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香桑の近況

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2008年5月

2008.05.31

スリーピング・ビューティ2:眠り姫、歓喜する魂

眠り姫、歓喜する魂―スリーピング・ビューティ〈2〉 (扶桑社ミステリー)  Anne Rice 柿沼瑛子(訳) 1999 扶桑社ミステリー文庫

眠り姫、反抗期です。

従順さを追求すると、ひとつの矛盾が生じる。
積極的に受身的になるというのは、どういうことか。
受身的にしていても懲罰をうけるのであれば、なにゆえ恭順を示さなくてはならないのか。
懲罰が称賛であり、褒美であるのならば、よい奴隷はますます懲罰を受けるように振舞うべきであるのか。
そういった混乱が、いわば反抗期のように、眠り姫を襲う。
なぜ、私達は従うのか。

眠り姫を目覚めさせた王子の城から出て、ひとつの村に舞台を移す。
貴族達の玩具から、民衆の奴隷に、レベルアップ(?)だ。快楽を伴う懲罰の世界から、ただ単に、労働のための懲罰が加わる世界に。
前巻のラストに登場したトリスタンは、奴隷というより馬。日本では犬になりそうなところが、このシリーズでは馬になるらしい。馬の文化が、日本よりも日常的なのかな?
権力構造において、男性を強者、女性を弱者とするのではなく、強者の女性も出てくれば、容赦なく男性も弱者にされる。
というか、著者は、男性を引きずりおろす過程を楽しんでいるに違いない。と思う。

マルキ・ド・サドは組み合わせの無限のヴァリエーションを示したというが(三島が書いたのか、誰が書いたのか忘れたが)、エロスは関係の種類と行為の種類の無限のヴァリエーションから成る(プラス、感情だけど)。
が、ヴァリエーションを貫く主題は、統一されるのではないか。そこに思いを馳せるのがトリスタンだ。
真の服従とは何か。真の自由とは何か。完全な隷属が完全な解放に通じる経路になる。
そのあたりの考察、マゾの気持ちはよくわからんと首をかしげたフロイトに、読んでもらって感想を聞いてみたい気がする。
『O嬢の物語』と比べてみても、はるかに丁寧な検討であり、描写である。

トリスタンは素晴らしい出会いを果たすが、眠り姫の魂はいまだ眠り姫のものであり、誰にも譲り渡さずに誇り高くいる。
体も心も魂までも、すべてを捧げられるような出会いはあるのか。それは、もはや、愛と呼ばれるのものではないのか。
彼ら二人は、第三巻へと連れ去られる。さらなる高みへたどりつくのか。
この巻の解説(小谷真理)も、興味深く面白かった。

 ***

スリーピング・ビューティ1:眠り姫、官能の旅立ち
スリーピング・ビューティ3:至上の愛へ、眠り姫

スリーピング・ビューティ1:眠り姫、官能の旅立ち

眠り姫、官能の旅立ち スリーピング・ビューティ〈1〉 (扶桑社ミステリー)  Anne Rice 柿沼瑛子(訳) 1998 扶桑社ミステリー文庫

プリンセス・ストーリー強化月間です。

というわけで、これをはずさないわけにはいかないだろう。
今までアップをためらってきた、アン・ライス版眠り姫三部作を再読。
大人の女性向けのリライト。大人向けというのは、きわめてエロいから。
女性向けというのは、男性が読んでどう思うか、私の想像の範疇を超えるから。
いっそ、腐女子向け、と言ってしまってもいいかもしれない。

物語は、童話のクライマックスから始まる。
王子が王女を目覚めさせた。その後はどうなる?
そこからアン・ライスの妄想が広がる。
女性のエロティックなファンタジーは、ここまでパワフルなのだ。

