに、好感を持った。自らから目を背けない、勇気のある人だと思った。
だけど、少し、痛い。イタいとカタカナで書くのではなく、漢字で痛い。痛々しい。私自身が痛みを感じる。

『女という病』に続けて読んだ。作者は、前掲書で「女の自意識は、それ自体、病である」と問題設定していた。
『女という病』が「『女』の自意識は病である」という部分を取り扱っていたのに対して、この『私という病』はいわば「女の『自意識』は病である」という部分を取り扱ったのだと思う。
そういう意味で、より深化した自己分析であり、より進化した論である。
女であることは、女性とは共有しえても男性とはなかなか共有することが難しい問題である。トランスジェンダーの人たちを除外する形で書いているが、大体において、ということで受け止めてもらいたい。
しかし、私であるという自意識が問題になってくると、より具体的・個別的・主観的な中村うさぎ個人の問題になると同時に、性別を超えて共有可能な余地というものも生まれるかもしれないではないか。

前半は、作者がデリヘルという「売る側」の実体験を、ハイテンションな口調で語る。単なる興味本位のルポルタージュではない。
やむにやまれぬ女性であるという自意識の問題から端を発する実験なのだ。そこまでやるかーっというツッコミは入れたくなったが、本人なりに安全に配慮して取り組んでいる様子も見て取れる。
しかし、途中から、「男という病」に触れざるを得なくなる。女性は、性的な対象として男性からまなざしを送られることで、容赦なく女性にされるのだ。そのことに無自覚な男というものに。
そこから、口調が変わり、論調が変わる。自己の中に内在化された男の目線と戦うモードに入ったように見えた。
もちろん、男性が女性に求め、認めるものは性だけではない。性的ではない次元での評価も大事なものだ。かといって、性的な次元を無視して軽視することは偽善である。

三十代になってからの恋愛は、なぜにかくもしんどいのか。
執着心が燃え上がり、もだえ苦しんでは、自分も相手もくびり殺そうとする。そんな厳しい恋愛に結局は心身の不調を呈する人が、身の周りに続いた。自分も含めて。
つらつらと考えていたのは、生殖の限界という問題点だった。これが最後と思い定める余りに、過度に必死になってしまったのではないか。
そこには、生殖の限界のみならず、女性としての賞味期限の問題というか、中村の言葉を使えば、「やらせてやる」立場から「していただく」立場への転落が視野に入ってきたことも、少なからず影響していたのだろう。
これを逃せば、次があるとは限らない不安。そんな風に勝手に解釈したら、友人たちは怒るだろうか。少なくとも、私にはそういう要素があったんだろうなぁ……。

しかし、私の中にも根深い男性への復讐心があることも認めておこう。
男性には力ではかなわない。暴力や暴言への恐怖心、嫌悪感、不信感といったものは、今では馴染み深い感覚となり、男性とは性的な距離に近づかないことで生活に支障を与えない程度に過ごすことはできている。
近づきすぎると、これがまた、私の中の特殊なモードにスイッチが入るので後片付けが大変になるのだ……。これが、反動形成ってやつか!?
おまけに、私は実践主義者だ。自分が体験しないとわからないと割り切っている。さすがに風俗を体験しようとは思わない臆病者であるけれども、この本を読むにつけ、作者に「先輩~っ」と泣きつきたくなるようなシンパシーを持った。
作者にしてみればいい迷惑だとは思うけれど。

いや、男性への復讐心があることを認知し、受容してからは、そうはならずにすむ関係を模索することもできるようになった気がしている。
私が復讐したかった相手は、過去の知り合いであり、過去の見知らぬ男性であって、目の前の友人や恋人ではないからだ。
その点、言語化するということは、京極夏彦が描くように魔を払う行為に等しい。正体不明のものに「枯れ尾花」と名づけることによって、幽霊の正体がなくなり、恐怖心を抱く必然が消える。
身体感覚や情緒といったわけのわからなぬものに言葉を与えていくことによって、思考というプロセスで操作可能な素材に処理することができるのだ。
だから、私は、こういった文章を書いた中村の、その次に興味を惹かれる。この人も、いつか少しは痛みがやわらぐといいなぁと願う。

