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香桑の近況

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2008年9月

2008.09.30

プリティ・ドリンカー:図書館戦争DVD SPECIAL STORIES2

図書館戦争 【初回限定生産版】 第二巻  有川 浩 2008 DVD特典

このタイトルとピンクの表紙と来たら、柴崎麻子様。
読んだときの余りの衝撃に、レビューを書くこともすっかり吹っ飛び、数週間。
甘いというか、刺激物のような甘さというか、鼻血が出るかと思いました。
ぜんぜんビターな二人じゃないじゃん。
むちゃくちゃ、甘いじゃないか~~~っ。

『別冊Ⅱ』を読んだときに、何もないまま時間が過ぎている二人に驚きましたが、これじゃあ、しょうがないや。
柴崎のほうの問題で進展しないのだと思っていたら、手塚だ。
手塚は、郁を鈍感だと言っちゃいけない。鈍感さなら、郁の上をいっているぞ!
ここまでしておいてもわからないんだったら、柴崎も手をこまねくしかなくなるよねえ。

柴崎も手塚も、それぞれ違う意味で不憫かも。
いずれせよ、見捨てられなくてよかったね。>手塚弟

(DVD)図書館戦争2

図書館戦争 【初回限定生産版】 第二巻  パッケージを開いたところで、うひゃー♪
どうやら、アニメ版の堂上教官も気に入ってしまったようです。
「トップランナー」での前野さんの朗読を聞いて以来、はまっちゃった感じが。

だいぶ、柴崎にも見慣れてきました。はい。
でも、熊にたじろがない手塚は可愛くない……。
アニメの手塚は、へたれっぷりが少ないのが不満です。

原作をまるまるアニメ化することが無理だとはわかっていますが、もっともっと細かいネタまで、あれもこれも取り入れて欲しかったと欲が出てしまいます。

あ。DJCDの存在を忘れていた。
明日、聞こう……。

(短編)恋愛のカミサマ

有川 浩 2008 『まい・いまじね~しょん』 電撃文庫

お見舞いにいただいた本。
有川さんのところしか、まだ読んでいません。すみません。
だって、ぶあついんだものー。びっくりしました。
電撃文庫15周年記念企画なのだそうです。
同じイラストをもとに、複数の作家やイラストレーターが、物語を膨らませるという企画です。

さて、「恋愛のカミサマ」。
とっても可愛い。ものすごく可愛い。
高校生同士の恋愛に至るまで。
高校生同士って、有川さんには珍しいけど、じたばする感じは有川さんらしい。
相手が気になり始めて、どきどきわくわく落ち着かない感じを、ストレートに描く。

男の子の方に妹がいるのだけど、堂上兄妹って高校生のときはこんなだったのかなぁ。
そんな想像も膨らんで、余計に、にまにましてしまいました。

うっかりタイトルを『まい・じぇねれ~しょん』と勘違いしていたので、自分で探していたら手に入れられていなかったかも……。ありがとうございました。>杏子ちゃん

さーて、次はどの作家さんのを読もうかな?

夢の守り人

夢の守り人 (偕成社ポッシュ 軽装版)  上橋菜穂子 2007(軽装版) 偕成社

シリーズ3作目。
バルサが過去をたどる故郷の旅から新ヨゴ国に戻ると、呪術師や星読博士でも手をこまねくような事態が起きていた。
今度は、呪術師である老女トロガイの物語だ。子を失った母親たちの物語でもある。

悲しみというのは、やっかいな側面を持っている。
大事な人を失った悲しみは、ある種、免罪符のようなところがある。
「可哀想な人」というレッテルで、いろんなことが許されてしまうのだ。
逆に、大事な人を失ったのに十分に悲しんでいないと他者が判断したときは、糾弾されてしまうこともあるだろう。
その人が内面でどれほどの悲しみを抱えているか、感じ方や表し方はそれぞれであり、誰もが他者の内面を完全に把握できるわけではないにもかかわらず。
同じように、悲しみから早く立ち直ろうと懸命に振舞うことも、人によっては奨励するが、人によっては避難する。

悲しんでいる人自身も、悲しみを手放す時機を見誤るときがある。
悲しみを手放すことを、相手を忘れ去ってしまうような薄情な行為だと勘違いしている人は、悲しみにしがみつきやすくなるだろう。
だが、人は忘れる生き物であり、時間は未来へと流れるものであり、生々しい激情は、日常生活の中でゆっくりと柔らかで美しく澄んだものに醸造されていくものではないだろうか。
悲しみに支配されて日常のすべてがおろそかになる段階から、思い出せば悲しくほのかに憂鬱になるような切なさはあるものの、我を失うことなく思い出しては思い出をかみ締められるような状態へと、人は移り変われるものだと思う。
悲しみや苦み、怒りや憎しみがやわらぎ、薄れても、大事だった人を忘れることではなく、その人を心の中から失うことではないのだ。
いや、忘れてしまっては可哀想すぎる。喪失を抱えながら、生きていくしかない。

トロガイでさえ若い頃はあり、若いときの決定的な喪失が、彼女の人生の道筋を大きく変えた。
もしも、自分のあきらめてもあきらめきれない、しかし叶うことはない夢を、見ることができるとしたら、その夢から覚めることができるだろうか。
もしも、あの人生を生きていたら。
もしも、この選択を選んでいたら。
もしも、もしも、もしも……。
そんな心の迷いを描いたこの作品、やっぱり、子ども向けにしてはテーマがやけに深い気がするのだが。
この巻でも、幻想的な美しい景色が描かれており、夢を題するにふさわしかった。

バルサを気にいる人なら、マーセデス・ラッキー『女神の誓い』シリーズのタルマも気に入ってくれるのではないかと思っていた。
著者の後書きを読むと、トロガイの造形は、ラッキーの小説に出てくるシン・エイ・インという一族のシャーマンたちを思い出す。
あるいは、ジーン・アウルのエイラのシリーズや、趣味の民俗学やらなんやらを経て、巫女と書くと語感と字面のイメージが変わるけれども、シャーマンは閉経後の女性がなるもの、という印象が私の中にある。
そういうところでも、私はこのシリーズにも馴染みやすかった気がした。

この巻も一気読み。つい夜更かしをした。
手持ちはここまで。続きを買ってこなくちゃ。

2008.09.28

闇の守り人

闇の守り人 (軽装版偕成社ポッシュ)  上橋菜穂子 2006(軽装版) 偕成社

先にあとがきを読んだのと同じだが、家族から子どもに人気があるのは一巻、大人に人気があるのはこの巻だと聞かされていた。
うん。確かに。
読み始めたら止まらない。読み終わるまで、食事中も仕事中も持ち歩いた。

バルサの過去をたどる旅路だ。故郷をたどる旅路で、バルサは過去を振り返る。
舞台は、したがって、新ヨゴ皇国から青霧山脈を越えた、北方のカンバル王国に移る。
チベットやネパールを彷彿とするような山間部の国だ。
子どもの頃に離れたきりでは、土地勘もなかろう。そう思っていたら、ちゃんと地図を手に入れるところもあった。
読者にとってもありがたいことに、目次のページに地図がついている。用語集もついている。

王位継承に関わる陰謀は終わっておらず、形を変えて違う陰謀が動き続けていた。
そのあたりの人間模様、心模様も面白い。新たな事実がわかるたびに、人の心を縛っていた恨みや憎しみ、悲しみが、徐々に解きほぐれていく。

