2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

著者名索引

香桑の近況

  • 2017.1.4
    2016年 合計50冊
    2015年 合計32冊
    2014年 合計26冊
    2013年 合計32冊
    2012年 合計54冊
    2011年 合計63冊
    2010年 合計59冊
    2009年 合計71冊

    合計323冊
無料ブログはココログ

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月

2008.08.31

ナラタージュ

ナラタージュ (角川文庫 し 36-1)  島本理生 2008 角川文庫

心の中に聖堂がある。
最初に刻み込まれた人を祀る聖堂がある。
初めて愛した人に捧げられた聖堂がある。
心の最も奥深く、高く清らかで、美しいところに。

人によっては、偶像が後になって本物に置き換えられることもあろう。
人によっては、聖堂を備えない心の構造を持っているかもしれない。

けれど、聖堂を持つ人にとっては、その後の人生をすべて決めるような出会いをしてから後、その座は誰にも譲り渡されることはない。
たとえ、後からどのような人と出会おうとも、変わることはない、絶対の座。
たとえ、後から誰かを好きになろうとも、恋しようとも、慕おうとも、愛そうとも、聖堂は厳として在る。
秘密の聖堂においては忘れられぬ痛みさえも甘く、人はふとしたときに立ち戻り、ひっそりと熱と涙を供えるのだ。

この小説の構造は、だから、『オペラ座の怪人』に似ている。
主人公の泉。高校教師の葉山先生。結ばれることはないであろう、立場から互いを見詰め合う二人。
たとえ、泉はどれだけ魅力的な男性と出会おうとも、その男性との想いが聖堂に捧げられた信仰に勝るときがあろうとも、立ち戻る場所は人生の中の一点。

丹念な情景描写を通じて感情を表現するような小説で、日々が淡々と語られていくから、途中で疲れそうなぐらいに長い。
過去の回想を繰り返しながら、出会ってしまったその瞬間から一歩も進めない、主人公「泉」の情緒をつかめてくると、後半は意外に過ぎるのが早かった。
実際にやましいことが一つもなくとも、お互いに抑えようとしている感じ、秘めている感じが、いい。

それにしても、男ってどうしてこんなにばかなの、と何度、思ったことか。
特に小野君。ああ、なんで、わかんないかな。あなたが好きになった女は、好きでもない男に抱かれるような女かな?
ばかな上にずるくって。そんな男性に惹かれてしまう女性もばかなんだけど。
でも、葉山先生のような深くて生々しい傷の匂いのする男性に、ぴたっと吸いつけられるように寄り添ってしまいやすい心を私は持っている。
そういう男性の、慎重で臆病、控えめで優しげな傷つきやすい気配が、大好きだ。歯噛みしたくなるぐらいずるいけど、何度泣かされても、愛することを許されるだけで幸せなのだ。
自分の悪食を、妙に客観的に見せ付けられた気がして、むずむずと居心地が悪かった。

私は、私の中に押し隠した聖堂に、誰を掲げているのであろうか。
苦しかった恋を思い出しながら読んだから、この時期でよかった。
もっと不安定なときに読んでいたら、多分、泣いていただろう。

蛇足であるが、その病名で一週間の入院は珍しいんじゃないかな?と思い、もっと重篤な病気ではないかと深読みした。深読みしすぎただけだったらしい。

2008.08.28

熱帯感傷紀行:アジア・センチメンタル・ロード

熱帯感傷紀行―アジア・センチメンタル・ロード (角川文庫)  中山可穂 2002 角川文庫

私の中にも、旅人の魂がいくらか入っている。私の放浪癖、漂泊好きは、友人ならば同意してくれることだろう。
旅の計画をするのが好きだ。旅に行くと決めたときから、交通手段を確保し、宿泊先をあれこれと探し、美味しいものや行き先の細々としたことを調べることが好きだ。
狸の皮算用ではないけれども、実際に行くまでの計画、準備の段階が好きだ。
面倒くさくなって人任せにしちゃうこともあるけれど、脱出の予感は胸が躍る。
今、ここではないどこかへ。
恋人に会いに行く旅のこともあったし、現実逃避の旅のこともままある。別れた恋人との思い出をふりきるための旅は、断然多い。出張だって、私には旅の楽しみを与えてくれる貴重な機会だ。