読み終えて、困ったことに、なんとか育てようとがんばっていた恋心めいたものが、しゅるしゅると小さく薄れて消えてしまった気がした。
ああ、やっぱり、所詮、私には無理なのだ。どんだけ友人に口をすっぱくして言い聞かせられようとも、当たり前のことを当たり前にこなすことが、とてつもなく難しいのだ。人には適性ってものがあるんだから、向いていないものはしょうがないのだ。
でも、だからこそ、あえて、男性の力強さに憧れる自分自身もいるわけで。どっちも私なんだからしょうがないやってところで、うだうだ毎日を生きていくしかなかろう。
女になりたくなかった私と、女になりたがる私と、どちらも私。私の心と体の主人は私。その座を誰かに譲ることはできない。
こうして、私は、私自身にひきつけながら、この本を読んだ。とことん、私という自意識に問題を置いた本なのだから、読み方として間違っていないと思う。とても身近なところで触れ合うような作者の感性に、今後も注意を払っていきたいと思う。

2008.12.15

女という病

女という病 (新潮文庫)  中村うさぎ 2008 新潮文庫

乗り移るのか、乗り移られるのか。
13件の女にまつわる事件。その被害者に、その加害者に、作者は寄り添いながら、女の物語をつむぐ。
それは、とりもなおさず、「私の物語」であると作者は高らかに宣言する。
この前書きを読み違えてはならない。この前書きに、作者の真摯さと切実さを感じる。
これは女の物語であり、中村うさぎの物語であり、読み手である私の物語となる。

中村うさぎ。
この名前を知ったのは、彼女がジュヴナイルもののファンタジー小説を書いていた頃だ。
「ザ・スニーカー」が創刊されてすぐの頃じゃないだろうか。彼女のエッセイに、安永航一郎がイラストを描いていた。
内容は買い物依存のエピソードだったと思うが、以来、中村うさぎの名前を見るとあのときのイラストが必ず思い浮かぶ。たぶん、ビンボー日記のシリーズだ。
でも、彼女の小説は読まなかった。それがちょっと残念に思えた。この本を読んで。
彼女の知性と理性にしびれた。

「女の自意識は、それ自体、病である」(p.3)
なるほど。
女である。ただそれだけのことが、とても苦しいことがあるのだ。私はよく知っている。その苦しみをここまで言語化した人がいたことに、驚いた。
ああ。
ここにも私がいる。そこにも私がいる。もうひとりの私、今の私がならなかった私、私が選ばなかった私がいる。そんな親近感を覚えることを禁じえない。
裏返せば、女である、それだけで、いくらかのシンパシーを共有しうるということだ。
なぜかならば、同じ病を持っているということだから。

小説の手法で主人公の心情に読者をひきこみながら、それでも彼女を断罪できる?と見つめられているような感じがした。
単なるルポルタージュを読むよりも面白く、露悪的かもしれないが良心的で、ある種の潔癖さを感じる。他者を描きながらも、自分自身の自由と責任において、身一つで戦おうとする高潔さを感じる。
作者は、小説家であって、社会学者でもなければ心理学者でもない。解説で指摘されていることであるが、おおよそフェミニズムの範疇に入るないようでありながら、客観性をなんとか確保して学問と成り立たせようとした文章ではなく、とことん主観性を大事にした血と肉の通った言葉が紡がれている。
詩人の直観に満ちた言語は、思考に基づく言葉がふるい落としがちな身体感覚や情緒の次元を汲み取り、言葉にしてみせるのだ。これはすごい才能だと、私などは思うのだ。

「欠落」と「過剰」をキーワードに、中村は女性を観察し、分析し、理解する明確な枠組みを有していることを感じる。
中村は、13件の事件に関わる女性たち(一つの事件に登場する女性は一人と限らないので13人ではない)を合わせ鏡にして、自分をあぶりだす作業をしているので、この本は自己分析のプロセスとして読むことも可能である。
そして、自己分析であるからこそ、読み手に迫る説得力があるのだと思う。おそらく、彼女自身の体験をベースに想像を膨らませており、作者が自分自身の体験を語ろうと振り絞っているがゆえに、生半な反論を許さぬ説得力を有したのだと思う。