チャグムと過ごした時間が、バルサにとっても宝物のような体験になったことが、伺えるところもよい。
たとえ、自分自身の子どもではなくても、誰かを守り育む体験がバルサをも成長させた。
その体験を経てこそ、バルサの、養い親ジグロへの後ろめたさや、運命や境遇への怒りが、新たな目で見直されていく。
大事な人を失った悲しみを昇華する。その過程は、別離の経験を経てきた人のほうがぐっとくるのだと思った。

現世であるサグに対して、時折重なりあうナユグの景色は幻想的で美しい。
この巻では地下の水路が出てくるが、そのあたりも想像力を描きたてられるような景色だった。
だから、子どもが読んでもきっとわくわくするんだと思うけれども、子どものものだけにしておくにはもったいない。

さー、次。

精霊の守り人

精霊の守り人 (軽装版偕成社ポッシュ)  上橋菜穂子 2006(軽装版) 偕成社

家にあった本を読んで見ることにした。
家族が先に読み、勧められていたのだが、児童書と侮っていた。
読み始めて程なくして引き込まれる。面白かったのだ。

偶然に精霊の守り人となってしまった第二皇子チャグム。
帝から、異世界の化け物ラルンガから狙われるチャグムを守る、バルサとタンダ。呪術師トロガイと星読博士シュガ。暗殺者達。
子どもはチャグムに自分を重ね合わせるかもしれないが、私はバルサに。
様々な修羅場を切り抜けてきた、成熟した女性を主人公としても読めるところが、素晴らしい。
若さや美しさしか売り物にするものがない女性ではなく、確かな実力と努力がなければ続けられない用心棒を稼業とする女性。
信頼を得られる人柄でなければ、やはり続けるのは難しい稼業であろう。

けわしい逃避行が語られるのかと思ったら、隠れ住む一冬を描いているところもよかった。
悲惨にならず、非情な暴力も少ない。チャグムをはさみ、バルサとタンダの三人で過ごす生活は、擬似親子のような温かみも感じられる。
チャグムにとって、かけがえのない家出=ホームステイ体験になっていくのが見えるようだ。
物語の中では確実に時が流れていく。その時の長さを、最後にバルサが噛み締めるシーンが、印象的だった。

奥付によると、著者はアボリジニを研究しているとのこと。
確かに、アボリジニやマオリ、ネイティブアメリカンなど、精霊の生きている文化を想起した。
新ヨゴ皇国の歴史や、ニュンガ・ロ・イムやヨナ・ロ・ガイといった名称の音感から、私はそういう印象を得た。
日本の文化だけを土壌としていては生まれ出でないのではないかと思えるほど、文化の多様性を感じる。
それぐらい、しっかりと作りこまれた世界に、降り立つことができる。ページを開くだけで。

たまらず、読み終えてすぐに次巻を手に取った。

龍の棲む家

龍の棲む家  玄侑宗久 2007 文藝春秋

タイトルが目に付いたので買ってみた。
クリス・ダレーシー『龍のすむ家』の2巻を探しに行ったときのこと、隣の隣の書棚にあったのだ。
一文字違いのタイトルを並べてみたくなった。もちろん、中身はまったく関係ない。一文字の違いは大きい。
それにしても帯がないとバランスの悪い表紙だ。

老いゆく父と同居することになった主人公男性、幹生。
母親は既になく、幹夫自身も単身。兄は隣家に住むが、影は薄めだ。
認知症(作中では痴呆症)の描写が丹念だ。徘徊やものわすれ、物盗られ妄想といった描写は比較的たやすい。
この著者の描写が丹念であり、上手だと思ったのは、会話の微妙なかみあわなさ、である。
言葉の次元ではかみ合うことが減っていく親子の会話。心は言葉に振り回されやすく、親子の関係そのものが壊れていくと感じる人もいるだろう。
そこを、あえて、「言葉の意味を超えて通じ合う何物か」を模索して、提示してみせる。

家族が祖母の認知症に気付いたとき、私の家族では「まだらぼけ」と言い表した。
ふとした瞬間にはまったく普通に会話が成り立ち、認知症を感じさせないが、違う瞬間には会話がかみ合わず、こちらが混乱させられる。
梨木香歩『エンジェル エンジェル エンジェル』も、そういう行ったり来たりを絶妙に表していた。
いささか教科書的に感じるほど、よく調べてあるものだと思った。認知症の進行の様子や対応の仕方なども含めて、思慮深く再構築されている。
佳代子の存在といい、小説だから起きる幸運もいっぱいなのだけれども、いつかくるときを思い描く手がかりに広く勧めたい本だ。

共通の形式を措定し、分類し、整理するのは、多種多量の情報を把握できるサイズに圧縮するための、マクロな思考法だ。
しかし、実際の臨床の場面は、ミクロな実践法が必要であり、圧縮したものを解凍し、個に対応しなければならない。
介護には、知識だけでは不十分だ。根気強い、忍耐強い、行動が要請される。
自然、主人公の父親に自分の父親が重なり、主人公と同じ境遇に自分が置かれたときを考えずにいられなかった。

2008.09.26

龍のすむ家

龍のすむ家  クリス・ダレーシー 三辺律子(訳) 2003 竹書房

「下宿人募集―ただし、子どもとネコと龍が好きな方。」

すずなちゃんのブログBookwormで、この一文を読み、この本を飛びつくように買った。
そのわりには、一年以上も積み重ねていたが……。

いかにもイギリスらしい風合いのファンタジーだ。
家の中、近所で起こるファンタジー。
世界を揺るがすような大きな魔法が出てくるわけではないけれども、身近なところにも魔法があるかもしれないとわくわくするようなファンタジーだ。
ガウェインやグウィネヴィアという竜の名前を見ても、イギリスらしくて嬉しくなった。
個人的には、マリオン・ジマー ブラッドリー『アヴァロンの霧』を読んで以来、グウィネヴィアは女王の器じゃないと思っていたりするけれど……。

これは、内なる炎(原題 The Fire Within)の物語だ。
龍そのものが主人公ではなく、ひそかに龍がすんでいるような家に住んでいる、どこか風変わりな家族と、主人公デービットが出会う。
竜は内側に炎を燃やしているものだが、主人公だって情熱という炎を持っているのだ。
主人公はガズークスという形を得て、自分の内なる炎が文章を書くことに向いていることを知り始める。

ネコは物静かな英雄だが、子どものほうは落ち着きがなく聞かん気の強いお嬢ちゃん。
子どもの目線で読んだら、大人がなかなか言うことをきいてくれないもどかしさに共感するかもしれないが、大人の目線で読むと「少しは落ち着けー!」とルーシーに言ってしまいそうになる。
その母親だけあり、下宿の主人リズもかなり気が強い。怒ったときは手ごわい。
リズに竜とくると、中山星香『花冠の竜の国』という昔懐かしいマンガを思い出した。
もう一つ、物語に欠かせず、出番が多いのが、広場や公園のハイイロリスたちだ。
ルーシーの内なる炎は、もっぱらリスたちに向けて燃やされており、主人公も巻き込まれていくのだ。

子どものとき、人形や置物と話せた人はいないだろうか?
あなたの心の中の友達だったぬいぐるみや人形はなかったたか?
その声を聞くことができるのは、あなたしかいなかったとしても、心の友と一緒に心の中で冒険の日々を送った思い出を、かすかに憶えてはいないだろうか?
おそらく子どもたちなら、きっと自分だけの特別な竜を見つけることができるに違いない。
もしかしたら、大人だって。
というか、私も特別な竜が欲しい~~~。

読み終えても小さな竜たちには謎がいっぱい残されている。
秘密を知りたければ、二作目を読むしかないらしい。
アイリッシュ・パブでシェパーズパイを食べたら、次作にとりかかる準備完了。

