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香桑の近況

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2007年12月

2007.12.31

天帝妖狐

天帝妖狐 (集英社文庫) 乙一 2001 集英社文庫

中篇2つ。『失はれる物語』に続いて2冊目の乙一作品。
「A MASKED BAWL」は解説を読むまでもなく、トイレの落書きを用いたところが面白い。
こんなやり取りは、学校のトイレや駅ビルのトイレで実際にありそうだ。
「落書きをしないでください」と書くのも落書きじゃないか、という矛盾。
悪意がなくとも人を傷つけることがある。人を傷つけていることに気づいていないこともある。そんな状況作りのうまさは抜群だ。

「天帝妖狐」は、表題からはもっと大仰な物語を想像していた。だから、ちょっと期待はずれだった。
森見登美彦『きつねのはなし』を連想する。京都動物園にいる狐@『鹿男あをによし』とは、ちょっと違うきつねのイメージ。
これは、怪異の物語であるけれども、他者と折り合いがつきにくく、なかなか周囲になじめぬ体験をしている人に、そうっと触れて慰めるようだ。

触れる。
ただそれだけが、自分にとっても他者にとっても、自分が存在していることが確かめる手段だ。
触れられる。
その手が、自分の存在を認め、許し、暖める。守り、癒し、慰める。
だから、触れてほしい。触れてくれた人の手を忘れない。

どちらも端整な日本語でつづられており、大人びて落ち着いた趣がよい。
後者は特に作者の若さが感じられないぐらいだ。
こういうのをホラーというのかな? 怖くはないんだよね。むしろ神話的な表題作だった。

近代能楽集

近代能楽集 (新潮文庫) 三島由紀夫 1968 新潮文庫

中山可穂『弱法師』を読んだ後だった。
ちょうど、読むべき手持ちの本がなくなり、空港で本屋に行った。
「卒塔婆小町」をもう一度読み直そうかと本書を手に取った。
目次を見たら、「弱法師」もある。よい機会だと思い、購入。

能楽の自由な空間と時間の処理、露な形而上学的主題を生かすために、能の古典を現代的なシチュエーションの中にリライトした8篇。
「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「斑女」「道成寺」「熊野」「弱法師」が収められている。
ドナルド・キーンの解説によれば、三島の他の有名な著作も、ギリシアの古典から翻案したものもあるそうで、自分の寡聞を恥じる。

こういう台本形式のものは苦手なのだが、意外に読みやすかった。
「班女」と「熊野」以外はもともとの物語を知っていたからだろう。
中山の作や、もともとの物語と比べるのも面白く、また、作者の思い入れを深読みするのも興味深かった。
女性嫌いであり、肉体を嫌うような、肉体の変化を嫌うような、そういうところに、作者の憧憬と絶望を読んでみる。
「班女」は美しいから、ヘテロセクシュアルものへの嫌悪であったのかもしれない。
望みがかなうことが怖ろしいと思わざるをえない人は気の毒だ。絶望から逃れ得ない絶望だ。

そういえば、この三島の手による「卒塔婆小町」によく似たものが、ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡』の中にあったと思う。
二つの町から互いを目掛けて歩く男女は、その道中で年を取り、出会ったときには互いがわからぬことを繰り返す。そんな短編だったと思うが、エンデの短編集の中だけで、それだけが印象に強く残った。

それにしても、三島作品には、他にない独特の空気があって、能との相性もよかっただろう。
ただ、三島はもともとの能とは筋を随分と変えているものもある。
次は機会があったら、もとの能のほうを味わってみるのも面白かろう。