眠り姫は身勝手な王子に導かれて、服従と受容の美学を学ばされる。
SMといっても、洋の東西では趣が随分と違う気がする。
たとえば、とにかく叩く。がんがん叩く。そこまで叩くかっていうぐらい叩く。
素手でも叩くし、パドル(へら)でも叩くし、鞭でも叩くし、みみず腫れになるぐらい叩く。
泣いてもわめいてもいけない。不服従もためらいも許されない。奴隷は進んで身を捧げなくては。
思わず引いちゃうような暴力性。それは燃えんやろ! 萌えちゃうやろ! 萎えるって!!と、つっこむところも多々ありながらも、怒涛の勢いで服従による解放とはなんぞや?と問いかける。
アン・ライスのすごいのは、三部作を通じて、徐々に服従の形と解放の度合いを深めていくところだ。

冒頭を除いて、眠り姫はずーーーーっと裸。
ほかの王子や王女も、裸がいっぱい。そこで、男性の裸を無防備で弱々しさをはらむものとして描くところに、アン・ライスの炯眼が光る。
SMのほか、女性同士、男性同士の同性愛が出てきてもひかない度胸が必要だ。情緒も興趣もわびさびもない、なんでもありの様相は、和モノAVとはなにか異なる洋モノのテイスト。
どちらかといえば男性の裸体、男性同士の行為を描くほうに丁寧さを感じるところが、腐女子向けと書いた所以である。

ちなみに、眠り姫を目覚めさせた王子の影は急速に薄くなる。甘やかされた傲慢で、躾けられていない王子は魅力がないのだ。
鍛え上げられて、磨き抜かれた王子たちが次々と出てくる。傲慢なタイプや豪傑なタイプ、端整なタイプに可愛いタイプ……。女性向け恋愛シュミレーションゲームのように、一人ぐらいは好みの男性も出てくるかも?

 ***

スリーピング・ビューティ2:眠り姫、歓喜する魂
スリーピング・ビューティ3:至上の愛へ、眠り姫

2008.05.30

少女七竈と七人の可愛そうな大人

少女七竈と七人の可愛そうな大人  桜庭一樹 2006 角川書店

少女を描くことにかけては抜群の桜庭一樹が、どのように「白雪姫」を解題するか。
タニス・リー『鏡の森』と読み比べてみたいと思った。読み終えた今の感想では、読み返すならこっち、かな。
断然の読みやすさ、ユーモア、そして、風土。モチーフは匂うごとくに漂うだけで、桜庭らしいオリジナルの物語になっている。
舞台は、旭川。やはり雪の降る土地柄でなくては。

短編「辻斬りのように」は、私が最初に読んだ桜庭の文章だったが、痛々しくて少し苦手に感じた。それでしばらく桜庭作品そのものを避けていた。
今回、読み直してみると、やはり痛々しい。これが、桜庭の描く、アルパツィア。
強烈な個性があるわけではない。平凡で、可愛そうな女。愛する人は愛してはいけない人だったから、呪いがかかった。もの狂い。

いんらんな母から生まれた子どもは美少女であり、平凡ではなかった。その顔が、母の罪を露呈する。
美少女である七竈の鏡は、雪風という同じ顔の少年である。鏡がこうなるか!
七竈には、父親も、継母もいない。ただ、いんらんの母と物静かな祖父と、犬がいるだけ。
その美しいかんばせが呪いである。王子しか釣り合わない美貌。しかし、日本のどこに王子がいようか。誰とも見合わぬ、非凡さという呪い。
成就せぬ恋という呪い。

かつて私は早く年を取りたかった。女でなくなればいいと思っていた。
あるいは、誰も知り合いのいない場所に行くことを好んでいた。私が私でなくなる開放感が必要だった。
そんな時代を思い出してみたけれども、気持ちはどこか母親である優奈のほうに惹かれた。
十代の少女に自分を重ね合わせるのは、ちょっと難しくなってきたみたい。やばい。……いや、当然か。

平凡であることの苦しみ。好きな人に近づく勇気を出せない苦しみ。
好きだった。好きだった。好きだった。どうしようもないほど。
忘れられない。心の中の特別な場所を捧げた、その人のことは。
若くて美しくて、今よりは少しでもマシな自分で、手に入れたかった。
綺麗で清潔で純粋なまま。恋心が老いて傷んで腐る前に。
私があなたを穢すことなく。しかし、手に入るなら伸ばさずにはいられず……。