(短編)桜の樹の下で

梶井基次郎 1967 『檸檬』 新潮文庫

「檸檬」を読み終えた後、ほかのタイトルを目次で確認しているときのこと。
ん?と、目が留まった。えーと、もりみーが解題したのはなんだっけ?
慌てて『新釈 走れメロス 他四篇』を取り出して確認する。
そっちで遣われているのは、坂口安吾『桜の森の満開の下』。
なんか、タイトル、似てない?? ちょっと混乱してしまった。

たった4ページの、とても短い文章である。短編というより、散文詩。
うわべばかりの美では飽き足らず、惨劇を必要とする心性の、憂鬱。
先日読んだ、乙一『GOTH』を想起する。それよりも更に性と死が結びついて、いっそ露悪的なほどだ。
美の偽善をあばき、美をその玉座から、自らと同じ泥沼に引き摺り下ろそうとするかのようだ。
美を美として単純に受け入れることをよしとしない、強い意志が感じられる。
坂口が桜の下に見たのは、空虚であり、孤独であり、幻想であったが、梶井が見出したのは、生と死がわかちがたかくあざなわれた実存だったような気がした。

坂口安吾『桜の森の満開の下』は昭和22年初出。
梶井基次郎「桜の樹の下で」は、昭和3年に発表だそうだ。
坂口のほうを読むと、“桜の下の死体”というモチーフは能からの採取のようだ。
西行の辞世の句も想起するから、いつから誰が言い出したことかはわからぬが。

桜の樹の下には屍体が埋まっている!(p.188)

2008.09.24

(短編)檸檬

梶井基次郎 1967 『檸檬』 新潮文庫

もっちゃんだーっ!!!(@『ホルモー六景』

……と、勢い込んで購入したが、表題作以外は読むのを挫折したのである。
全部で20の短編が収められており、文庫としては厚いほうになる。
表紙はシンプルに白とレモン色で、レモンの形が描かれている。この表紙は好き。

梶井基次郎の名前は知っているし、京都の丸善は好きだったし、寺町の八百屋の軒先に檸檬が籠に並べられており、曰くが書かれていたのも読んだ。それで、檸檬という小説を書いた梶井基次郎という人を知ったのだ。
それは、私が子どもの頃の話であって、今は京都に丸善はないし、丸善の最終日には書棚に檸檬を置いた人が何人もいたという。
そんなことを知っていてもなお、実物を読んだことがなかったので、ようやく手にとってみたのである。

梶井は結核で、31歳で死んだ。結核は、当時、遠隔地で療養するしかない、とてもお金がかかる病気だった。
その人の残した作品は、人生の長さに比例して、さほど数が多くないらしい。
「檸檬」そのものは、きわめて短い短編だ。平易な言葉で書かれており、読むのにそれほど苦労はいらない。
しかし、私はしんどかった。死の匂いが強すぎる。作品の中に作りこまれた死ではなく、作者自身が持つ死の匂い。
解説では「頽廃」という言葉が出てくるが、非常に危なっかしくて脆い精神が読み手に迫ってきて、私には呪詛のように感じられる。
サルトルの『嘔吐』やニーチェの『ツァラトゥストラ』を読んだときの感覚に似ている。
引きずられそうな重たさは、表題作以降の作品にも続くため、挫折が決定したわけである。と、言い訳をしておく。

学問をするには金がかかる。
ここに出てくる本屋は、私の親しむ本屋の印象とは、まったく異なる顔を見せる。
本が文化を代表するものであるならば、この檸檬は……。

檸檬に託すイメージも、現代とは異なると思い、興味深い。
そういえば、と、およそ百年前の京都を舞台にした梨木香歩の『家守綺譚』にも、シトロンが出てくる。
非時香果(ときじくのこのみ)と近しいから、だろうか。

時代の空気を読むもよし、変わらぬ人なるものの心性を読むもよし。この短編集でもう一つ読むべき短編を読んだら、しばらく封印することにしたい。

平台がおまちかね

平台がおまちかね (創元クライム・クラブ)  大崎 梢 2008 東京創元社

口直しのコージー・ミステリ。
途中までミステリだということを忘れるぐらい、平和なミステリだった。
人が死なないところが、安心して読める。

今までの成風堂書店のシリーズではない、本だ。
といっても、舞台はやっぱり本屋さん。
今度は書店員ではなく、出版社営業(しかも新人)から見た本屋さん。
主人公が男性というところも、目新しい。

本屋さんにはダンピングもないし、返本というシステムもあるし、普通の小売とはちょっと違う。
客にしてみれば、どこで買っても同じ値段で同じ中身。
出版社の営業にしてみれば、どこで売れても、同じ値段で同じ一冊。
だけど、本を作るのも、売るのも、買うのも、もちろん、読むのも、人間なのだ。
店舗によって差別化しづらい商品をいかに売るか。書店員たちの力がなければ、本は売れない。
その書店員たちの力を引き出し、借り受けるのが、営業ということになるのだろう。

それにしても、個性的な営業の人たちが出てくる。
私が行きつけていた本屋さんにも、スタッフと客以外のいろいろな人たちが出入りしていたように思う。
どの人が書店関係なのか、出版社関係なのか、知らないけれど、ここまで個性的な人はいなかったような気がする……。
姿を変えつつ、著者と、著者と一緒に本を作っている人の、本への熱い気持ちが随所に込められていると感じた。
本好きの人向けというより、本に関わる仕事をしている人向けの本だった。

大きな本屋さんには大きな本屋さんには入り込んだらなかなか出られないダンジョンのような魅力(宝箱はいっぱいあるが失うものも多い…)があるし、ネット本屋さんには検索の手軽さや取り寄せの簡便さがある。
が、私は、やっぱり近所にあった行きなれた本屋さんの、顔見知りの店員さんたちの笑顔が懐かしい。
どこに何が置かれているか、客でもきちんと把握できるぐらいのサイズ。見つからなければ、本屋さんに取り寄せてもらえばいい。新着情報を耳打ちしてもらえるありがたさ。
そんな、行きつけの本屋さんがある日突然クローズする。あそこもなくなった。こっちもなくなった。そのときの寂しいような悲しいような悔しいような気持ちを思い出すエピソードもあった。

ネットの本屋さんは確かに便利だ。私も使う。首都圏や大都市部では大型の全国展開している本屋さんもあるだろう。
しかし、ネットの本屋さんを使うのは、世の中に本があることを知っており、自分が読みたい本を何かわかっている人ではないのか。
町中の、通りすがりの本屋さんは、いわば見本市の教育効果を担っている。
世の中に本というものがあり、本を読むという面白さがあるということを、新しい世代に、常に伝え続けていかなければ、読書という文化はますます縮小するだろう。
読書の文化の縮小は、識字能力を主として言語能力の必要性の低下であり、想像力や推理力、論理力、思考力の陶冶を放棄することに繋がる。

また、読みたい文章はネットで読むという人もいるだろう。
紙を用いるのと、電気を用いるのと、どちらがエコロジカルかは、私には判断できない。
だが、有料サイトもあるだろうが、文章を書くことによって得られる収入が確保されなくては、プロの書き手は育たなくなる。
アマチュアリズムが悪いわけではない。しかし、個人の書き手が個人だけで書く文章は、質を磨き、保つことが難しいと思う。
文章を書くこと自体も、知識と経験と感性とが必要な技能であるのだが、編集や校正というのは、知識と経験と感性が必要とされる専門的な技能だと思う。
そういったいくつもの他者の目や手を通さずに発信される文章は、もしかしたらもっと洗練される余地があったのに、もっと注目される価値があったのに、それらを得られなかった点で損をしているかもしれないではないか。