ちなみに、本書の解説はドナルド・キーン。

弱法師

中山可穂 2007 文春文庫

「弱法師」「卒塔婆小町」「浮舟」の3つの中篇のタイトルを見て、気づく人はわかるのだろう。
私は「弱法師」を知らず、「卒塔婆小町」は三島由紀夫、「浮舟」はもちろん源氏物語を想起した。
間違っていたわけではないが、これらのタイトルに共通するのは、能である。ちなみに、三島由紀夫は「弱法師」も翻案していたことを後で知る。ぎりぎりまで削ぎ落とされた恋愛小説は透徹として美しく、そんなところが能の空気であるのかも。
この短編集で三作に共通していたのは、不可能な愛であり、バッハやシューベルトやモーツァルトのクラシックの音楽だ。

後書きによれば、性描写を書くことに飽きたことで、性描写抜きにエロスを表現することに取り組んだ連作とのこと。
これまでの小説とはその点で一線を画すことを企図したとはいえ、「弱法師」には驚いた。中山可穂の小説で、男性が主人公になるものがあったとは。
主人公の鈍感さに皮肉を感じるけれども、それでも驚いた。面倒な女性にうんざりする様子など、どこかにいそうな男性像である。
エリート医師が恋のために人生を投げ打った物語と言えばありがちかもしれないが、一筋縄ではいかず、なんとも皮肉なラストだった。

「卒塔婆小町」は絶品。小町の魅力は、ここにきて顔立ちだけではなく、内面も伴うものとなった気がする。
女性にとって共感することができる伝説の美女の造詣など、生半にできるものではなかろう。
愛を捧げても足らず、命まで捧げた小説家の深町よりも、その愛を受け取れぬことで人生を狂わされた編集者の百合子のほうが、よほど気の毒だ。
じゃがいもを選べと言われても、たださつまいもが好きだっただけなのに。なにもひどくはない。なにも怖ろしくはない。
愛の名の下に振りかざされる暴力を、弾圧を、強制を、拒絶しただけのこと。彼女は彼女の自由を守ろうとしただけのことを。

これも素晴らしかったが、「浮舟」も素晴らしく、どちらもどんな感想を書いてもありきたりになりそうで、難しい。とてもよかったとだけ書いておこう。
自分を受け留めてもらうような温もりを感じた。愛を自分の辞書から削除せねばならない人生や、身も心も切り刻んだ恋愛と喪失の想い出に、そうっと寄り添うような優しさと励ましを私は感じた。
気持ちが大きく揺り動かされて、後まで余韻が漂うのが中山作品の魅力だ。

これらはどれも心中物ではないか。『マラケシュ心中』の後書きを思い出した。
3篇とも、愛する人と死出の旅路を歩むのではないが、不可能な愛と心中する物語だ。
愛すれば愛するほど、身を引かざるを得なくなる。かなわぬから身を引くのではない。身を引いてこそ、この愛はまっとうするのだ。
ただただ恋ゆる人を得るために。死してなお愛するために。愛する人を守り、許し、幸せを祈り、私から解放するために。
死してからこそ愛されるのは切ないが、我が身を賭して相手の人生に私を刻み込むことになる。
不在が永遠の余韻となる。

それでもなお、愛していたのだ。

 ***

求めても得られないものはいつしか求めなくなるものだ。わたしはこうして諦めてきたのだ。愛という言葉を自分の辞書から葬ってきたのだ。そうして独りで生きることに決めたのだ。(pp.181-182)

2007.12.28

ユウキ:世界で8番目のたたかいに勝った男の物語

ユウキ―世界で8番目のたたかいに勝った男の物語 (シリーズ・未来へのつばさ) 岸川悦子 2005 ポプラ社

ぼろぼろぼろぼろぼろぼろ……。
途中からは涙がまったく止まらず、流れるに任せながら、ページをめくる手が止まらなかった。

ドラマで見たという友人から借りた本だ。まったくなんという本を貸してくれたんだ。
泣くとは聞いていたが、涙腺を直撃だった。85ページまでは平静に読んでいたのに。
最初は、高校を卒業したての男の子のたくましい行動力に、はらはらしていただけだった。
バックパックの旅をするには、自分は年を取りすぎた。体力もないし、無謀でもいられない。

