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2007.12.27

戦場の精神史:武士道という幻影

戦場の精神史  ~武士道という幻影 (NHK出版)  佐伯真一 2004

男同士のさわやかな決闘。
改めてそこだけ読むと、違和感を覚えはしまいか。

さわやかな戦争、戦闘行為。その表現に、矛盾というか、欺瞞というか、あれれ?と微妙な感じがする。
ルールがあり、チェアマンがいるスポーツの世界でさえ、いつも必ずきちんとフェア・プレイ精神が守られているとは言いがたい。サッカーでイエローカードの理由に、「反スポーツ的行為」を見つけることさえできる。
にもかかわらず、チェアマンがおらず、外在的にルールが存在しているわけではない戦争において、この現代、スポーツマンシップに則ったフェアプレイを誰が期待するであろうか。
個々の従軍者の内在的な良心や信念に基づき、美談が生まれることはあろう。美談が立ち現れるのは、それが当たり前ではなく、それが滅多にないことだからである。

記紀の昔より始まり、平家物語や将門記、保元物語、今昔物語、太平記、甲陽軍艦、葉隠、五輪書など、高校の日本史や古典に出てくる文献がぞくぞくと目の前で展開されていく。書名は知らずとも、新田義貞、貝原益軒、山鹿素行、荻生徂徠、吉田松陰、木戸孝允、山岡鉄舟らの名前に見覚えはあろう。
この本は「武士道」をキーワードに、精神史、思想史として、歴史上の人物たちの倫理観や価値観を概観することができる。
軍記物語のほとんどを題名ぐらいでしか知らない私が読んでも、すいすいと引き込まれてページが進んだ。
古文の引用も平易な言葉で解説し、丁寧でわかりやすく、武士たちの姿は生き生きとして描き出され、面白い。説得力がある。

特に、古典を読んだとき、名だたる武士の大活躍を描く名場面が、どうもかっこ悪かったり、せこいと感じたことのある人ならば、この本を読むと腑に落ちるだろう。
時代小説に描かれるような武士と違い、彼らは、決して、正々堂々とさわやかにりりしく戦っているとは限らない。
不利な条件から強きをくじこうとする者に、判官贔屓をしてしまいがちであるが、奇襲という名のテロ行為やだまし討ちも多く、戦闘行為はどう描いても残酷さを伴う。

プラトンは『国家論』で、国をなす身分を三段階にわけて、それぞれの職分を論じている。つまり、守護者=哲学者=政治家、戦士、職人である。それぞれ、守護者は知恵、戦士は勇気、職人は節制の徳目を備えることが望ましい。実態としてはここに奴隷身分が加わるが、奴隷は理想的国家の市民ではない。
本書を読むと、いわば、中世からの戦乱の時代、武士は戦士であったが、太平の世を迎えた頃から戦士としての機能よりも、政治家としての機能を求められるようになった。その転換を経て武士が生き残るために、武士道という武士の心得も様変わりを迫られたことがわかる。
戦士は戦士として、戦いに勝ち抜くことを心がけることが求められるのと、政治家として、哲学者として、仁義礼智忠信孝悌の体現を心がけることが求められるのとでは、生き様も考え様も、まったく異なって然りである。

武に対して、何を対立概念とさせていたのか。その説明が興味深かった。
中世は、文武という形で、武士と公家の対立。
江戸時代に入ると、文=中国=儒学者と、武=日本=兵法家との対立。
さらに、明治以降は、西洋=科学と、日本=武士道(仏教、儒教もろもろを含む)との対立。
武士道は、「反公家(朝廷)と皇室尊重、反儒教と儒教、反西洋と西洋文化、そして反道徳と道徳」(p.264)と、その場その時の線引きによって、包含するものを変えてきた。
この流れを踏まえていると、『葉隠』の特異性や、新渡戸『武士道』に断絶性が見えてくる。

「武士道」という名の下に美しく描かれ高く掲げられているものが、ファンタジーだと言われるとひどく納得できた気がする。
イデアルなものは、リアルから遊離あるいは乖離しているからこそ、イデアルとして成立しうるのだと思う。
武士の生活上に必要な経験の知から抽象化し、理念形となったときから、それはファンタジーの側面を含むようになった。
しかも、武士なる階級、武士なる存在がリアルなものではなくなったとき、ますます現実から離れてしまうことができたのだろう。
新渡戸『武士道』以降の武士像は、実態から離れた幻想を理想化したものと見極めると、これをもって日本の固有の古来の伝統の精神と標榜することの危うさも見えてくる。その危うさが見えれば、安易に戦争を美化する風潮の愚かしさも見えてくる。

リアルに立ち戻るための経路として、戦場でフェアプレイは成り立つのか?と、アフガンでもイラクでもコソボでもアゼルバイジャンでもカシミールでもクルドでも思い起こせばよい。
もう一つ、思い起こすものをあげるならば、武士道は日本古来の精神というならば、古来、日本に武士はどれだけいたのか、武士ではない人たちよりも多かったのか、考えてみればよいのではないか。
根本的に、誰もが素晴らしく高潔な精神性を有しているのであれば、戦争が起きるわけがないような気がする。
近年において、著しく人間性が低下とか退化とか交替した訳ではない。人間は人間。今も昔も。
理想を持ち込むことは大事であるが、思想が優性を証明して差別の根拠とされたり、非現実的な要求となって自己と他者とを苦しめるなら、それはもう理想としての価値を失った呪詛でしかない。

かつての友人が勧めていた本を図書館で見つけた。
悔しいけど、この人が勧めるものは興味深いものが多い。
これも面白かった。残念ながらその人と関わりがなくなってしまったことが、また少し残念に思えた。

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