でも、図書館だってある。というのも、至極まともな意見だと思う。
現状として、図書館が手軽に利用できるかどうかは、地域によっても異なるのではないか。
生活圏と図書館の位置、自治体ごとの図書館の運営の方針や規模、生活時間帯と図書館開館時間帯などを考えていったとき、私はやっぱり本屋さんが便利なのだなー。
図書館にも、利用しなれている人としなれていない人の心理的な距離の差がある。
学校図書館で図書館を利用することを学習できていれば、心理的なアクセスのしやすさは向上すると思うが、現時点としては公立図書館を利用しようとする人は読書の文化をある程度有している人だと思う。
ましてや、図書館しか本を購買しないとなると、本の単価はあがり、出版社は立ち行かなくなるんじゃないか。(『図書館戦争』参考)

だから。
本屋さんが潰さないようにしようよー。
読書ってものをなくないようにしようよー。
私は面白い本を読み続けていきたいんだー。
本じゃなくても、違うものに置き換えてみても、文化を維持するのは実はユーザー一人一人だって気がするのだ。
ちょっと大げさに書いてみたが、日ごろ、私が思っていることと同じようなことが書かれていた一文を、下記に引用しておく。

本を読む人というのは、見方によっては、とてもわがままだとも言えるのではないか。
この本の主人公の井辻君は、一冊の本が気に入ると、その世界にのめりこんでしまう癖がある。
心行くまでその世界に浸り、再読し、自分なりに世界を思い描く。そんな風に耽溺してしまう本を、主人公は「魂本」と名づける。
私も、本によるけれども、物語を読むと自然に映像が目の前に広がる。下手なイラストはいらない。マンガ化、アニメ化、映画化には警戒心が働く。
私だけの物語世界を壊されたくないという思いを抱くような魂本を、本好きならいくつか持っているものではないか。
文章だけの、文字だけの表現だからこそ、読み手が自分の好きなように想像力を精一杯働かせる余地が大きくなるのだ。
その読みの多様性を許容する余地が、日によって、時によって、人によって、受け留めるものを変えてくれる。若いときに読んだ本を改めて読むと、初めて感動することがあるように。

最後の書き下ろしのエピソードで、成風堂の名前が出てきた。これは、きっと多絵ちゃんのことだ。私の知り合いの多絵ちゃんは元気にしているだろうか。
大崎さんの次の本は、このひつじ君の次の活躍になるのだろうか。また成風堂に戻るのか。舞台を本屋さんに限らないものを読んでみたい気もするけれど。

 ***

できるだけ身近に、歩いたり自転車に乗ったりすれば行けるような日常生活のそばになければ、人は本も本屋も忘れてしまう。本屋を知らずに育つ子どもが増えて、ますます本離れが進む。(p.177)

2008.09.21

GOTH(夜の章・僕の章)

GOTH 夜の章 (角川文庫) GOTH 僕の章 (角川文庫)  乙一 2005 角川文庫

気持ち悪い~~~。

私がミステリを読まなくしたのは、傷の描写が苦手だからだ。
切り傷、刺し傷、打撲傷。読んでいるうちに、該当する自分の体がむずむずと気持ち悪くなる。蟻走感というのは、これをひどくしたような感じだろうか。
そんな調子なので、解体された死体の描写になると、もうやめてー!という感じだ。
乙一らしい、淡々として、感情の起伏の少ない文章であるが、切り取られた胃袋やそれら臓器の生臭さが鼻先に甦って、うげげっとなってしまう。
自分の手術のDVDでさえ観ることができたなかったのにーっ。

3編ずつ、上下巻に収められている。
二冊で一つの表紙のデザインが凝っている。黒い刃の、一本のナイフ。
登場人物の一人称で進められるため、物語の終わりで、犯人や被害者が推定した人物と違っていたこともある。
というか、私はだまされまくった。
うーん。裏切り方が見事だ。
そこは面白いと思った。特に、「夜の章」の「犬」はやられた。

人は、誰しも心の中に黒い部分があるものではないかと思う。
曲がったところ、歪んだところ、ねじれたところ、くすんだところ、濁ったところ、獣が眠る薄暗がりが。
そこを眠らせている人もいるだろうし、自覚している人もいるだろうし、無自覚で発揮している困った人もいるかもしれない。
他者に、自己に、傷を求め、傷に親しむ、そういう心性を私は否定しない。
認めるのはつらいが、中には、あまりにも他者との断絶が際立ち、共感性をもとから欠いているのではないかと疑われるほど、関わりあえぬ他者との出会いもある。

後書きによると主人公の設定は「怪物」ということだから、そういう先験的に関わりあえぬ他者として生まれたのだろう。
しかし、本を読み進めるうちに、主人公の男の子も、森野夜という女の子も、黒い色彩の中に徐々に人間的な色合いが移ってきたように見えた。
森野夜の変化が読み取れる「記憶」と「声」は、割合に好ましく読むことができた。
特に、「声」では、森野夜が「こちら側」に戻ってきた感じがする。
つられて、主人公の男の子もうっかり「こちら側」に来つつある様子が感じられた。決定的に「あちら側」に手を染めながら、それでも、少年は始めて名乗りを上げてしまった。
名前は、「こちら側」に来るための魔法。名乗りは作法である。

面白いと思う人がいるのはわかるけど、私は読み返さないなぁ。
やっぱり、えぐいのは苦手です。子どもが殺される事件が、近頃続いているだけに、なおさら後味が悪い。読後感は悪くはないけれども、現実の死に触れることは嫌なものです。

2008.09.15

妖怪アパートの幽雅な日常(6)

妖怪アパートの幽雅な日常 6 (YA!ENTERTAINMENT)  香月日輪 2007 講談社

今度は修学旅行。高校2年生の冬。
妖怪アパートを出て、それでも巻き込まれるあれやこれ。

前回登場の千晶によって、長谷の出番がいささか減ってしまったかも。
作者も、千晶を夕士とあえてからませているような……。
対して、夕士と長谷は、いつか道をたがえて離れていくような予感が漂う。

その千晶がかっこよさについて語る場面がある。
センスのよさ、ちゃんと自分が選んだものを着こなしていること。
清潔第一。姿勢の正しさ、歩き方の良し悪し。
この立ち居振る舞いを磨くことは、私も賛成だ。
流行のものを身につけているだけでは、努力が足りない。

子どもには子どもらしく。
学生には学生らしく。
そのときしか、ないのだから。
代わりに、大人は大人らしく。

物語は折り返しとのこと。
作者の思い描く10巻目の夕士を見届けたい。

 ***

  妖怪アパートの幽雅な日常(5)
  妖怪アパートの幽雅な日常(4)
  妖怪アパートの幽雅な日常(3)
  妖怪アパートの幽雅な日常(2)
  妖怪アパートの幽雅な日常(1)

赤×ピンク

赤×ピンク―Sakuraba Kazuki Collection (角川文庫 さ 48-1)  桜庭一樹 2008 角川文庫

廃校になった小学校で毎夜おこなわれる非合法ガールズファイト。
可愛らしく上品な表紙と裏腹な裏書につられて手に取った。
にもかかわらず、「“まゆ十四歳”の死体」という第一章の表題に臆して、読むのを後回しにしてしまった。