女であることは、私にとって、病ではなく呪詛であった。
いつからだろうか。長らく、私はそう感じてきた。今もまだ少しはそう思っている。
病のように私の内側に深く刻み込まれているが、この傷は外から与えられたものであるので、病ではなく呪詛だ。
これは、男にはわからないという絶望をもたらす呪詛である。
でも、女にわかりあえるかもしれない人がいるのなら、まあ、いいか。

2008.12.08

烏金

烏金  西條奈加 2007 光文社

上品な時代劇だ。
嫌なやつも出てくるし、人も死ぬ。売買春もあれば、虐待だって。
それでも、どこか上品な空気が漂う。
謎だらけの主人公、浅吉の人品のよさが、物語の健全さを支えているのだ。
一工夫も二工夫もされた設定と物語は、無駄がなくて面白い。

世の中、貯めちゃいけないものが二つある。と、私は思う。
借金とストレスだ。他にも、部屋のごみとか、課題・宿題なんかも溜めちゃいけないんだけれども、とりあえず、借金はいけない。
とはいえ、世知辛い時代、借金を返せなくなることもあれば、借金をせざるをえないこともある。
ワーグナーのように借金取りから逃げるために海外に行き、踏み倒してはほとぼりが冷めた頃に帰国するような真似ができなければ、どうするか。

江戸時代には、いろんな金の貸し方があったようだ。期限によって、烏金、日済、月済、節季貸し。
貸すほうも、札差に始まり、浪人貸し、後家貸し、座頭金といった高利貸しなど様々で、江戸の暮らしを借金という視点から眺めることになる。
高利貸しのお吟の家に張り込んだ浅吉は、単なる借金取りになるのではなく、事業のコンサルタントとして人々に関わる。
まずは借金を整理し、現在の経営を見直し、時には新しく起業し、借り手に借金を返す素地を耕させることで、借金は融資に変わる。
手間はかかるが、借金の返し方、借金をせずにすむ暮らし方を指導することで、いつしか感謝される高利貸しになっていく。

なぜなら、浅吉は、借金を作った末の悲しみや苦しみを知っているから。
たった一人の人間の微力さを、よく知っている。それだけに、もどかしくもあきらめきれない願いがある。
この不況の真っ只中、たやすく借金を作ることを戒める物語は、とても現代的で身につまされるようだ。

町人衆だけではなく、お武家もまた経済難に陥っている。
人が心意気を持つには、どうすればよいのか。
体面に単にお金をかけることではない。義正殿という人物の、明朗で真っ直ぐな心映えが爽やかで魅力的だ。
この本は、金の亡者にならずに、いかによく生きるか、ということを投げかけてくる。

長く積んでいたけれども、読み始めたら早かった。
すんなりと引き込まれて、心がほんのりと温まるような気持ちのいい時間をすごせた。
西條さんの小説は、最後は収まるところに綺麗に収まる感じが、時代劇らしい。
甲州には行基様の植えた千年の甲羅を経た美貌の葡萄の精が眠るという……。(川原泉@『美貌の果実』)

2008.12.07

ウェイティング・ハピネス:図書館戦争DVD SPECIAL STORIES5

この作品を通じてこの場所を作りました。この作品を通じて知り合ったすべての人とともに、ここまで楽しめたことが幸せでした。

図書館戦争 【初回限定生産版】 第五巻 [DVD]  有川 浩 2008 DVD特典

かなりの無敵な玄田隊長がかなわない相手。
それは、おそらく二人しかいない。
一人は、折口さん。もう一人は、稲嶺元司令。

その後が気になる人たちのその後があますところなく書かれた短編だった。
隊長のファンとしては、ちゃんと書いてもらえて嬉しかった。
堂上班+柴崎は出てこない。彼ら若手を見守り、育ててきた大人たちの明日。

特殊部隊隊長と副隊長の居心地の悪い姿なんて、緊迫しているときには見られるものではない。
進藤も楽しかっただろうなあ。うんうん。
そいでもって、あの後、折口さんに泣かれて、隊長は困るんだ。きっと。