このどろどろ具合が、同じもの狂いの覚えがある昭和の女の心に響いた。
あと、昭和の男がいい。確かにいい。うむうむ。
桜庭流の母と娘というテーマの描き方は、よしながふみを読んだときのような、そうなのよ!と言いたくなる感覚があった。
男性には見せず、女性だけで共有しておきたくなる作品だと思う。
最後に、名言を引用しておく。一時期よりも母をゆるせるようになった私は、それだけ年を取ったということなんだろう。

 ***

Photo 女の人生ってのはね、母をゆるす、ゆるさないの長い旅なのさ。ある瞬間は、ゆるせる気がする。ある瞬間は、まだまだゆるせない気がする。大人の女たちは、だいたい、そうさ。(pp.267-268)

七竈の花の香りをかぎました。甘い、甘い香りでした。ねっとりと濃厚な、ディオールの香水のような香りでした。

2008.05.29

鏡の森

鏡の森  Tanith Lee 環 早苗(訳) 2004 産業編集センター

原題はSnow as White。雪のように白く。
最後まで読むと、邦題が味わい深い。
ずいぶん前に買ったきり、冒頭を読んだだけで長く積んでいた本である。
若桑みどり『お姫様とジェンダー』を読んだので、読み比べてみようと思った。
タニス・リーは、プリンセス・ストーリーをどのように仕立て直すか。

白雪姫を骨子として、あるときは眠り姫、またあるときはシンデレラ、また、赤い靴など、有名なおとぎ話を重層的に絡み合わせながら母と娘の物語が進む。
降り積もる雪のように、うすら白く表面を飾る欺瞞と偽善をはぎ落とし、もともとの物語が持っていたであろう、黒さと赤さを取り戻した物語だ。
より複雑に、より多様に、より曖昧に、より混沌に、より寛容に。
より猥雑に、より単純に、より明瞭に、より純粋に、より……。

知っておかなくてはならないのは、最低限のギリシャ神話の知識である。詳細に知らなくてもよい。だが、神々や英雄の名前や関係を知っていると、人物の配置や役回りがわかりやすくなる。
たとえば、月の女神は処女を守り、英雄を愛しては殺す。英雄は殺されなくてはならない。詳しくは、林道義『日本神話の英雄たち』に解説されている。

大地の女神コイラ-デメトラ(デメテル)-ペルサフェ(ペルセフォネ)。
英雄にして神々への犠牲オリオン-クリメノ-ディアヌス。
三位一体の神々は、三角を描きながら物語を進める。多様で複雑で曖昧な世界という物語を。それは、まるでエディプス・コンプレクスの三角のようだ。
我と鏡の一体化した子ども時代。よき母と悪き母の分離する体験。我の一部を切り落とした部分対象の混乱と抑うつ。
思春期になる頃、三者関係の体験を経て成熟への経路が開かれるように、三角形にステップを踏み踊りながら物語時間は経過する。

ネグレクトや虐待の中で育ち、愛することも、愛されることも知らずに、体ばかりが大人にさせられた二人のヒロイン。
 あなたはわたしに愛させてくれた。わたしにはそれだけで十分よ。
愛することを覚えたときには、既に愛されていた。セックスではない。キスでもない。ヒロインを目覚めさせたのは。
幼い心は、それでもなお、愛し合うことを覚える可能性を持っている。いかなる暴力にも屈せず、簒奪にも負けず、生き抜く力がある。身も心も育ち、大人となり、いつか暴力の連鎖を断ち切るであろう希望が、ここには記されている。
娘であり、妻であり、母である女性が成長していく過程であり、複数の役割の中で幸福を模索する過程であった。