ガールズファイト「ガールズブラッド」のファイター達は、社長の趣味で適当な設定を与えられ、それに応じた衣装を身に着けて戦う。
まゆは胸を小さく押さえつけて、ひらひらフリルの衣装を身に着けている、弱々しい女性。
まゆの設定は14歳だが、実際は21歳だったというところを読んでから、心理的な抵抗がやわらいで、するすると続きに引き込まれていった。
中学生が強制的に戦わされていたら酷悪だし、自主的に戦っていたら陰惨だ。

まゆ21歳。ミーコ19歳。皐月19歳。
この三人が、3つの章のそれぞれの主人公だ。
もう一人、千夏という女性も存在感がある。
彼女達は少女という年頃を過ぎており、本人たちも自分を「大人」だと認識している。
しかし、これは少女達の物語だ。女性達の心の中の少女達の物語だ。

主人公たちは、それぞれ、家庭に縁がない。
虐待や、そのほかの不遇。あるいは、親には内緒にするしかない秘密のゆえに。
居場所がない。帰る場所がない。
自分がない。自分のしたいことも、好きなことも見つからない。
檻の中は、奇妙な安心感を与えてくれる。
閉じ込められているが、同時に、守られてもいる。
どこにも行けなくても、何かをできなくても、許してくれるのが、手錠であり、檻となる。
服従こそが解放とする、SMのロジックをうまく取り入れている。
まあ、ミーコはSMの女王様という設定なのであるが。

心の中にも檻がある。子どもの頃から抱えてきて、子どもだったからわからなかった、問題に囚われている。
心のありよう、歪みや偏りが問題として、大人になってから立ち現れる。今になって、心が檻に囚われていることを感じている。
頭が悩みに支配されそうになるとき、格闘技によって主人公達は体の次元にシフトする。
視覚や聴覚は頭よりだが、皮膚や筋肉の感覚は体よりだ。匂いや味というのも、物質を現に受容するのであるから、どちらかといえば体よりだ。
頭の感覚と体の感覚のバランスを取ることは、命を保つコツだったりする。それを、主人公達は無意識に求めているように見える。
たとえば、自傷行為がほんのひととき生命の実感を得たり、自分に生きることを許す贖罪になるように。

問題は、死にたくなるほどに、愛情が足りていないということ。

檻の外に出て行くことができた少女達の先行きが明るいかどうかはわからないが、少しだけしたたかにしぶとく、彼女達は生きていくことができるのだろうと思えた。
女性の赤と少女のピンク。多分、この二面性を、大人の女性の多くが抱えているのではないだろうか。
これは大人向けの小説だと思った。少女にはもったいない。

2008.09.13

武士道セブンティーン

武士道セブンティーン  誉田哲也 2008 文藝春秋

場所は横浜から変わって福岡。
太宰府天満宮近くのスポーツに力を入れた高校というとあそこかなー?と思い描きながら読んだ。
セロハンに包む前の、焼きたてで皮がぱりっとした梅ヶ枝餅は美味しい。うむうむ。

前作『武士道シックスティーン』と一緒に、友人からいただいた。
一作目よりも少し成長した磯山香織と甲本(西荻)早苗。
二人の再会から始まるのかと思いきや、時は少しさかのぼり、『セブンティーン』から読んでもわかるようになっている。
そして、改めて甲本から語られる二人の別れのシーンで、前作以上に泣いてしまった。
でも、これはやっぱり、『シックスティーン』から順番に読むのがお勧めだ。

かつての敵地にすっかりと馴染んで、年下の指導も先輩らしく板についた、磯山。
前作では磯山の成長過程に目を取られたが、本作でそれが花開いているのがうかがえる。
自信過剰で無鉄砲だったところがやわらぎ、自分の限界をきちんと認識できるようになってきた。
父親との関係も徐々に安定していく様子が微笑ましいし、父親や小柴先生、桐谷先生、たつじいらも磯山の成長を感じている。

今回、目を引いたのは、磯山ではなく甲本のほうの頑張りだ。
横浜から福岡に引越し、転校。いわば敵地である学校の剣道部に入った彼女が、成長を求められる。
キャリアが浅く、自信は控えめで、お気楽不動心を頼りに、剣道を楽しむことを剣道の目的にしていた少女が、磯山とは違う形で勝敗のみを求められる。
大事なのは勝つことか? それだけなのか? それとも??

武士道とは何ぞや。これは非常に回答が難しい問いである。
浅学ながら、菅野覚明『武士道の逆襲』、佐伯眞一『戦場の精神史:武士道という幻影』を読むと、武士道なるものにも、古来の武士道(江戸時代までの実際の武士の行動原理)、明治武士道(新渡戸稲造による、いわゆる武士道)をわけており、新渡戸による明治武士道の問題点をわかりやすく指摘している。
評者によっては、これらと戦後武士道(時代小説を中心に描かれるイメージ)を更に分類する必要性を挙げている。
そりゃあ、磯山も混乱するだろう。

それでも、私は、剣道や柔道が単なるスポーツになってしまうのは嫌だ。
オリンピックを見ながら、柔道とJUDOは異なるものになったと感じた後に読んだからだろうか。
ぼんやりとした違和感が、黒岩レナの主張する「高度に競技化された剣道」への甲本の違和感に重なった。

自分のやりたいようにやってしまったら、そもそも、スポーツではなくなるではないか。ルールを守ってこそスポーツは喧嘩と峻別されるのに、競技として成立させるために、そのレギュレーションをころころと変えるのは本末転倒している気がするのだ。
そして、ルールさえ守っていればいいかというと、プレイにもクリーンなものと、ダーティなものとがある。そう言い出せば、自然に「道」としての正確が現れてくるのではないか。
簡単に言えば、こういうことだ。
柔道をしたいなら正々堂々と柔道をしろ。剣道をしたいなら徹頭徹尾に剣道をしろ。勝ちたいのなら、王道を貫いて勝ってみろってんだ。
黒岩だって、フェンシングをやりたいならフェンシングをしたらいいじゃん。無理に剣道をフェンシング化させてどーするの。むきー。
甲本、黒岩の首を取って来い。そこの土壌を叩き壊すべく、暴れまわって来い。と、磯山と一緒になって、応援したくなった。

礼に始まり、礼に終わる。その心構えを好ましく思う自分には、やはり、武士道なる価値観、倫理観に馴染みがあるということだ。
自分のプチナショナリズムを再確認。スポーツに関しては、エッセンシャルでファンダメンタルな原則派。
そんなわけで、玄田隊長@図書館戦争の台詞を引いておこう。
「原則を曲げることは簡単です」「しかし、原則を守ることで量られる真髄があるはずです」(pp.182-183)

ポップで、テンポがよくて、清潔で、一生懸命で、折り目正しく、爽やかで、少したくましくなった。
是非とも、『武士道エイティーン』を読んでみたい。彼女達の次の戦いを。武士道の成熟を。
小説だって、王道が楽しいのだ。

2008.09.10

武士道シックスティーン

武士道シックスティーン  誉田哲也 2007 文藝春秋

面白かった。
最後には、こうきてほしい!という方向に物語は流れ、わかっていてもウルッと涙腺が緩んだ。
すかさずセブンティーンに手を伸ばしたいところをこらえて、感想を書いておきたい。

振り分けるなら、私のキャラは磯山に近い。
ここまで持続力のあるほうではないが、この頑固さには親近感。
孤独を孤独であるとすら認識することなく、自分一人で生きてきたように勘違いしていた。
だけど、成長するにつれ、幼い世界観では割り切れないことが起きてくる。

一方、西荻のほうも、悩みゼロというわけではない。
勝敗にこだわらない剣道を楽しむ彼女は、人の好さが目立つが、同時に傷の記憶が勝敗への嫌悪感を与えている。
しかし、めげないという強さでは人一倍。
磯山が認める好敵手であり、ある面では救世主となる。