しかし、実際に行ってみると、その時から後悔が始まることも多い。
寂しさや心細さに押しつぶされそうになり、特に、ホテルでの夜をどう過ごすかは大問題としてのしかかる。
見慣れたテレビ番組のにぎやかさを白けた気分で聞き流し、メールを打っては送信できずに涙ぐむときには、何で自分はこんなところにいるのだろうと、世界中を呪う勢いで自分を呪いたくなる。
私は、一人旅がかなり苦手だ。そのくせ、こりもせずに、また旅の計画を立てる。

時折だけれども、その場では誰も私を知らない、私を見つめないという孤独感が解放感として感じられる快感があるから、やめられない。
それは、ロンドンの裏路地、道端のマンション入り口の石段に座り込んで、行き交う人を眺めていたときかもしれない。
アマーストの図書館の書架と書架の間に入り込んで、どちらを向いても英字ばかりの中で、指先で背表紙をなぞって歩いたときかもしれない。
プサンの屋台の立ち並ぶ広場で、ホットックを買いに走ったときかもしれないし。
ロロ・ジョングランで月と南十字星を眺めたり、フエでシクロのおじさんと戦争と平和について語り合ったときかもしれないし。
遺跡や博物館といった朽ち行く死の臭いの濃密な空間の中で、一人ひっそりとたたずむとき、私もまた遺物についた幽霊の一人になれるような、非現実感に溶けて消えることができそうな夢を見られる。
私は私であり、私でなくなる。

きっと、旅には二種類あるのだ。
どこかへ行くための旅と、どこかから逃げるための旅と。
前者の旅をする人をtouristといい、後者の旅をする人をtravelerというのだ。
バロウズに倣えば。

中山さんの足取りは、タイのバンコクに入り、マレーシア、インドネシア、シンガポールからタイに戻る。96年の旅行記になるため現在とは事情が違うであろうが、自分自身の旅行の古い記憶を掘り起こしながら読んだ。
ちなみに、私がタイやシンガポール、インドネシアに行ったのは、著者より前のことである。そりゃ、忘れたことも多いはずだ。
息が止まりそうな暑さと臭い、喧騒。具体的な地名や鮮明な情景は忘れても、雰囲気を思い出しながら読むことはできたし、むしろ、一人旅のなんともいえぬ孤独感に重ね合わせながら読んだ。
私の場合、ベトナムに行ったら肝炎になって帰ってきたり、韓国に行ったら嘔吐下痢症になって帰ってきたり、前科がいろいろあるので、屋台で買い食いは怖くてできない。
中山さんの、お腹を壊したとしても、そのまま屋台を利用し続けるバイタリティに、やっぱり「すごいっ!」と声をかけたくなる。

著者の小説の登場人物たちが抱えるアジアの情景の根源を垣間見た気がする。
登場人物たちが猥雑な人ごみの中で孤独に酔うとき、作者の体験を分かち与られているのだ。彼らは、著者のどこかの写し身であり、化し身であることが、わかった気がする。
それでいて、著者のユーモアの精神も存分に感じられるのが本書の魅力だ。しぶとさやたくましさを持った、素敵な大人の女性であることが感じられて嬉しい。
最近、ますますひ弱に、非力になっているからなぁ。こういう旅行に出るには、勇気が足りない。でも、旅に出かけたくなる本だ。

30代の女性が失恋したら、旅に出よう。
その前に、その恋を失ったときには、旅に出て、誰にも知られずに身も世もなく泣けるほどの、そんな恋愛と出会えたとしたら。

2008.08.19

聖☆おにいさん(1)

買ったきっかけ:
人に勧められて、読んでみたらはまりました。読み直しても笑ってしまいます。夜中であっても、くすくすわははと笑い通しです。

感想:
ブッダとイエスが休暇をとって、立川で同居しているところに、「なんで?」と我に返ると進めなくなります。
宗教者の双璧とあり、全体を通じて言葉が丁寧で優しい。読んでいて、嫌な気持ちにならない。傷つけられない。
こういうマンガが成り立つのも、宗教に対する日本ならではの土壌によるのかな。
決して宗教をばかにしているのではなく、親しみを感じているのだと思います。
主人公二人に、作者の愛情と敬意を感じるのです。

おすすめポイント:
無邪気で、上品で快い、でも爆笑。
疲れていても、やさぐれていても、慰められちゃうところが、聖人効果?
2巻には「マイ鹿」も出てきます。

聖☆おにいさん 1 (1) (モーニングKC)

