鬱の力
字が大きい。
ここまで大きいと読みにくい、かも。
福岡出身の五木寛之と、北海道出身の香山リカの対談。
テーマは鬱について。
桜庭一樹『私の男』について論じたり、最近の政治家やスポーツ選手の騒動が出てきたり、昨日今日なされたばかりの対談のように錯覚する。
対談であるから、一つのテーマを絞り込んで探求するような整合性や一貫性よりも、一つのテーマにまつわる周辺のこもごもに触れる多様性や包括性のほうを楽しみたい。
読んでいるうちに、なんとなく香山リカの印象が以前と少し変わった気がした。
うつ病についての議論が盛んな今、うつ病と欝状態を区別することは大事だ。
うつ病の定義は、実際、かなり困ったことになっている。定義と概念、状態と治療をめぐる議論は、いつか来た道…と記号論の壁を思い出す。治療に有効なように操作的に定義すればいいじゃんと私なんかは思っちゃうのだが、形としては目に見えない現象の世界は簡単に割り切れないものでもある。
対談は、病として治療対象にすべきうつ病とは別に、時代の持つ欝の雰囲気、欝の力、欝という可能性を提示する。
DSMの台頭に伴う、うつ病の普及と拡散を問題視し、病気だから治せばよいという短絡的な発想へ警鐘を鳴らす。
小説家の知見の広さには驚く。その中で面白かったのは、モネ(1840-1925)以前のヨーロッパでは、雪を「病んだ自然」と捉えていたということだった。
連想したのは白雪姫だ。グリム兄弟はモネよりも時代がやや早いから、白雪は純潔の象徴などではなく、「病んだ自然」、人を拒絶するものとしての自然(キリスト教的理解に短絡的に基づけば自然は人間のために神が用意したもの)という文脈での読みが可能になる。
面白くない?
「雪のように白い肌、血のように赤い唇、黒檀のように黒い髪」は、なかなか不気味な象徴の集合となりそうだが、果たして当時の文脈ではどのように理解されていたのか。
想像は膨らむ。
逆の意味で気になる部分もなかったわけではない。
たとえば、文中にカントも登場するが、フロイト以前、哲学者の役割は家庭教師であり、カウンセラーのような役割もしてたことが挙げられる。
哲学を純粋に知的な作業と位置づけることがそもそもの間違いであり、ウィトゲンシュタインやニーチェを引くまでもなく、自分自身を賭したぎりぎりのところで編み出された言説であることのほうが多いのではないか。
日本における宗教観や彼岸の感覚のあたりも私の好きなトピックだが、どうこう言えるほどの知識がないから、んー?と疑問符を飛ばしたことだけ書いておく。
それと、近代医学は高価で、代替医療は安価であると誤解を生むような箇所があった。そこには、ちょっと反論したくなった。
交通事故後の鞭打ちを治してくれたのは、鍼灸院の先生だったもん。CTやレントゲンに異常がないから痛むのは気のせいと片付けられて、鎮痛剤しか処方されないところを、根気強くケアして、予防的なストレッチやトレーニングを教えてもらったんだもん。
保険の対象になるかならないかで、後者のほうが高価だったぞ……。
医療格差と言っているそばから、西洋的なものや近代的なものに価値を置く傾向がおのずと露呈してしまっているところに、価値観の持ちようの難しさを感じる。
個人的なことであるが、私自身は躁が苦手で、鬱っぽい人間だ。うじうじぐだぐだと考え込むのが習い性である。だから、哲学にも興味を持った。
自分を正当化するために、クラインのパーソナリティ発達論を重視する。すなわち、抑うつに持ちこたえる力を身につけることが、成熟の糸口になる。
うつ病は治すことが治療目標となるが、鬱状態はそれに耐えられるようになることが目標になるのだと思っている。
そんなのしんどいやんと言われても、一つも落ち込まない人生ってありえんと思うから、こういう正常化を図るような路線の本が出てきてくれてほっとした。
しかし、新書って分類しづらい内容が多いなぁ。対談だからエッセイじゃないけど、専門書というほど硬くないから……うーむむむ。
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