この二人の少女の出会いという横糸と、それぞれの父親と娘のやり直しという縦糸が、絶妙に織り込まれている。
ゆっくりと読むはずが、途中で手放せなくなり、結局、一気に読んだ。
剣道の知識がなくても、説明は丁寧だし、雰囲気で楽しめる。
章の合間には、道具の各部名称も図解されている。
表紙も可愛くて、元気があって、ぴったりだ。

読んでいて元気をわけてもらえるような本だった。
入院中の無聊の慰めに、友人が贈ってくれたものだ。
これ以上ないお見舞いの品だ。ほんと、ありがと〜。

退院はしたものの、引き続き、自宅療養中。
パソコンを立ち上げる気力がまだありません。
皆さんからいただくコメントへの返事は、もうしばらくお待ちくださいませ。
温かいお言葉、ありがとうございます。

2008.09.07

大人の心に効く童話セラピー

大人の心に効く童話セラピー―お姫さまと王子さまが中年になっても幸せでいるために (ハヤカワ文庫 NF 337) (ハヤカワ文庫 NF 337)  Chinen, Allan B. 羽田詩津子(訳) 早川ノンフィクション文庫

字体が読みづらい。
字は大きめだが、フォントの種類を普通にしてくれたらよかったのに…。
入院期間は1日1冊本が読めたことになる。思ったより、数が稼げなかったかな。

こういう本は斜め目線で読むに限る。
「ほ〜ぅ」と平身低頭して受容するのではなく、「ふーん?」と虎視眈々ツッコミどころを探してしまう。
アジア圏各国の事情や文脈を無視したいささか強引な解説は、わかりやすいツッコミポイントと言えよう。

また、たとえば、「おとぎ話は口伝えに広まったため、視野や主張が一般的だ」と書いてあるとしよう。(p.10)
そこに、赤松啓介のような、昔話を「民衆の生活のなかから生まれた、民衆のための物語などと過信するのは危険である。」「いま残って伝承されているということは、ある程度まで、これまでの支配階級によって去勢され、歪曲され、無害化されている」(『差別の民俗学』 p.74)という視点を加えてみたくなる。
…影響されやすいし、可愛くない読者だ。

ユング派は読み物としては面白い。中年童話というテーマも、既に中年となった自分とは他人事ではない。
また、紹介されている童話の中に日本のものもあり、アメリカの分析家がどのように解釈するか、興味をもって手に取った。

で、読んでみてどうだったか。
うーん。
もひとつ、う〜〜〜〜〜ん。
著者と読者の感性にどれぐらい隔たりがあるか。
とっても違えば笑えるし、ぴったりなら納得いくだろう。
私はなんだか気持ちが悪いというか、むずがゆいというか、みるみる読むスピードが落ちていった。
ごもっともと大半は同意するにしても、無邪気に性差別的というか、不気味に楽観的というか、なんか引っかかるんだよなぁ。

青年期は25歳までとするのが心理学の伝統で、青年期の次は中年期である。
近年は成熟に時間がかかるようになった、寿命も長くなったと、中年期を35歳からにするよう提案されている。
この二つの年齢の狭間のどっちつかずなあたりを、ヤングアダルトと称したりする。
アダルトということは中年だということだ。若めの中年。
しかるに、本書の中年は40歳からで、それまでは青春という基本前提におののいた。
おそらくadolescenceの訳ではないかと思うのだが、思春期なら10代、せいぜい20代前半の心性という感覚を持っている。
成熟をそこまで引き延ばすのは、そりゃ問題だ…。
原著のコピーライトは1992年。その後の変化はあるにしても、この本の背景にある社会文化を考えて、惨憺たる気持ちになる。

くしくも、赤松啓介が『差別の民俗学』で取り上げていた「もぐらの嫁さがし」と同型の「石工」が日本の民話として紹介されていた。
赤松ならば階級性の差別維持の政治的意図を読むところを、ここでは中年期の危機を経て自己受容するアイデンティティの再確認の物語と読む。
どちらが正しいというのではない。両者には、全く異なる文脈が与えられている。
いかなる読みが成り立ちうるかを考え巡らせることが楽しいのであり、読みの多様性を成り立たせる物語が面白いのではないか。
抽象性や象徴性が高まるほど、読みの可能性は高まり広まり深まるものだ。
多様性、多元性、複雑性、曖昧性、抽象性…どれも成熟のキーワードである。
それを自覚していれば、安易なメタファーに余計な集団催眠かけられちゃうことも減るかな。
減らないかな。難しいもんだ。

読み方を押し付けられると興ざめする。
その日その時その場の気分に自由に任せて好き勝手に読むのが好きだなぁ。
そういう自由が守られる世界であってほしい。
本題からずれたが、ここに私が書いたツッコミは枝葉の部分。
根幹はまっとうであり、中年期を肯定的に取り扱うところには価値がある。

退院して、自分の書いたものを読み返して見ると、どこをどう整理するか困るほど、ぐだぐだぐだぐだ書き散らかしている。随分と元気になってきたところで読んだのだろう。

2008.09.06

差別の民俗学

差別の民俗学 (ちくま学芸文庫)  赤松啓介 2005 ちくま文庫

私の探している本とは違ったが、これはこれで圧巻。
なにしろ、活動家としての凄みがある。
司法省思想犯保護視察所なんてものが、ぺろっと出てくる。
それがどんなものかは知らなくても、不穏な気配は感じられる。
修羅場というと、特高が出てくるような時代の水平社運動だ。
それまでのエロいおやじさんのヨタ話っぷりがどこかに吹っ飛びそうなハードボイルドぶり。
著者も書いているとおり、その時代を生きていない私には、私と同時代の人が想像して描く戦前より、実感がわかないほどはるかに遠い世界の様相である。

熱い。学生運動を歯牙にもかけぬ、年季と覚悟とを感じさせられる。
農村社会を革命する時代に、なぜ民俗学だったのか。
赤松の著作は、柳田民俗学の批判として興味深いが、のみならず、民俗学に見せかけて革命運動史になっている。
そのヴァイタリティ、タフネス、フレキシビリティ、どれをとっても真似のできない熱さがある。
そもそも民俗学は「あらゆる底辺、低層からの民族の掘り上げ、掘り起こし、その人間性的価値と、新しい論理、思考認識の道を開く」(p.117)であり、赤松にとっては「日常の農民解放闘争に役立ち、かつ役立てられるべきものでなければならないという前提があった」(p.106)。
むしろ、運動の身を隠す仮衣としとの民俗学という面さえ見える。仮の身の行商であり、行商という仮面の聞き取り調査。

まだ学問が政治的な力を持っていた時代。赤松は、既存の民俗学(柳田民俗学)が排除したものを3つあげる。それが、性、差別、犯罪である。
差別を精神病に置き換えると、ミシェル・フーコーと通底する問題意識のありようが感じられまいか。
私が読むのは後世に書かれた覚え書きが中心であるが、この人が経済的にも学術的にも恵まれた環境に置かれたら、どれだけの大著を編んだことだろうか。
在野だからこその研究であり、活動だったとしても、近代日本像や日本人像、日本文化像といったファンタジーのやすやすと裏をかく人々の生活感が、もったいなく感じられてしまうのだ。