他方で、男性はどう描かれているか。
「王子」は、はっきり言って、魅力的ではない。自称Prince Charmingの胡乱さ。王様もかなりダメダメ。伝統的なロマンス小説には爵位を持っているヒーローが多いらしく、アメリカのヨーロッパ的なものへの憧れを感じたりもするが、その憧れをきちんと砕くような人物設計がされている。
「英雄」は、犠牲の子羊の役割であるが、自らの魅力で選ばれている彼らは、その美しささえも勤労の賜物であり、見掛け倒しではない。チャタレイ夫人のモチーフを想起したが、ハドス(王子/死の神)がペルサフェ(コイラ/カンダシス)を失い、クリメノ(犠牲になった英雄/死者の王)がペルサフェ(アルパツィア)を得る。
「神」の素晴らしさは、外見ではなく、知性にこそある。鍛冶の神は片足が不自由であり、子どもの頃に投げ捨てられ、やがて美の女神の夫となった。

性や障害、種族といった、いかにもアメリカ的な差別に対して、自覚的に自制的に編み直されている。
ちょっと最後のほうが駆け足で物足りない感じがしたが、なかなか興味深いリライトだと思った。
ラストに掲げられた希望もよい。どんな生まれ方をしたとしても、どんな血を引いているとしても、産まれる子どもは雪のように穢れなく白いのだ。

2008.05.20

お姫様とジェンダー:アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門

お姫様とジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門 (ちくま新書)  若桑みどり 2003 ちくま新書

女性というだけで、一くくりに語られるのは嫌いである。自分の女性性とつきあうために、私には私の苦労があった。
フェミニズムは、男女差別とは別の次元から、女性を一くくりにする言説に陥りがちになるのが困ったもんだ。

本書に違和感を随所で感じるのは、いくつかの理由があるだろう。
第一に、赤松啓介の次に読んだことで、両者の立場や見解の相違が、予想以上に隔たって感じられたことがある。家父長制度へのアンチテーゼとしての母性原理の再評価というロジックについては、一般的なフェミニズム論は過度に欧米スタンダードに陥っている印象を受けた。
第二に、私が20代のときであれば好ましく感じていたことが、今の年齢になるとそうでもないことがある。
いや、今でも、そうそうそうであると読みならが頷く箇所もある。が、そうかな?と首をかしげる箇所もある。
「結婚して家庭を持つことが幸せ」という伝統的スローガンを著者が否定するのと同様に、「職業を持ち社会的に成功することが幸せ」という著者のイメージを私は否定しよう。それだけが幸せのイメージであるとしたら、エコロジカルではない。
第三に、本書が書かれて5年以上が経ち、社会的な環境の変化が、著者の予測する方向性と必ずしも重なっていない点にあろう。現在首相である福田氏が官房長官として登場しているのが象徴的だ。

フェミニズムは少子化には貢献した。
しかし、少子化対策には貢献するのだろうか。
フェミニズムは家事労働に従事することを苦行として捉え、抑圧であり、差別であるという。
そうすることによって、家事および育児に対するネガティヴ・キャンペーンを行なってきた。
自己実現は、結婚によって行なうものではなく、社会的・職業的なキャリアによって果たされるべきであるというバイアスを、この本に感じる。

著者は結論では、結婚は収入を理由に行われるべきではなく愛をもって成就されるべきであること、家庭と仕事の両立を男女共に果たせるように、と理想を掲げる。
しかし、著者は失念していないか。家事にしろ、育児にしろ、知識だけで解決するものではない。技術には習熟が必要である。習熟には訓練の時間が必要である。その時間を、女性も、男性も、人生のどこで設けろというのか。
そして、終わりのない家事労働は片付ける端から生じ、時間をかけようと思えばいくらでもかけられる。その時間を、女性も、男性も、生活のどこで設けろというのか。
両親の介護や、家族の病気などが生じれば、当然、家庭と家族に関わる仕事量は増える。出産のみならず、老病死も人生に訪れる。そのあたりを充分に考慮されているのだろうか。
エコロジカルな面でもエコノミカルな面でも自力で丁寧に生活すること。そういうものに魅力を感じはじめたのは、とりもなおさず、自分が年を取った証左のようで、書いていて少々複雑であるが……。