著者:中村 光

聖☆おにいさん 1 (1) (モーニングKC)

二つの月の記憶

二つの月の記憶  岸田今日子 2007 講談社

まるで、性を憎んでいるかのようだ。
7つの短編のどれもが、性の匂いの裏側で死の臭いがする。
薄暗い刺激を感じた。毒のような苦味。成熟した大人の女性だからこそ持つ毒だ。

最初の短編「オートバイ」が、一番、ユーモアがあり、明るく、無邪気に見えた。
この印象のまま続きを読み進めるにしたがって、死の臭いが濃厚になることに驚いた。

まるで、性を憎んでいるかのようだ。
自分の女性をもてあまし、自分を女性にした男性への恨みが感じられる。
母であり、妻である人にはわからない、女であるからこその満たされぬ愛情と欲望を抱えた傷の痛みが感じられる。
著者が女であることにとことんこだわっていた人だったのだろうと、思われてならない。

また、虚実の二つの世界を渡り歩く役者ならではの感性で、「K村やすらぎの里」や「引き裂かれて」のように、ひょっとしたら実話なのでは?と疑念を持たせる巧みさも見せてくれる。
作り話を本当のこととして、本当のことを作り話のようにして、というのは、この短編集全体を貫くスタンスだったのではないだろうか。
なにしろ、異界に導く手腕が見事だ。幻想的ですらある。
意識から滑り落ちるように自然と、過去へ、内界へ、異界へと読み手は導かれる。
特に、「引き裂かれて」は、演劇の感覚に寄り添って書かれており、それこそ「卒塔婆小町」やギリシャ悲劇の不条理を彷彿とした。

欲望ではなく、愛情を欲していたのに。
だけど、愛情は欲望よりも致命的だ。愛は恋人を殺す。
恋人を殺さないためには、自分を殺さなくてはならなくなる。
著者の中では、愛は報われない死をもって完成される。
したがって、著者の死によって刻印付けられているこの本も、実は愛に満ちている。

2008.08.18

蒲公英草紙:常野物語

蒲公英草紙―常野物語 (集英社文庫 お 48-5)  恩田 陸 2008 集英社文庫

終戦の日に読んだ。読み終えて、ふさわしい本だと思った。

常野一族という一風変わった一族がいる。
『光の帝国』で、春田の血筋の書見台が一族ではない家に所蔵されていたとちらりと出てきた(p.104)。
その書見台を有していた旧家と集落を中心に、『光の帝国』よりもやや時代がさかのぼって、19世紀末の「にゅう・せんちゅりぃ」を迎えようとする日本が描かれている。
だが、その新しい世紀が戦争の世紀であったことは、現代の読み手にとっては既知であり、描かれる世界が美しいほどに喪失の予感で胸が痛む。

主人公と、その友人である病弱な令嬢。こういった設定からして、『アルプスの少女ハイジ』や『秘密の花園』といった小説の伝統を思い出さされる。
物語としては、梨木香歩『エンジェル エンジェル エンジェル』『家守綺譚』と同じ空気を感じた。

それ以上の感想が、とても難しい。
尊くて、儚くて、美しくて、壊れやすくて。
たんぽぽの綿毛のように。触れると壊れる。
だけど、姿を変えても、種は散らばり、静かに根付く。
そんな感動に、ゆっくりと満たされていくような読後感だ。

人々はおおむね上品であり、不愉快な印象の人にもそれなりの理由があったことまで描かれており、憎むべき悪人は出てこない。
むしろ、人々の善意や正義、「一途さ、無垢さが、吾が国を地獄まで連れていくに違いない」(p.202)と登場人物に語らせる通りだ。
田舎の小さな集落の物語が、日本全体、世界全体を抜きにして語ることはできなくなってしまった。
未知ではなくなったときから世界が狭まり、そのゆえに、ユートピアは失われる。

常野一族の中でも、春田の血筋は、書物や人の記憶を、自分の中に「しまう」ことができる。記憶力のすぐれた血筋である。
そればかりでなく、その思いを「響く」こともできる。響くことは、常の人にはできないことなので、まるで自分のことのように感じる、とでも、言い換えたらよいか。
しまって、響かせる。
通り過ぎる時代も、去り逝く人間も、彼らが憶えていてくれる。それが、人々が喪失の悲しみを耐えるよすがになる。