この本は大きく3本の論文で構成されている。白眉は「村落社会の民俗と差別」だが、昔話の階級性を指弾する「もぐらの嫁さがし」も素人には面白かった。
中里龍雄、南方熊楠ら、複数の学者が同じ昔話について解説している。
各自の研究スタイルや言語、視点の違いがクリアに浮かび上がって面白かった。
現代的な眼差しで見ると、学術雑誌には掲載をためらうような砕けた口調や艶聞めいた論評が含まれており、このゆるさは時代が失ったものだ。
更に、漢字の難しさと言ったら、概して意味は読み取れるものの、音が読めないもどかしさに「もっとルビを!」と叫びたくなった。
特に、熊楠はすごい。ひどい。漢文のまま引用するなよー。返り点はついているけど、日本語ちゃうやん。
昔の英語の論文に、しれっとラテン語やギリシャ語が混じっていて、難渋したことを思い出した。

森絵都『いつかパラソルの下で』で「千人斬りのヤス」という人物を出していたが、千人斬りも千人抜きも伝説にあらずと、執行時および達成時の習慣まで紹介したのも赤松だった。
そういう性の話も面白いが、私がこの本の中で一番好きなのは、山上の長大なルートのところだ。
三角寛がでてきて苦笑いした。赤松は捏造は嫌っただろう。それとも、哀れんだだろうか。
古本屋で三角の『サンカ研究』を見つけたが、手に取らずじまいになった。
ともかく、政府公認の街道とは異なる秘密の、しかし太古からの裏街道があったと聞くと、ファンタジーが膨らむ。
こういうロマンが、私にとっての民俗学および考古学の魅力であるのだ。

この本をも批判的に読むほどの知識と技量は私にないが、すごい歴史的な記録だと思う。
差別という繊細にして野蛮、秘匿されやすいわりには普遍的な命題に対し、著者は一層繊細なアプローチを心がけている。
「常民」や「民主化」「近代化」といったキーワードによって物事を単純化して、問題を隠蔽することに警鐘を鳴らす。
啓蒙されたというのは実は神話だったと明らかにするごとく、ポストモダンが好んだ手法で差別として掲げられている問題を解体する。
事態の多様性を損ねずに受容し、複雑な認知をすれば、上下に短絡に差別可能にする境界線は曖昧になるのだ。
万能で安易で簡単な処方箋など存在しないのだ。
そうやって丹念に、臨床的に個なるものを見つめていくしか。
考えさせられることの多い、充実した読書となった。

いつかパラソルの下で

いつかパラソルの下で (角川文庫 も 16-5) (角川文庫 も 16-5)  森 絵都 2008 角川文庫

知られたくないようなことなら、最初からやらなければいい。(p.104)

そりゃそうなんだけど、秘密というものは人を引きつける魅力があるのだ。
秘密の匂いを嗅ぎつけたときの私は、クリームを前にした猫のように舌なめずりをしているかもしれない。
自分自身は秘密を抱え込むのは上手ではないが。

『カラフル』から続けて読み、あまりの作風の違いに驚いた。
前作は14歳の少年が主人公なだけに感じられなかった女性の匂いと性の匂いが濃密だ。
振り返ってみれば、『カラフル』の中の桑原ひろかの造形は肉惑的で、性欲も普通で平凡なものと肯定されていた。
対して、この『いつかパラソルの下で』に出てくる主人公家族は、自分の性に歪みを見いだしている。
「非凡」というより、「普通ではない」という否定文が持つネガティブなアイデンティファイが宿命づけられている。

たとえば、野々は感じない女だ。濡れない女だ。ふわふわと仕事と同棲相手を変えながら生きているから恋の多い女に見えて、彼女はいつも捨てられる覚悟をしながら男性を抱く。
まともに恋ができないほどの劣等感、自分は愛されるわけがないという諦念。
その心情が切なくて、親近感も感じた。
好きなのに、好きなのに、こんな私だから、いつか捨てられなくてはならない。
好きだから、好きだから、あなたが望みを私はかなえてあげてしまいたくなる。
あなたが消えろというなら、私は消えるしかない。
相手の負担にならないように、遠慮して控えめに欲張らずにつつましく目の前の幸せを大事にしてきたことを、将来を考えていないと糾弾されたら、泣く声も出ない。

極度の潔癖症の父親が支配する家庭。その父親が死んだ後、母親は心気症のような行動をとり、家とは決別したはずの主人公と兄、家に取り残された妹が集まる。
この家族像も見覚えがあると目を疑った。似たような雰囲気、構造、問題を持つ家族は、実際に少なくないだろう。
家族史や郷土文化に知らず知らず縛られている人は多いはずだ。うちの親族だっていまだに旧民法の世界観だし。
マクロな家族の点でも、よりミクロな野々の恋愛の点でも、なさそうでありそうな普遍性を持たせて、同時進行しているから、厚みがあって面白い小説になっているのだと思う。

父を探す旅は自分を探す旅になる。
俄然、著者の力強さが登場人物に乗り移ってくる。
親を許す旅は自分を許す旅になる。
家族の再生などというとチープになってしまいそうだが、桜庭一樹『少女七竈と七人の可愛そうな大人たち』やよしながふみ『愛すべき娘たち』と同列に並べておきたい。
力強く、前向きで、ハッピーな気持ちで読み終えることができた。最初は入り込みづらかったが、こういう気分になれることが嬉しい。
人生の不幸の原因は親であると怪気炎をあげている人は、小説なんて作り物の綺麗事と切って捨てちゃうかな。
小説が追いつかないような悲惨があるのはわかった上でなお、親への割り切れなさを抱えている大人に勧めたい。反抗期を生きることを許されている10代の読者には、二十歳を過ぎても急に変わるわけがないってことと、いつまでも親の所為にするのは格好悪いことを、この本から感じてほしい。

 ***

誰だって親には恨みの一つもあるけど忘れたふりをしてるんだ、親が老いて弱っちくなるのを見てしょうがなく許すんだ、それができないでこれからの高齢社会をどうするんだ、みみっちいトラウマふりかざして威張ってるんじゃねえ(p.198-199)

2008.09.04

カラフル

カラフル (文春文庫 も 20-1)  森 絵都 2007 文春文庫

これはずいぶん前に勧められたが、読む勇気がなかなか出なかった。
読み終えた今にしてみれば、もったいないことをしてきた。

『幽霊人命救助隊』とセットにしておきたい設定だ。
自殺という視座から生命や人生を考える。
高校受験を間近にした14歳の少年を生き返らせ、生き直させる魂の修行。
軽快な文体で、いかにも普通に語られるので、設定の奇抜さを途中から忘れていた。
死について考えてしまう10代に勧めたい。
平凡でいいじゃん。悪いことは続かないんだよ、って。

病院で読むと、自分は大丈夫か?という妙なスリルがあった。
麻酔から目が覚めただけで、おかしな天使とは出会ってないよね?と。
本選びを間違えたと何度も思った。

しょうゆの香りの唐揚げにココナッツドーナツ、目玉焼き。
絶飲食あけには、どれもこれも美味しそうでした。そういう意味でも、本選びを間違えたと思ったりなんだり。
そして、美味しいご飯には愛情がこもってないわけがないのです。

2008.09.02

ロマンス小説の七日間

ロマンス小説の七日間 (角川文庫)  三浦しをん 2003 角川文庫

寝ながら読むのは文庫のほうが楽です。
この文庫に挟まれた角川のしおりに、「自称読書家はメールが長い」と書かれており、苦笑。

ハーレクイン風ヒストリカル・ロマンスと、現代的な恋愛が、同時に並行して楽しめる。
まさに、一粒で二度美味しい、贅沢!