もちろん、ジェンダーについて学ぶことは有意義である。
与えられた知見も多く、私の人生への影響は少なくない。その恩恵を、私は受け取っている。10代から20代にかけて、学ぶ機会を持てたことは幸いである。
それでもなお、あえて、現在の私は、自分はえせフェミニストでよいと思っている。

なぜか。
フェミニズムは「男女の固定的な性役割意識」をターゲットにしており、中でも「男女の性役割」を崩そうとしてきたと思う。しかし、私は成長にはモデルが必要であり、モデルを失うことで全員が全員、自分探しの旅に出された結果、迷子になったり、遭難した人たちがひきこもりおよびひきこもり予備軍として現れてきているようにも感じている。
私は「固定的な役割分担」をゆるめて、フレキシビリティを獲得することにはかつてから賛成であるが、枠組みを壊滅させることには手放しでは賛成できない。その都度、その都度、枠組みを作り直す労力を、これから成長していく子ども達に強制することになってしまう。
私は大人の一人として、自己実現という課題に立ちすくんだり、恐れおののいている子どもたちへの援助を模索したい。

久しぶりにかちっとした、ジェンダーを扱う本を読んだため、本書の感想そのものからずいぶんと離れてしまった。
「白雪姫」「シンデレラ」「眠り姫」の3つのディズニーのアニメを取り上げた講義の記録が本書の中核であり、学生たちの感想は興味深い。
個人的には、ディズニー・アニメでは『美女と野獣』が好きだったりする。なぜなら、主人公が読書好きだから。知性と勇気を持つ女性である。『木蘭』は絵が苦手で観ていないが、おとなしく待つだけのヒロイン像ではまずいかも?という意識はディズニーもあるんじゃないかと思ってあげたい。文化的多様性とフェミニズムへの配慮の結果として、ヒロインの再生産が難しくなり、ディズニー・アニメは頭打ちになった、とも。
他方で、プリンスもまた行き詰っているとも感じており、考えたが、いい加減長くなってきたので割愛する。

新しいヒロイン(女性の登場人物)像は既にいくつも登場している。妥協点はいくらでもあり、達成点はいくらでもあるだろう。
有川浩『図書館戦争』では、主人公が憧れの人を「王子様」と呼ぶ。彼女は典型的にプリンセスストーリーに毒され、ロマンチックラブの伝統に絡めとられているのであろうか。
しかし、『図書館戦争』を読んだことがある人なら、主人公がただのお姫様ではないことをよく知っているあるである。なにしろ、笑顔に返り血の似合う女性だから。笑
あるいは、キャサリン・アサロの描くソズ。マーセデス・ラッキーの描くタリアやケスリー、ケロウィンら。
ファンタジーをファンタジーとして楽しんだり、伝統的な性役割をも含みこみつつ、なおかつ、その人らしさを楽しむ余裕を持つ地点は、まだ遠いのだろうか。
他者に心配りする心性と技術を軽んじることなく、未来へと繋いでいきたいものだ。

2008.05.15

夜這いの民俗学・夜這いの性愛論

夜這いの民俗学・夜這いの性愛論  赤松啓介 2004 ちくま文庫

コツとアジワイがあるという。前者が技能練磨的であるならば、後者はそれに人格的熟成が加えられものだ本文中に定義されている。文章にもアジワイがあり、赤松の名調子のアジワイは他の追随を許さない。
関西弁で、あけすけにずけずけと語る名調子。古い地名や歴史的名詞、隠語、方言などに戸惑うが、歴史的なワイ談の集大成として魅力的な一冊である。
上野千鶴子が解説を書いているところにも、にやりとした。

『夜這いの民俗学』は再読であるが、『夜這いの性愛論』は今回が初読だったかもしれない。両者、内容の重複はあるが、どちらも、明治から大正、昭和初期の、村や町の人々の生活が性風俗を中心に活き活きと描かれている。なお、前者が主に播磨あたりの山村を舞台としており、後者は大阪の町を舞台にする。
今は失われた庶民の生活の資料として非常に面白い。多少の誇張や偏向はあったとしても、それを確かめる術は既にない。なにしろ、著者の体験に基づく記述であるため、反論しようにも反証の材料を集めることことが困難であろう。
同じ時代を生きた人は、既に鬼籍に入っていることと思われる。したがって、著者が「タダで教えるのはもったいない」と割愛した部分も、もうどうにも知りようがない失われた知識となった。