一人一人が、今、この時、この国を作っている。
誰か大きな力を持つ他者に操られるのでもなく、得体の知れない無人格の主体が支配するのでもなく、主人公のような普通の一人一人が実は世界を作っている。
洞察する力や、共感する力は、強弱や精度の違いはあれど、常野一族でなくても、人はおしなべて持っているのだと私は信じていたい。
本を読み、人と触れあい、気持ちを揺れ動かすことは、日常的に起きていることだ。
そうやって他者を感じる力があるのなら、世界には希望が残されているのだと願いたい。
主人公の最後の問いかけは、読み手への問いかけである。だからこそ、私は、戦争を憶え、平和を覚える日にふさわしい本だと思った。

たんぽぽのように。
一株が枯れても、また違う株が育つ。
出会いは種だ。希望の種だ。
世界に散り、世界を繋ぐ。
命は連綿と続き、また花開く。
そんな祈りを感じる本だった。

2008.08.11

「心の傷」は言ったもん勝ち

「心の傷」は言ったもん勝ち (新潮新書 270)  中嶋 聡 2008 新潮新書

ううぅ。毒舌を発揮したいが、こういう人目のある場所では言えない……ことが多すぎる。
私にとっては良識的で常識的だと思うけれど、近年では感情的な非難も招きそうで心配になるような、そういう本だった。
この当り前の感覚が、なんでこう通用しないのだろうと、私は嘆くほうの立場である。でも、自分の主張を堂々と書くには、私は臆病者なのだ。

たとえば、こうしてインターネット上に書いた文言を読んで、不愉快になった人がいる。その人から、「私が読んで不愉快になったのだから訴える」という書き込みがくるとする。
こういう状況設定自体が冗談じゃないのが悲しい。訴えるって、何をどこにやねん?と首を傾げても、わざわざ不愉快になるような文書を読んで、わざわざそれを訂正しようと関わる人は、多くの場合、真剣である。
そこでは「読みたくないなら読まなくていいです」という、読み手の読まない自由と書き手の書く自由を侵害しないためのルールが棄却されている。共存の思想は近頃はもう流行らないらしい。
私の文章を読むのは義務じゃないぞー、いちいち目を通しているのはそっちじゃないか、なんであなたに私があわせなくちゃいかんのや、などという言い訳は許されないことがある。

この例を、あなたは困ったおかしな事態と感じるだろうか? それとも、私が事例としてあげることを不愉快なおかしな事態と感じるだろうか?
後者である方には、この本をお勧めすると怒られそうであるが、しかし、読んでもらって感想を聞いてみたくもなるのである。

あなたが感じている主体的で主観的な現実が、他者にまで強制されるべき一般的で客観的な現実に引き上げられるのは、何をもって根拠となすのか。
それが普遍的で不偏的で不変的な事実であると、何をもって証明なされるのか。
おそらく、本書の中でとりあげられるような、被害者が加害者を迫害する強者に転じるプロセスを補強しているのは、自分の経験を絶対視してしまう安易なファシズムではあるまいか。
その点、「帝国主義」という語の使用は適切であるように思うのだが。絶対主義とか、中心主義と言い換えてもよいかもしれない。
だから、私は「私たち」という語の多用は嫌いだ。

世界は多様で曖昧である。たくさんのグレーゾーンがあり、単純な二元論で割り切ろうとするのは、認知の形式が未熟である可能性を示す。
冷静になってみれば、明瞭な線引きが無意味なことや、明確な線引きが不可能なことが多いのではないだろうか。
なにもかもラベルを貼ることができ、なにもかもマニュアルで片付けることができると仮定しても、そのシステムが徹底して完遂されていると確認できるのは超越者しかいない。
だから、そんな夢物語ではなく現実に根ざして生きようとするならば、著者のいう「辺縁」、あるいは、遊びやゆとりの余地を持つことは、きわめて大事なことだというのはわかっている。
胡散臭いことや、いい加減なこと、どうしようもないことに耐えられることは、同時に割り切れないことに自分が甘えることもできるのに。
私は女性である自らを弱者に規定するフェミニズムの戦略も大嫌いだが、強迫的で感情的で斉一的な世論形成というのも大嫌いだ。