原因不明で治療法不明の難病奇病。その名を仮に「大量骨溶解」
死を宣告されたも同然の後の主人公の態度には、防衛的なものを感じ取った。否認したくもなる。
だから、主人公がちゃんと泣けたときには、安心した。それで一緒に、読者である自分も泣いた。
そしたら、止まらなくなってしまったのである。

残念ながら、現代の医学はそんなに万能なものではない。
わからないことやできないこともいっぱいある。
医療者は万能者ではないのである。
では、治るとはどういうことか。治すとはどういうことか。

世界には死が満ち溢れている。
当然だけど、生まれた人はすべて死ぬ。どんな形であれ、どういう理由であれ、死ぬ。
人だけではない。すべての生き物が死ぬ。先になり、後になり、死んでしまう。
その中で、この主人公が際立つのは、死の形ではなく、生の形のためだと思う。
最後まで、あきらめない。ユウキの姿勢に、驚かされた。感嘆と敬意とを禁じえない。
取り巻く家族や友人らのサポートも素晴らしい。ネットワークが暖かく包み込む。

死の恐怖に打ちのめされず、生きる勇気を持ち続けたこと。
それが主人公が病気に勝ったということだと思った。
元気ビームを受け取ったり、送ったり。
この本を読むだけで、その勇気や元気の輪の一員になれるだろう。

対象は中学生以上ぐらいかな? 小学生高学年なら読める分量で、ルビも多い。大人にしてみると、ちょっと物足らないかも。

2007.12.27

戦場の精神史:武士道という幻影

戦場の精神史  ~武士道という幻影 (NHK出版)  佐伯真一 2004

男同士のさわやかな決闘。
改めてそこだけ読むと、違和感を覚えはしまいか。

さわやかな戦争、戦闘行為。その表現に、矛盾というか、欺瞞というか、あれれ?と微妙な感じがする。
ルールがあり、チェアマンがいるスポーツの世界でさえ、いつも必ずきちんとフェア・プレイ精神が守られているとは言いがたい。サッカーでイエローカードの理由に、「反スポーツ的行為」を見つけることさえできる。
にもかかわらず、チェアマンがおらず、外在的にルールが存在しているわけではない戦争において、この現代、スポーツマンシップに則ったフェアプレイを誰が期待するであろうか。
個々の従軍者の内在的な良心や信念に基づき、美談が生まれることはあろう。美談が立ち現れるのは、それが当たり前ではなく、それが滅多にないことだからである。

記紀の昔より始まり、平家物語や将門記、保元物語、今昔物語、太平記、甲陽軍艦、葉隠、五輪書など、高校の日本史や古典に出てくる文献がぞくぞくと目の前で展開されていく。書名は知らずとも、新田義貞、貝原益軒、山鹿素行、荻生徂徠、吉田松陰、木戸孝允、山岡鉄舟らの名前に見覚えはあろう。
この本は「武士道」をキーワードに、精神史、思想史として、歴史上の人物たちの倫理観や価値観を概観することができる。
軍記物語のほとんどを題名ぐらいでしか知らない私が読んでも、すいすいと引き込まれてページが進んだ。
古文の引用も平易な言葉で解説し、丁寧でわかりやすく、武士たちの姿は生き生きとして描き出され、面白い。説得力がある。

特に、古典を読んだとき、名だたる武士の大活躍を描く名場面が、どうもかっこ悪かったり、せこいと感じたことのある人ならば、この本を読むと腑に落ちるだろう。
時代小説に描かれるような武士と違い、彼らは、決して、正々堂々とさわやかにりりしく戦っているとは限らない。
不利な条件から強きをくじこうとする者に、判官贔屓をしてしまいがちであるが、奇襲という名のテロ行為やだまし討ちも多く、戦闘行為はどう描いても残酷さを伴う。