自分の女性を意識し始めた高校生の頃、瀬戸内寂聴の本を読んだ。『ブッダと女の物語』だったか、書名を記憶していないが、必ず女性の身体を「糞尿のつまった袋」と形容しており、非常に嫌な気分になった。
次に出会った上野千鶴子『スカート下の劇場』ほか、一連のフェミニズムの文体は、明晰で、切れ味のよいものが多かった。痛快でスリリングなものもあれば、好感が持てないものがあったり、ますます女性性をネガティブに意識させられた気がする。伝統的な女性性を否定されると、その伝統を既に内在化させている自分の一部を否定されることになるからだ。しかも、当時のフェミニズムは運動の側面を持っていたことから、多様性を無視しやすい、抑圧しやすい傾向を持っていたと思う。
そのうちに、赤松を読んだ。このざっくばらんで、平然として自然な肯定的な境地はなんだ。たまげた。理論武装してぐちゃぐちゃ考えるのは、あほくさ、という気分になった。そこで、フェミニズムに対する私の興味は終息したのである。だから、思い出深く記憶していた。

本書が面白いのは、性風俗に関するワイ談的側面だけではない。
商家の中の生活空間や、人員構成、階層比較など、性以外の面での描写も、具体的で説得力があり、包括的で新鮮である。
更に、柳田民俗学への批判は舌鋒鋭い。戦時下での学問のありようを問う点で、他領域の研究者も傾聴に値する警句が含まれている。
昨年、筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』を読んだ後、そういえばと赤池のことを思い出した。しかし、私が探していた本とは違っていたらしい。再確認したいことがあるのだが、だとすれば、私は一体何を読んでいたのだろう?

女性33歳の厄払いという習俗が出てきた。そう考えれば、元彼とのつきあいもなんだか愉快になった。
年齢の計算があわないような気もするが、あれも一種の厄払いということで、厄と一緒に払ってしまった。そういうことにしておく。
でも、やっぱり、上野なんと言おうと、赤松がなんと言おうと、私はロマンティック・ラブに憧れを持つなあ。私はえせフェミぐらいがちょうどいい。

 ***

運動ができん時代は、なにもせんでもええやないか、わざわざ敵の太鼓をたたいてやることはない(pp.19-20)

人間の世界にあまり幻想をもたぬことだ。(p.73)

2008.05.06

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説  桜庭一樹 2006 東京創元社

女性にとっての自由とは何か。
女性の役割は何か。何を期待されるのか。何を期待するのか。
私は、この小説は、50年がかりの恋愛の歴史だと感じた。
三代を経て、ようやく好きな男と寄り添うことを許された、そういう女性達の歴史である。

1953年。
この前後が、伝説の時代の最後の年であることは、どうやら共通の理解らしい。
だから、この時代を舞台に選んだと、京極夏彦も言っていた(気がする)。
民俗学からは、赤松啓介がそんなことを言っていたような気がする。多分。
そして、近代から現代に移り変わる時代を、駆け足で著者は追う。
そのスピードにいささかたじろいだ。

自分が生まれた年から現在まで。
自分にとってあっという間に感じるとしても、それ相応の年月を要して経験を積み重ねてきた。
その出来事が、限られた紙数の中に折り畳まれて、ほんの数行で片付けられていく。
自分の人生が歴史から削り落とされていくような、自分の存在の些少さをつきつけられるような、不安感におののいた。
自分の生きている時代が、いつか未来において歴史として語られるときには、こんな風になると未来視させられたような体験だった。