こういう嫌いなものを嫌いと言う自由も、そのうち、奪われるのだろうか。そうなると、『図書館戦争』の世界っぽいな。
一つ前に読んだ天野純希『桃山ビート・トライブ』で石田三成が目指した世界って、こういう息苦しい世界だよなぁ、と、溜め息が出た。
なんだ、今現在の社会じゃないか。とほほ。

桃山ビート・トライブ

桃山ビート・トライブ  天野純希 2008 集英社

ロックだ。
インプロビゼーションな音楽といったらジャズっぽいけど、断然、文章から聴こえてくる音楽はロックだ。
客受けを計算しつくしたポップスではなく、時代に挑戦するロック。言うなれば、70年代の空気だろうか。
70年代の最後の年に生まれた若い作者のデビュー作。予想外に面白かった。

安土桃山時代。豊臣秀吉の晩年も近づく頃を舞台にしているが、奇想天外な設定を活かして、時代小説めかない現代的な言葉遣いで描かれている。
それでいて、きちんと取材してあるのだろう。文化や風俗の時代考証がなされた上で描かれている安定感も感じる。
史実ではないことは了解できるが、本当にこんなことがあったかも、ありえたかも、あったら面白いかも、と思わせるアクチュアリティ。
そのあたりのバランス感覚、なめらかな語り口といい、これがデビュー作かと舌を巻いた。

主役は民衆である。
主人公たちの型破りな楽器と音楽は、政治権力にどのように迫るのか。
帯の言葉からは、芸人の意地をかけるところで映画『王の男』のようなものを連想していた。

が、本書はもっと若者らしい、やむにやまれぬ熱気と活気に満ちている。
悲劇は出てくるのだけれども、悲劇に終わらぬ底抜けの明るさに通じる力強さを秘めているのだ。
人の持つ力を信じる。音楽の持つ力を信じる。まだまだ捨てたものじゃないと思わせてくれる。
遊び心がたっぷりで、ノリがいい。理屈じゃないのだ。センスで読め。

武将の名前が出てくると、戦国武将を用いた某ゲームのヴィジュアルが思い浮かんで、妙に笑えてしまったりもしたのは余談。

図書館戦争LOVE&WAR(2)

買ったきっかけ:
図書館戦争だから。
雑誌でも読んでおり、途中で脱落しかかったところ、改めて鷲掴みにされたシーンがあり、結局、2巻も買ってしまいました。
不意を突かれて雑誌を取り落としそうになったそのシーンで、あの人やこの人に「うひゃあっ」となってもらいたかったのに、帯に使っちゃうなんて……。

感想:
この手塚が一番ヘタれな気がする。
どのキャラも可愛くなっていますところが、少女マンガの魔力です。
そして、どのキャラクターも表情豊か。意味深なまでに、結末を見通すような表情を見せてくれます。
最初は若すぎる!と思った堂上も、慣れてしまえばかっこよく可愛い。
おまけの4コマなども、ありそうで、うぷぷ♪と笑えます。

おすすめポイント:
原作を丁寧にマンガ化してあります。
原作ファンにとっては、ひとつひとつのエピソードに思い入れがあるものですから、この丁寧さは嬉しい。
最初はいっぺんに二人もマンガ化するってどういうこと?と思いましたが、原作が終わっても『図書館戦争』がますます盛り上がるなら、楽しいことです。
マンガがあるから、まだまだ続くのです。

えーと、あとはCD? WEBラジオはチェックしていなかったんだよねぇ。

図書館戦争LOVE&WAR 2 (2) (花とゆめCOMICS)

著者:弓 きいろ,有川 浩

2008.08.09

図書館戦争SPITFIRE!(1)

買ったきっかけ:
図書館戦争だから。
初回のみ雑誌で読んだけれども、初回に登場しなかった隊長や手塚のヴィジュアルも気になるし、せっかくだから購入。

感想:
うぅむ。
アニメ版、LOVE&WAR版と本作の3つの絵柄を比べると、SPITFIRE版の堂上が、いちばん無骨な感じ。
画面の見せ方は上手な人で、迫力のある感じは、少女マンガらしいLOVE&WAR版とは趣がかなり異なります。
迫力があるからこそ、熊のシーンはかなり楽しい。
郁&柴崎はとっても可愛い。手塚が可愛すぎて、なんか違和感。玄田さんはごつすぎて……しくしく。