プラトンは『国家論』で、国をなす身分を三段階にわけて、それぞれの職分を論じている。つまり、守護者=哲学者=政治家、戦士、職人である。それぞれ、守護者は知恵、戦士は勇気、職人は節制の徳目を備えることが望ましい。実態としてはここに奴隷身分が加わるが、奴隷は理想的国家の市民ではない。
本書を読むと、いわば、中世からの戦乱の時代、武士は戦士であったが、太平の世を迎えた頃から戦士としての機能よりも、政治家としての機能を求められるようになった。その転換を経て武士が生き残るために、武士道という武士の心得も様変わりを迫られたことがわかる。
戦士は戦士として、戦いに勝ち抜くことを心がけることが求められるのと、政治家として、哲学者として、仁義礼智忠信孝悌の体現を心がけることが求められるのとでは、生き様も考え様も、まったく異なって然りである。

武に対して、何を対立概念とさせていたのか。その説明が興味深かった。
中世は、文武という形で、武士と公家の対立。
江戸時代に入ると、文=中国=儒学者と、武=日本=兵法家との対立。
さらに、明治以降は、西洋=科学と、日本=武士道(仏教、儒教もろもろを含む)との対立。
武士道は、「反公家(朝廷)と皇室尊重、反儒教と儒教、反西洋と西洋文化、そして反道徳と道徳」(p.264)と、その場その時の線引きによって、包含するものを変えてきた。
この流れを踏まえていると、『葉隠』の特異性や、新渡戸『武士道』に断絶性が見えてくる。

「武士道」という名の下に美しく描かれ高く掲げられているものが、ファンタジーだと言われるとひどく納得できた気がする。
イデアルなものは、リアルから遊離あるいは乖離しているからこそ、イデアルとして成立しうるのだと思う。
武士の生活上に必要な経験の知から抽象化し、理念形となったときから、それはファンタジーの側面を含むようになった。
しかも、武士なる階級、武士なる存在がリアルなものではなくなったとき、ますます現実から離れてしまうことができたのだろう。
新渡戸『武士道』以降の武士像は、実態から離れた幻想を理想化したものと見極めると、これをもって日本の固有の古来の伝統の精神と標榜することの危うさも見えてくる。その危うさが見えれば、安易に戦争を美化する風潮の愚かしさも見えてくる。

リアルに立ち戻るための経路として、戦場でフェアプレイは成り立つのか?と、アフガンでもイラクでもコソボでもアゼルバイジャンでもカシミールでもクルドでも思い起こせばよい。
もう一つ、思い起こすものをあげるならば、武士道は日本古来の精神というならば、古来、日本に武士はどれだけいたのか、武士ではない人たちよりも多かったのか、考えてみればよいのではないか。
根本的に、誰もが素晴らしく高潔な精神性を有しているのであれば、戦争が起きるわけがないような気がする。
近年において、著しく人間性が低下とか退化とか交替した訳ではない。人間は人間。今も昔も。
理想を持ち込むことは大事であるが、思想が優性を証明して差別の根拠とされたり、非現実的な要求となって自己と他者とを苦しめるなら、それはもう理想としての価値を失った呪詛でしかない。

かつての友人が勧めていた本を図書館で見つけた。
悔しいけど、この人が勧めるものは興味深いものが多い。
これも面白かった。残念ながらその人と関わりがなくなってしまったことが、また少し残念に思えた。

2007.12.22

動物園の鳥

動物園の鳥 (創元推理文庫) 坂木 司 2004 東京創元社

今度は長編。本屋さんで見て気になっていた表紙。一番、読んでみたかった本だ。
シリーズと知らなかったから、これだけを買おうかと迷ったこともあったけど、『青空の卵』『仔羊の巣』から続けて読むことができてよかった。
もはやミステリではなく、主人公達の成長の物語である。鳥は飛びたてるのか。
ちなみに、1冊目の題がスペイン語、2冊目は英語ときたところ、3冊目はフランス語だった。