著者はエッセイで自らをエセフェミと書いていたが、その感受性やバランス感覚が好きだ。
ロマンス小説が安易に内包しがちなジェンダーをツッコミつつ、己の中にも無意識の願望というバイアスを見いだしてツッコむ。
「うっとりとツッコミの絶妙な塩梅」(p.73)にロマンス小説の醍醐味を置くところが好きだ。
決して、うっとりだけじゃないんだなぁ。

主人公のあかりは、海外ロマンス小説の翻訳者。その彼女自身の恋愛に対する戸惑いも等身大でいい。
夢見る年頃を過ぎ、純粋な思い込みだけの恋ができなくなったら、どうやって愛を知るのか。
ちょっぴり、身につまされちゃうぐらい、共感をもって読んだ。
お相手のお料理上手な元野球少年である神名は、なんとなく上地君のイメージ。似合わないかな?

たっぷりのあとがきまで、最後まで読むのをお勧め。
だって、楽しいもん。

夢をかなえるゾウ

夢をかなえるゾウ  水野敬也 2007 飛鳥新社

インパクトのある表紙だ。
ゾウはゾウでも、象頭人身の異形の神様ガネーシャではないか。
和名は、大聖歓喜天。略して、聖天。
シヴァ神の息子、財産の神様じゃなかったっけ。
本場インドでは男女和合で描かれることも多く、エロティックなイメージがある。
そう。眼差しも、まつげバサバサのいい男風だったり、東照宮の象のような笑える流し目風だったり。
この表紙のゾウ……いや、ガネーシャは、とてもコミカルでオヤジっぽい。

オモシロクナイ……。
それが感想の第一声で申し訳ないが、小説を期待して読んだ私には、あまり面白いとは言えなかった。
どちらかと言えば、ビジネス指南書を小説風に書いたものである。哲学概論を小説風にリライトしたら『ソフィーの世界』になったことを思い浮かべて欲しい。
エッセイや論文調に描かれたビジネスの心構えや職場の人間関係スキルは読みづらく、かつ、成功の秘訣を知りたい人には好著であろう。ハウツー本としてきわめてまっとうな内容だと思う。

従って、主人公に対するガネーシャの台詞は、ほとんど説明文なのだ。
読者は主人公と共に、実践することを求められる。読んで考えるだけじゃ人生は変わらないのだ。
偉人の言葉やエピソードの紹介も豊富だし、励ましに満ちている。
これから働き始める人や、仕事に迷いがある人には勧められる。
ドラマにもしやすいと思う。

私の場合、小説を期待していたから、違っただけで。
絲山さんの『海の仙人』のような深みとは比べようもないかな。
「笑えて泣けてタメになる」より、「笑えて泣けてダメになる」のが、純粋に小説らしい気がして好きなのだ。

2008.09.01

美女と竹林

美女と竹林  森見登美彦 2008 光文社

入院初日。とりあえず、一冊読了。

「洛西」はラクセイではなく、ラクサイと読みたい…。
だって、洛西ニュータウンはラクサイニュータウンやったもん。
と、文中に出てくる洛西竹林公園の極めて近所に住んでいた私は、ぷつぷつ言いながらも大変楽しく病床でごろごろした。
病院に駆けつけた父が「そう言えば、森見君の新しいエッセイが出たみたいだぞ」と気を使ってくれたにも関わらず、ここにあるよ、と無碍にしてしまった。

はて。
これは、エッセイになるのか! すっかり、小説のつもりで読んでいた!
虚実入り乱れての空想妄想てんこもりな文章は、私が森見氏の書くものの中で一番好む類だ。
鍵屋さんも出てくる。明石氏も出てくる。氏のブログのファンとして、とても嬉しい本だ。
『夜は短し歩けよ乙女』『新釈 走れメロス 他四編』『有頂天家族』を書いているときの著者の七転八倒が伺えるだけに、ちゃんとした小説のファン(?)にも興味深いのではないか。
とりわけ、本屋大賞授賞式にて「もりみーがマキメを殴っちゃった事件」は、当時、風説に風評を重ね、暴風となって世論を席巻したものである。
その様子もちらりと触れられているので、万城目学『ザ・万歩計』の表紙の「おともだちパンチ」に気づいた方は、合わせて手元に並べて置かれることをお勧めする。

竹林。さやさやと、ざわざわと、海のような音に包まれる空間。
いや、洛西では「竹林ではなく筍畑と呼べ!」と習い、子どもの乱入を厳しく禁止された聖なる空間であった。
そこに、降り立つ美女はいるのか!?

今年の私の夏は伝説の月姫で始まり、月姫で終わったようだ。

猫道楽

猫道楽 (河出文庫 な 7-32)  長野まゆみ 2008 河出文庫

今から、というか、今から入院することになってしまった。
本は読めるようになるが、ここの記事は書けなくなりそうだ。携帯から打ち込むには、私の文章は長ったらしいのだ。
というわけで、当面の間は簡単なメモを書いておき、後に書き直す方策を取ろうと思う。
よりにもよって、一番忙しいときに……(T_T)

さて、この本。表紙買い、題名買いした本。
長野まゆみさんは何冊か読んだことがあるけれども、案の定、普通の猫道楽とは違っていた。
舞台は東京であるが、著者の文語的な表現から森見登美彦を連想。
舞台作りは色めいて想像をかきたてる。猫飼亭の住人たちも謎めいて欲望をかきたてる。

表紙は好きだけれども、手元には残さないかも。短編集の物足りなさが残念だった。
できれば、この世界、この装置を活かした長いものを読みたかった気がする。
一朗のその後の様子があってよかった。

夏の庭:The Friends

夏の庭―The Friends (新潮文庫)  湯本香樹実 1994 新潮文庫

スイカの瑞々しさ、ブドウの甘さ、揺れるコスモス、セミの声。
蚊取り線香と乾いた洗濯物の匂い。ホースの先にできる小さな虹。
小さな庭を過ぎ行く一夏。喪い逝くものと失われないもの。
結末は予想されながらも奇跡を祈りたくなった。

職場近くの商店街が取り壊されている。戦後にできて、60年ぐらい経っているのだろうか。
店が立ち退き、ある日シートで覆われ、さくさくと取り壊されてしまった。
壁面をうっそうと覆うカラスウリの白い花も、もう見ることはできない。
その商店街の壁面に種苗店の色あせた看板もあり、見るたびに、この本の中に出てくる池田種店を連想していた。
写真の一つでも撮っておけばよかった。

普段は気付いていないとしても、隠れてあるものだってある。見えていなくて見逃している、いろんなことを、子どもの目線で見直していく。
子どもたちはそれぞれ特徴的で、問題や苦悩を抱えている。同時に、作者はそれぞれに固有の格好よさも与えているところも好感を持った。
子どもに人間として付き合う、そういう良識ある大人である姿勢がどれだけ大事な体験となるか、老人達にも愛情を感じる。

子ども達の日常生活では、死というものは非日常、わけのわからない怖いものだった。彼らは死と出会い、やがて、そこにあってあたり前のもの、日常の一部にあるものとして咀嚼していく。
死との付き合い方を、夏休みの課題のように積み残している大人にとっても、心に残る一冊となるだろう。
日本では8月は死を思う記念日や風習が集中しているから、そういう意味でも夏休みに向いている本だ。
自分自身のあの世の知り合いに思いを馳せる、素晴らしい時間を持てた。知っている人が先に行ってくれているなら、きっとそんなに怖くない。悪くない。

夏休みの読書感想文にぴったりの本。と、夏休みも最後の夜に書いておく。
今年はどんな本が読まれたのだろうか。読書の楽しみが癖になる人が増えるといいな。
(2006/8/20)

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