淡々と描く文章は、古めかしく堅苦しく見せておきながら、人を食ったような表現をさらりと含み、どきりとさせられたり、笑わせられたり。
もったいぶりながら滑稽を織り交ぜる感覚は、桜庭一樹と森見登美彦は似ている気がする。
桜庭の場合、そのひょうきんさは、特にネーミングに見出すことができる。たとえば、ぶくぷく茶とか鉄砲薔薇とか、しれっとありえぬ存在を生み出して見せる。
人物名とて例外ではなく、毛毬とか鞄とか孤独とか、そんな名前が真剣な文脈にぽいっと放り込まれている。
それでいて、作者は名づけの魔法を踏襲している。名前と運命は不可分である。
トーコの恋人は、ユタカという名前でなくてはならなかったのだ。千里眼奥様の孫娘には瞳子という名前がふさわしいし、豊さんへの思いを託された。

瞳子が婿養子を取らなければ、赤朽葉という名字はこの世から消える。少なくとも、本家の系譜は途絶える。
本家の娘と本家の息子が婚姻して生まれた一人娘の私は、自分が残さぬ名前や血筋のことに思いを馳せる。

わたしたちは自由を手に入れたのだろうか。
それとも、自由の名前を得られなかったように、やはり束縛されたままであろうか。
答えは、おそらく、どちらも正しい。手に入れたものと失ったもの、手に入れたものと手に入れられなかったものがある。
かつて夢を見た人が歌ったように、世界が一つで平和になってはいないけれども、世界はやはり美しいのであるから。

余韻が静かにしーんと胸の中に沈んでいて、言葉にするのが難しい。おそらく、後から後から湧き出てくる思いがあろう。
よい本と出合ったと思った。読み応えがあり、反省も込められつつ希望の残される、よい本だと思った。

***

TBのかわりに……

やぎっちょさんのブログ『"やぎっちょ"のベストブックde幸せ読書!!』 赤朽葉家の伝説 桜庭一樹☆☆☆
何から書いていいのか、まるでわからない。。。 すごく書きたいことが多いような気がして。

藍色さんのブログ『粋な提案』 赤朽葉家の伝説 桜庭一樹
Book Designは岩郷重力+WONDER WARKZ。書き下ろし。日本推理作家協会賞受賞。「このミステリーがすごい2008年版」2位。

2008.05.03

丹生都比売

丹生都比売  梨木香歩 1995 原生林

太陽の光のもとを歩むことが似合う輝く人がいる。
他方で、闇の中にひっそりと息づく人もいる。
月光に慰められ、星の光に導かれ、陽光に憧れながらも諦める人もいる。
梨木香歩の鋭敏な感覚は、闇に隠れて身を守る人の痛みを、静かに掬い取る。
壊れやすいものをそうっと取り上げ、美しいまま紙の上に広げてみせる。

草壁皇子という歴史上にひっそりと名前を残す子どもが主人公だ。
中大兄皇子(天智天皇)の孫、大海人皇子(天武天皇)・鸕野讃良皇女(持統天皇)の息子という立場にありながら、玉座を継ぐことなく夭折した悲劇の人として知られる。
本書の中には系図も書かれており、異国を描くファンタジーとして読むことも可能であるが、古代史の知識があるほうが尚更味わい深いであろう。
特に、神を招く作法であるとか、神の立ち現れ方は西洋流のものとはちょっと異なるから。

梨木作品の中でも異色のようだが、時代に翻弄される無力さを描く点や、不思議なものと出会う異郷との境界線上に立つことでは、一貫している。
母と子の葛藤を描いていることも、だ。実の母親と、どうにも折り合いがつかないことがある。
愛している。愛されている。それなのに、埋め尽くせない、鬼の巣食う隙間ができる。
草壁皇子は、母親の多面性に戸惑いながら、引き受けていく。よい母でも、悪い母でもなく、その両方を持つ母親を。我が身を賭して受容する。
もはやまったき母親はいないという諦念の哀しみだけが残されるとしても、おそらく哀しみだけが憎悪や怨恨を乗り越える力を持つのだ。