戦いの日々はまだまだ続くとしても、その先に見えるものがあるから。
戦いの日々がまだまだ続くからこそ、一人だけで戦い続けなくていい。
ともに横に並び立つ人。背中を守り支える人。そして、心の奥で語り合い続ける人。
待つ幸せもあり、待っている幸せもあるから。幸せが待っているから。

あの人も、この人も、みんな幸せに。
穏やかに、安らかに、和やかに、もっともっと幸せに。

この先のいつか未来に図書館戦争のファンになる人にも読んでもらいたい、本当のハッピー・エンド。

 ***

あー。ほんとに、終わっちゃった~。
こんなに幸せになる小説は、本当に久しぶりだった。子どものとき以来のような気がした。確かに私も満足です。
有川さんがほかに書いてくれる可能性があるとしたら、全集になるのを待つか、これら特典の短編を編集して『別冊Ⅲ』にして足りないページ分の補足をするとか。
それとも、『革命』を劇場版にしてDVDになったときにやっぱり特典に短編をつけてもらうしか、ないのかな?
うん。劇場化したら、それにあわせて『別冊Ⅲ』発売というのもアリだよね?(誰に訊いている……笑)

(DVD)図書館戦争5

図書館戦争 【初回限定生産版】 第五巻 [DVD]  アホか、貴様。
これが決め台詞になっちゃった堂上。
それもこの巻で聞き納めとなると、なんだか寂しい気がしてしまいます。

アニメは『図書館危機』の茨城県展まで、なんですよね。
どう落とし前をつけるのかと思ったら、微妙に『革命』が混じっているようなオリジナルな展開。
女子寮内のいじめの様子もしっかり入っていましたが、カミツレのシーンもしっかり。目を輝かせる堂上が可愛いの。

状況11「死闘!茨城県展警備」の戦闘前夜、小牧が良化隊員とコンビニで出くわすシーンがよかったです。
大量のドリンク剤が……なんだか気の毒というか……。現実感や生活感があって、アニメの中で良化隊側の事情が描かれるよいエピソードだった気がします。
稲嶺司令の辞任の展開、小説よりも納得しやすい形になっていた気もしました。
緒方さんのヴィジュアルが結構好きです。進藤がどの人かわからないうちに終わってしまいました。(^^;

うーん。堂上がそこまで思い出したくないほどのショックな体験をしたかというと、よくわからないわけで。
失認と遂行機能障害かぁ。視覚・聴覚のみならず、触覚刺激にも反応がなさそうで、どちらかというと無為自閉と言いたくなります。
こういう状況で、こういう状態になることは物語の手法ですね。現実にはあまり聞かない気がしました。
でも、郁ががんばったから、いいか。こういう終わらせ方をしたんですね。

特典映像は、緊急フォーラム。
うわさの匍匐前進もしっかり入っていました。堂上教官の告白シーンや『ドッグ・ラン』の朗読など、楽しかったです。
がんばれ、隊長。負けるな、隊長。

2008.12.04

三千世界の鴉を殺し(14)

三千世界の鴉を殺し(14)(新書館ウィングス文庫 131)  津守時生 2008 新書館ウィングス文庫

うふふー。
無精ひげのワンコに、なごみました。
文句たらたらでも世話焼き上手なかっこつけさん。
ルシファとマルチの論点ずれまくりなおばかな会話が好き。
気分転換にはぴったりです。

13巻までの話の展開が思い出せなくて、冒頭で「?」を大量生産。
前巻から一年。この話も途中のまま終わってしまうんじゃないかと不安になっていたところ、本屋さんをふらついていたら本に呼ばれました。
表紙を眺めて、しばし首をかしげる。これって、誰? あの人??

ということで、いよいよ、ルシファの前にアル=ジャアファル教授が登場。
無限大の変態さんっぷりの毒気にあてられた後に、サイコ・ドクターズやマルチを読むと一層なごむのです。
涙目のルシファとか甘えるルシファは確かに萌えですが、最近、マルチのほうが好きかも~。
二人とも、相変わらず長い一日で散々な目にあっています。

疲れたときには美形のワンコ達で萌えを補給なんて、自分の腐れ具合が心配になると同時に、自分のワンコ好きを再確認してしまいました……orz

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