200511272 上野動物園は、近年になって2回ほどたずねたが、思いのほか面白かった。環境や展示の方法から、動物園という文化に変化を感じた。
そのときの一番の目的はハシビロコウを見ることだった。京都市動物園のシロフクロウといい、鳥のコーナーに私は張り付くことが多い。
そして、大型猫科! 上野動物園ではライオンの群れの200601152威厳に見とれ、神戸市立王子動物園ではアムールトラの息遣いに驚いた。

子どもの頃から、動物園という場は、楽しいけれど物悲しくなる。罪悪感を掻き立てられる。
だって、檻があるから。
動物園は種の研究と保存の目的を持つことを今はわかっているけれども、それでもなお、保存を企図しなくてはならない状態を作ったのは人間だ。
私もまた人間である。

猫は虐待の対象になりやすい。作中に出てくる嫌がらせは、かなり遠慮をした嫌がらせだ。それでも、読むに忍びない思いに駆られた。
かといって、無闇やたらに野良猫を拾ってはきちんと飼わない人や、飼えないと断る人を責める人も間違っていると思っている。
動物との距離感を程よく保つことが難しい人がいる。人間同士との距離感だって。自分が距離の調整が上手だとは決して思わぬが。

世界はそれなりに優しい。
自分で自分を縛る檻から踏み出てしまえば怖くない。
他者が自分を守る檻から踏み出しても縁は切れない。
そういうメッセージがてんこもりで、そこにはまったく異論はない。
人のもつ優しさを信じていたい。心の美しさに触れるときの感動。

その一歩を踏み出す勇気を出すためには、優しく甘やかすだけでは不十分なことがある。
背中を押す厳しさが必要な時もあり、そういう苦い作業は専門家に任せてもよいのに、と思ったりなんだり。
そう。このシリーズの隠れテーマは、共依存だ。
誰かに必要とされていることを必要とする心性や、見捨てられることへの不安は誰しもあるものかもしれないが、読んでいて違和感を覚えるのだから坂木と鳥井の関係は、本人達が望むとおり普通ではない。
少なくとも坂木が欲しているように特別な関係であり、特異である。それが異常であるとは私は言わないが、日常生活に支障が出ているものを放置する性根がどうしても好きになれなかった。
おそらく、私がこのシリーズを存分に楽しめなかったのは、現実を忘れることができなかったからだろう。
そこにはまた、いくばくかの同族嫌悪、自己嫌悪のようなものも含まれていると思う。
それにしても、食べ物だけは最後まで美味しそうで、夜中に読むのがつらかった!

大人になろうよ。
次の子ども達を守れるように、助けられるように、叱れるように、育てられるように、支えられるように、励ませるように、慰められるように。
いつかあなたが誰かにしてもらったように。

2007.12.21

仔羊の巣

仔羊の巣 (創元推理文庫) 坂木 司 2003 東京創元社

3つの中編が含まれているが、伏線が繋がりあっているため、一本の長編として読める。
『青空の卵』の続編とあり、確かに続けて読んだほうが、人物関係がわかりやすい。
私が読んだのは、文庫ではなく単行本のほうだったけど。

ひきこもり。
前作出版後、この言葉を使ったことで、意見されることもあったのだろうか。
作者は坂木をして鳥井の状態を精神科医が正式になんと呼ぶかはわからないと言わせる。
上手だな、と思ったのは、このあたりだ。確かに、ひきこもりというのは精神疾患名ではない。
不登校が病名でないのと同じことだ。NEETだって、アダルト・チルドレンだって、病名ではない。

むしろ、ひきこもりは坂木と鳥井が拠って立つ、これこそが鳥井であるというアイデンティティである。
アイデンティティとして、共同で作り上げられたファンタジーである。
二人は、二人だけの閉じられた関係にひきこもろうとしている。