童話と呼ぶには大人びて、神話と言うには生々しい、美しくも切ない物語だった。

ザ・万歩計

ザ・万歩計  万城目 学 2008 産業編集センター

この人は、やっぱり文章がうまい。
笑いながら、でも、うなってしまう。
文章に嫌味がないのは、ほどよく自分をネタにできる、関西の洗練された笑いの文化の所為か。
とことん自分をネタにして、人を傷つけずに楽しく優しい気分で笑いあう。そんな姿勢に、上品を感じる。
たとえ、御器齧りとの奮闘記であったとしても。

学生時代のことや、海外旅行のこと、作家になる前の会社員の頃のこととか。
こもごもの日常の出来事を、くすりと笑うような特別な出来事に変化させるのは、作家のセンスにほかならない。
目の付け所。視野の広さ、視座、視点の持ちよう、目線の角度など。小説家の目が、単なる日記をエッセイに変える。
Boiled EggのHP上で読んだものもいくつかあったが、今見ると、サイト上から読めなくなっていた。当り前か。
表紙の万城目氏にお友達パンチをくらわす右腕は、森見氏が友情出演しているらしい。その表紙も凝っているが、表紙と同じイラストを用いたしおりも凝っている。

猫好きとして、ねねの話に涙ぐむものがあった。
そうなのだ。うちの猫達は私が拾ったので、彼女達が去る日まで、私は面倒みたいと責任感を感じている。
だって、彼女達はとても忠誠心に篤いのだ。猫嫌いの人は信じられないかもしれないけれど、猫という生き物にはそんなところがある。

この本を読了後、モンゴルでの乗馬体験をうりにした旅行のパンフレットを、そっと古紙の山の上に置いた。
私の技術ではもともと参加できないのであるが、これを目標に掲げて練習に励むのは、私には不向きであると判断する。
自給自足の生活ほど厳しいものはない。大自然は、けして人間に優しくない。牧歌的でいられるのは、ある程度、条件がよい中で文明を享受しているためだ。
ついでに、砂漠でラクダに乗りたいという夢も、熟慮に熟慮を重ねて検討すべきらしいこともわかった。アラビアのロレンスごっこ、してみたいんだけどなあ。

最大の爆笑ポイントは、突然、訪れた。ぶほはっ、と、噛み殺しきれない笑いが、変な音となってあたりに響いた。
これほど見事に、不意をついて、弱点をついてくるとは。だから、マキメは侮れない。
産婦人科の待合室にいるのでなければ、大爆笑をしていたであろう箇所は、下記である。
 「おお、この道はまさに、今もやっているのかどうか知らないが、大阪国際女子マラソンで、唐突にアルフィーの曲がかかるコースそのままではないか」
……今もやっています。
どの辺りで、どんなアングルで、どんな景色が映されるのか、瞬間的に脳裏にひらめく。
ああ、ほんとに、驚いた。
先に読んだ友人は無事だったのかな?

1982-2007 大阪国際女子マラソン Song by THE ALFEE 1982-2007 大阪国際女子マラソン Song by THE ALFEE

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TBのかわりに……

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2008.05.01

彩雲国物語(16):黎明に琥珀はきらめく

彩雲国物語  黎明に琥珀はきらめく (角川ビーンズ文庫 46-16)  雪乃紗衣 2008 角川ビーンズ文庫

秀麗、その男でいいのか?
ほんとに、ほんとに、その男でいいのかっ!?

娘のように可愛い秀麗の将来が、あやぶまれてなりません。
よりにもよって、その男。
魅力的であることは、その他の男性登場人物同様、否定すべくはありませんが、ますます劉輝とは距離が隔たっていくようだ。

本編はじっくりと、しかし、着々と物語が進んでいっている。
作者の筆力、特に物語を組み立てる能力に驚く。
主人公たちの成長を、エロにもよらずグロにもよらず、政治で描きだすのは、生半な技量ではないと思う。
複雑で多様で曖昧な人間関係や社会状況。多面的で両価的なものの見方や判断ができることも大人の要件だ。

人生においても、迷子になって途方にくれていた絳攸は、光を見出すことができるのか?
迷路の出口、人生の指針、行く手を照らし、いかなるときにも見守り温める光を。
実はこれまでも惜しみなく降り注がれてきた、優しい光を。

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