これを読んで、アニメ版に感じた違和感に思い当たりました。
アニメ版は戦闘以外の内勤時も制服なのですが、原作と二つのマンガは私服なんですよね。

おすすめポイント:
有川さんの直筆後書きつき。
多様な図書館戦争が展開していくからこそ、ユーザーがそれぞれの好みにあった図書館戦争を探すことができるのかもしれない。あえて見比べるのも楽しい。
最初は「こんなの堂上じゃなーいっ」と、じたばたしましたが、こんな堂上だからこその笑顔は、思わずぐっときてしまいました。

図書館戦争SPITFIRE! (1)

著者:有川 浩

図書館戦争SPITFIRE! (1)

ゆうきまさみのはてしない物語:天の巻

ゆうきまさみのはてしない物語 天の巻 (角川スニーカー文庫)  ゆうきまさみ 2003 角川スニーカー文庫

有川浩さんがDVD『図書館戦争1』に寄せたインタビューに、ゆうきまさみさんの言葉が引用されていた。
その言葉、絶対に見覚えがある!!と思い、この本の存在を思い出した。
ゆうきさんは『あ~る』と『パトレイバー』、初期の『バーディー』は読んでいた。
この本に収められているエッセイは、1985年から1992年。ちょうど、私がゆうきさんのマンガを読んでいた頃に書かれているものだ。

私は火浦功さんの小説が好きで、ゆうきさんや出渕さんらと、いつもひとまとめだった。
『あ~る』のCDを何が何でも買っておくべきだった!と後悔している私の手元には、『ガルディーン』のCDだけはあったりする。
とまとあきさんやら、とりみきさんやら、懐かしい名前が続々と出てくる。
だが、登場人物だけではない。湾岸戦争のことや、有害コミックのこと、悪名高い事件と、その報道のことなど、出来事自体は歴史的になりつつあったとしても、なお今日的な話題も多い。
特に、報道という文化に対する眼差しは、多分に批判的であり、反省を促される。
有川さんが引用した文言は見つからなかったものの、『図書館戦争』に受け継がれる思想のエッセンスは十分に感じることができた。

続きの『地の巻』は買ったかな。買ったような気もするけれども、部屋に見当たらない。買ってなかったのかな。思い出せない。
有川さんが引用していた文言はどこで読んだ文章だったか、わからないのが気になるよぉ。
『地の巻』も読みたいな。でも、それ以上に、ゆうきさんのマンガを読みなおしたくなった。『パトレイバー』の2も観たいなぁ。監督が押井さんだったんだよなぁ。

 ***

拒否する自由を行使出来ないほど暴力的な表現なんて今まであったでしょうか?(p.169)

2008.08.08

別冊 図書館戦争Ⅱ

別冊図書館戦争 2 (2)  有川 浩 2008 アスキー・メディアワークス

柴崎がーーーーーーっ!!!!!

この叫びを、夜中、何度送信しそうになったことだろう。
読み終えたのは、今朝?の3:30頃である。その後、仮眠はしたが、やっぱり眠い。
昨夜、外食している最中にメールを受信した。食欲がないから、クッパだけでいいと言っていたのに、行きがかり上、食べなくてはならなくなった焼肉をつついているときだった。
メールの送信者は素晴らしい書店員である杏子ちゃん@元威風堂・現大手書店。
別冊2が入荷されたという。慌てて時計を見るが、本屋さんの閉店には間に合いそうにもない。
杏子ちゃんの御好意で、本を買ってもらっておき、後ほど、私が彼女の家のほうに取りに伺うことになった。まったくもってありがたい。

予告で表紙の柴崎を見たときから、「ガンバレ手塚」と思っていた。
この二人、手塚ががんばらないことには、どーにもならない、という予測をしたのだ。
手に取った本を開いてみると、第一章は、雑誌掲載時とは少し書き出しが異なる「もしもタイムマシンがあったら」。
次に、堂上&小牧がルーキーだった頃の思い出話。
そして、柴崎と手塚の顛末であり、私の冒頭の叫びに戻る。その前に、あんたら、そこからちっとも進んでいなかったのか!?