この巻は、坂木のアンバランスさが目に付いて、気になって仕方がなかった。
自分には問題があると自覚している人はいい。
自分には問題がないと豪語している人のほうが、はるかに危なっかしくて、怖い。
だからこそ、滝本のざくりと差し込む指摘が書き込まれていて、安心した。

いつかは、ここから出なくてはいけない。
暖かくて居心地がよい、親密で安全な巣。
鳥井だけではない。坂木もまた巣の中だ。
喪失の予感が漂う中、新たな登場人物たちとの新たな物語りがつむがれる。
本物の子どもががんばっているときに、一応の大人がそれでいいの? そんな風に。

ここで一番かっこいいのは、栄三郎さん。前作以上のいぶし銀の魅力である。
叱るって、こういうことだ。有川浩『空の中』の宮じいに並ぶかっこよさだ。
この大人の領域に至るには、主人公たちはまだまだ修行が足りないのである。
立ち止まっていたら、いつまで経ってもたどりつかないよー?

もう一つの上手な弁護は、同性愛だろう。坂木はヘテロであると強調する場面が増えた。
批判を自ら言及することで攻撃性を無効化できる。作者の気苦労を感じた。

いつか来るその日を前に。
秋から冬へ、季節は巡り、また新しい年を迎えて。
さあ、次の物語『動物園の鳥』へ。

2007.12.20

ひきこもり救出マニュアル

「ひきこもり」救出マニュアル 斎藤 環 2002 PHP研究所

この分厚さを見てもらいたい。
教育、福祉、医療といった関係者から、家族の方まで。あるいは、本人も。

著者は、もともと、サブカルチャーに詳しく、思春期の症例を専門とする精神科医。最近の著書には、ひきこもりについてのものが多いようだ。
思春期とサブカルチャーとひきこもりの組み合わせは、滝本竜彦『NHKにようこそ!』を思い出す。
ちなみに、坂木司『青空の卵』と同じ年の出版である。

マニュアルとして基本的にQ&A方式で書かれている。
が、個別的で多様な問題を一概には答えられない難しさから、すっきり明快簡潔に答えるわけにはいかない。
ひきこもりの群にも様々な相があり、今ならNEETという表現のほうがしっくり来る人もいれば、病気として他者との接触に多大な苦痛を感じる人もおり、室内に閉じこもって家族すら顔を合わせたり言葉を交わすことが難しい人もいる。
家族もそれぞれであり、事情もそれぞれであり、能力もそれぞれであり、マニュアル化は難しいのだ。
それでこのボリュームになるのだと思うし、マニュアルという単語に、対処可能であるとのメッセージが込められている気がする。

著者は自分の経験、自分の知見であると繰り返し、過度の一般化にならないよう配慮している。
社会的に着目されるようになったのは2000年代になってからであったとしても、現象は先行してあり、臨床家はそれに対応を迫られていたのだ。

人によって、どのように社会と付き合うか、選択の自由はあると思う。
それでも、未就労であり、家族の経済的援助に頼って生活してきた人は、家族の経済基盤が崩れたときにどうするか、考えておくことは必要ではないか。
たとえば、親が退職し、年金生活に入る時だ。上野千鶴子が『おひとりさまの老後』で、団塊の世代のジュニアについて、皮肉な調子で警鐘を鳴らしていた。
本当に今のままでいいのか。家族が疑問に思ったときには特に参考になる本だ。

2007.12.19

はじめての臨床心理学

森谷寛之・竹松志乃(編著) 1996 北樹出版

臨床心理学とは、どういう心理学なのか。
なにをもって臨床心理学とするのか。
ほかの心理学とはどこがどう違うのか。
臨床心理士はどういう仕事をするのか。

これから勉強を始める人の素朴な疑問におおまかに答えるために、こういう概論書が役立つ。
臨床心理士になりたいとぼんやりと考えている人が、初めに手にとるにもお勧めだ。
高校生にはちょっと難しいかな。まえがきによると、大学生、短大生、専門学校生、または、一般の方を対象とする。