著者の方があとがきでネタバレをしないように配慮されているのに、私がばらすわけにはいかない。
が、ばらさないで、どうやって書くんだよー? ネタを知りたくない人は、こういう記事は見ないで、まっすぐ本書にとりかかってください。よろしくです。

どこまで、柴崎につらい思いをさせればいいんですか!!
そう食らいつきたくなるような、シビアなネタが用意されていた。
これは、逆に考えれば、郁では王子様が守ってくれちゃうし、鞠江ちゃんじゃ耐えられない。柴崎に割り振るのが妥当なネタであり、これだけのことでも起きないと、柴崎という女はきっと折れることができないんだ。
一度ならず、同類の被害に会い、そのうちの一度は警察まで相談したことがある身としては、よくぞここまで書いてくれたと思った。女性の立場に立ちつつ、しかも、斟酌なしに。
いつ終わるかわからない、この手の被害は、心底疲弊させられるものなのだ。

柴崎の恋愛のクセは、我が身を見るようで、ときどき痛い。
幸せなカップルを見るのが好きだ。奥さんや子どもたちを大事にしている男性を眺めるのが好きだ。いいなぁと眺めながら、ほのぼのとした穏やかな気分をわけてもらうのが好きだ。
だから、その柴崎が、自分を大事にしてくれる人で自分が大事にしたい人を見つけたことが嬉しかった。読んでいて、涙が出てくるぐらい、嬉しかった。

そこここで、郁の成長も見れた。結婚してからも、郁と堂上のよい夫婦っぷりが微笑ましくも安定していて素敵。
ああ、やっぱり憧れちゃうよね。
これが終わりなんて信じられないぐらい、だけど、終わりにある意味ふさわしい。
主役のカップルがいつまでも幸せに暮らしました、と信じられるような、そんな別冊だったから。

でも、まだ終わりにしたくないから、また本を開くのだ。

 ***

  別冊 図書館戦争Ⅰ
  図書館革命
  図書館危機
  図書館内乱
  図書館戦争

2008.08.06

ドッグ・ラン:図書館戦争DVD SPECIAL SOTIRES1

図書館戦争 【初回限定生産版】 第一巻  有川 浩 2008 DVD特典

もひとつ、うひゃー♪
『別冊』に入っていてもおかしくないような、甘いお話。
まだ、郁が堂上を「教官」と読んでいる頃の、図書館の日常。

これは、『図書館戦争1』のDVDについていた特典です。
これが読みたくて、つい、DVDを買ってしまいました。
間違いなく、続きも買います。予約しちゃったもん。

いやはや。
堂上もいろんな苦労をしたんですねえ。
短いけれども、微笑ましい、図書館戦争の一コマ。
柴崎や小牧のような目線で読みました。

(DVD)図書館戦争1

図書館戦争 【初回限定生産版】 第一巻  うひゃー♪
ただいま、DVD鑑賞中でございます。
なんだかんだいって初めて見る、動く郁と堂上と仲間達。
ああ、もう、「王子様」を音声で聞くと、恥ずかしくって。
家族の前で見られないじゃないですか!!!

淡い色合いの背景が綺麗。
アニメっぽさのない水彩画のような画面で、シリアスな場面では大人っぽい。
まとめ方がお上手で、さくさくっと話が進みます。
でも、きちんと『図書館戦争』なの。

話を知っているだけに、「名場面」「名台詞」の前には予測して笑ってしまいます。
家族の前でのたうちながら、それでも、つい見ちゃいますね~。

おまけは有川さんの書き下ろし短編『ドッグ・ラン』に絵本形式のスタッフのインタビューと資料集、そして、『はじまりの国のさいごの話』の表紙。
このインタビュー集の中に、原作者である有川さんのインタビューもあり、ゆうきまさみの言葉が引かれています。その文言には見覚えがあります。絶対に読んだ。慌てて、ゆうきまさみのエッセイ集を取り出して振り返りましたが、それっぽいのが見つからない。これは、エッセイじゃなくて、火浦さんや出渕さんやとりさんらとの対談に出てきたのかなあ? 部屋のどっかに探せば出てくるような気はするけれども……。The Sneaker創刊号の対談だったら、あれは処分しちゃったし。ううむ、気になる。

威風堂がなくなっても、素晴らしい本屋さんの店員さんである杏子ちゃんに感謝です。

海の仙人

海の仙人 (新潮文庫)  絲山秋子 2007 新潮文庫

あなたがいない。
あなたを忘れられない。
あきらめきれずに待ち続けている。
無駄だとわかっていても待ち続けている。

どうしようもなく、すれ違う。その厳しさが物語を引き締めており、『エスケイプ/アブセント』を彷彿とする。
人の色恋、あるいは、運命といったものは、すれ違いやすいものなのだろう。
気づかないまますれ違って、過去に置いて来てしまったものなど、数えられないほど膨大に違いない。
「誰もが孤独なのだ」と、孤独を抱えて寄り添う人々は、安易な性的関係に逃げ込んでしまわない。
しかも、「友人を恋愛という文法で処理してしまいたくない」とは、なんと秀逸な表現だろう。
そういう自制の効いた大人の女性っぷりに、惚れ惚れする。私にとっては、物語にアクチュアルな感覚を持てる。

ファンタジーは孤独に寄り添う。トキやニホンオオカミや、シマフクロウの孤独に寄り添う。
ファンタジーの姿を見、声を聞くのは、孤独なときだけである。
だから、孤独を感じている人は、ファンタジーに気づくことができる。
孤独な男女である、河野や片桐、中村、澤田らは出会い、出会ってからはファンタジーは舞台を去る。
そして、それぞれが再びファンタジーと出会うのは、それぞれが実は孤独に向き合っているときである。
それならば、ファンタジーが立ち去るこのラストは。

今ひとたび孤独を忘れる希望が、更なる喪失と悲劇の予感と共に、絶妙な余韻を与える。
片桐が貝を再び手に取り戻したシーンで、涙がこみ上げてきた私は、偽善のようなハッピーを祈りたい。

ファンタジーを続けて読んでいるので、ファンタジーという登場人物?が出てくるこの本も読んでみたのだ。
ファンタジーは「役に立たないが故に神なのだ」という。ファンタジーは役に立たないものなのか。
それを小説なり映画なり作品にすることができれば金銭は稼げるかもしれないが、ファンタジーがどれほど役に立つのかというのは、実に証明が難しい。
しかし、ファンタジーはリアルを生き抜くために必要な力の源だというのが、私の信条である。
人の心が、現実に迷ったとき、困ったとき、疲れたとき、空想は疲れを和らげ、凝りをほぐし、力を与えてくれるのだと思う。
そういう意味でしか役に立たない。けど、そういう意味で役に立つ。小説を読む人は、そのことを体験として知っているはずである。
特に、孤独な心に、ファンタジーは役に立つ。間違いなく。

『逃亡くそたわけ』のラストに出てくるラベンダーの香りのよかにせは、ファンタジーの仲間だったら面白いのになあ。

2008.08.04

風の大陸:月光にさまようもの

竹河 聖 2004 富士見ファンタジア文庫

風の大陸シリーズの外伝。
買ったまま存在を忘れていた本である。
入手は難しそうだと思っていたら、いつの間にか、ちゃんと買っていたらしい。

本編が終了してしまい、これ以上、ティーエ達に出会うことはないだろう。
この外伝は、三人の旅の始まった最初の頃という設定だ。
ティーエがまだ人なれしておらず、まだるっこしい会話のテンポが、懐かしくて、やっぱりまだるっこしい。
本編のような大きな物語に比べると、もちろん物足りないが、存在を忘れていただけにおまけのようなお得感を持った。

旅の仲間がたった三人だけだった頃は、本編全体の中では、意外と少ない。
こういう旅の物語は、旅の仲間で取り組む大きな物語が中心となりがちだ。
あちらに行き、こちらに行き、しているうちに、大きな物語に飲み込まれてしまう。
旅の情景を淡々と描くことは、飽きられるからかもしれない。漫遊モノの難しさだろう。
(ただ単に旅の情景が面白くて、旅の物語が進まないうちに、物語が立ち消えになったガ○ディーンみたいな小説もあるが……(T_T))
だからこそ、こういう形で小さな物語をさしはさむ余裕ができてくる。
著者が文字に起こさなかったアイデアが、またいつか日の目を見るといいのに。

あとがきで著者が『ロード・オブ・ザ・リング』に熱く語っている。そこに、著者の人となりが少し見えた気がして、親近感が湧いた。
あー。ほんとに終わっちゃったんだなあ。
ところで、カルナーは……?

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

Here is something you can do.

  • ボランティア・寄付ならプラン・ジャパン
    子どもとともに途上国の地域開発を進める国際NGO

最近のトラックバック