読みやすい平易な文章で、パーソナリティ論や発達心理を紹介しつつ、心理査定、臨床心理面接、臨床心理地域援助といった臨床心理士の仕事内容を簡潔に網羅している。
これだけ手軽で、これだけ全般的に紹介する本が、意外と少ないように思う。教科書というより入門書で、通して読むことが嫌にならない。
しかも、限られた紙面の中で、事例をも盛り込んでいたり、具体的で、しっかりと突っ込んだ内容になっている。
とりわけ、ターミナルケアやデス・エデュケーションのあたりも充実している点が気に入っている。

日本的セクシュアリティ:フェミニズムからの性風土批判

山下明子(編) 1991 法蔵館

本棚を整理して見つけた。
なんとなく手放さずにきたけれど、初読の印象はあまりすっきりしなかったというか、あんまり好きじゃなかったと憶えている。
この中には、山下明子「性侵略・性暴力の歴史と構造」、源淳子「日本の貧困なる性風土」、大越愛子「フェミニズムは愛と性を語れるか」の三編が収められている。

山下の結論の一文は愛情に溢れていて好感を持てる。途中の論の展開に対しては、現在から反論することも可能であるけれど。
そういえば、ジャパゆきさんという言葉も聞くことがなくなった気がする。80年代の性風俗を伝える資料としても興味深いかも。

源の論文は、仏教を絡めながら、近世の性文化を論じるものであるが、近代的自我の確立を仏教に阻まれるという論調が、私は苦手。
攻撃的な雰囲気があって、ラディカルだった頃のフェミニズムの空気が漂っている。その硬さに、今も昔も、私はついていけないのだ。

大越の論文は、文面が当時の思想の流行を思い起こさせるのだけれども、上野千鶴子流のフェミニズムや女縁フェミニズムへの批判を的確に述べているあたりが今でも面白い。
そして、フェミニズムの閉塞感を踏まえた予見は、そのまま当たってしまった感があり、読み直して苦笑した。

私は、どうやら、えせフェミ(@菅野彰)ぐらいがちょうどいいのである。

 ***

差別的な日本的共同体は日本の女なしには成立しない。そして外国人にも女と男がいる。アジアや少数者に対する日本人の差別意識を消すためには、女も頑張って「働く意欲を持つ」よりも、やはり体を休めて、不在の愛を問うほうがいい。(p.76)

2007.12.18

ホルモー六景

ホルモー六景  万城目学 2007 角川書店

反省すべきは、雑誌で読むんじゃなかったってことだ。
あらかた知っている話というのは、食指が不活発になる。
手に入れるまでは楽しみだったのに、読む段で盛り上がるに欠けたのは、全部ではないが一部を既読だったからである。

著者のデビュー作『鴨川ホルモー』のスピンアウト。
前作を読んでから読むことをお勧めする。
今度は恋の物語だ。それも6話の短編集。
単なる続編集ではない。手変え品変え、著者は器用に、物語を紡ぐ。
あちらの過去やこちらの過去、遠くの地にも広まれば、第5の大学の参戦--。
読み終えて、謎が残るばかり。続きはどーなる? 続きを書いてくれぇ!と叫びたくなる。
書いてくれなきゃ、「ぴょろお」と悲しい声をあげなくちゃいけなくなりそう。

「鴨川(小)ホルモー」
今回初読。新・天下三大不如意にうむうむと同意を示す。
この人、なんでこんなに女心を知っているのでしょう。思わず遠い目になりました。
大学生の恋愛を描くなら、なにもホルモーじゃなくてもよいのではないかという人もいるかもしれないが、ホルモーがあってこその悲しみが哀れなり。

「ローマ風の休日」
既読。戦いから離れたふみちゃんがこれまた可愛い。
このふみちゃんの逡巡や恐怖は、やはり『鴨川ホルモー』を読まずしてはわかるまい。

「もっちゃん」
初読。途中で、「……ん?」と疑問符が飛ぶ。
安部が好きな女性の部位は「鼻」。「鼻」を題した坊主の話を書いたといえば、芥川龍之介。同時代じゃないやん。
今はカラオケ屋になった老舗の京都の書店といえば丸善。檸檬の話にはあまりにも有名で、その八百屋の店頭で売られる檸檬に梶井基次郎のエピソードが書き添えてあったことを憶えている。
このエピソードは、丸善を惜しむ一人として嬉しかった。鷲田清一『京都の平熱』にも登場する。

「同志社大学黄竜陣」
既読。雑誌掲載時、タイトルを見た瞬間から興奮し、親には見せ付けるわ、友達にはメールしまくるわ、傍迷惑な行動を取ったことを告白する。
雑誌のときに比べて、クラーク博士の手紙が短くなっている気がした。TyoshuやAidu、Tosaも出てきた気がするのだが。雑誌と読み比べるのは面白いかもしれない。
はたして記憶には間違いがなかった。Satsumaはイエローなれば、Tosaはブルー、Aiduはレッド、Tyoshuはブラックだったそうだ。ホワイトはどこだったんだろう?
身びいきではあるが、この話を書いてもらえて、とても嬉しかった。やっと仲間に入れてもらった。
徳照館の中を思い出して懐かしかった。クラーク記念館(重要文化財)の補修も終わったそうだし、機会があったら遊びに行きたい。

「丸の内サミット」
これも既読。この続きが私は気になって仕方がない。
雑誌掲載時は、勝手に前後編になっていると思った。これは後編を読まねばと思い、次号の雑誌も買ったが、後編などは最初からなく、次章が掲載されていることに愕然とした。
だって、ここまで盛り上げたら!! そんなわけで、続きが読みたい。

「長持の恋」
既読ながら、またも泣いた。泣かされた。
ちょんまげに泣かされたと思うと不本意だけれども、こういうのに弱い。
時代を超えた絶品の恋愛小説である。自ら策にはまる勢いで、ぐしぐしうるうるする。
文通は文通でも、たやすくメールを遣わない作者のひねりが心憎い。
『鹿男あをによし』にもリンクしているところに、にやりとした。ちなみに、『鹿男』は海外でも販売されるらしい。

難しいことは似合わない。この本は、ただただ世界に浸って遊ぶのがよし。
面白かった。でも、次は長編で読みたいなー。

 ***

うまくTBができなかったサイト様

エビノートさん:まったり読書日記
『鴨川ホルモー』の続編、というよりもスピンオフ作品?……

susuさん:Favorite Books
楽しい~! 芸が細かい! 「鴨川ホルモー」のサイドストーリーを集めた短篇集。……

2007.12.12

(雑誌)別冊 図書館戦争:もしもタイムマシンがあったら

有川浩 2007 電撃MAGAZINE Vol.1

読みました。
本編終了直後に発表された、図書館戦争シリーズのスピンアウトを読み終えて、ほうっと溜め息をついたところです。
途中でうるうるしながら、オフィスの自室にこもって読みました。

意外な人の意外な過去が出てきますが、「別冊」と題したときから来るな、と思っていた内容でもありました。
同じタイトルで「別冊」。リバース・サイド?との連想に、本編であえて書かれなかった物語。
そこにあるのは、良化隊側の視点ではなかろうか、と。だから、『革命』の後書きで、ああ書いてあったのだろう、と。
とはいえ、緒方さんにそんな過去があるとは思っていませんでしたし、緒方さんをピックアップするとも思っていませんでした。

それにしても、図書特殊部隊は、隊長といい、副隊長といい、なんて、女泣かせなのか!
こんなにいい女達をとっつかまえて離さない、悔しいけれど、いい男なんだと思うんですよ。
おじさん好きとしては、握りこぶしで訴えたいところです。いいなぁと、指をくわえてつぶやきたいほどです。
そして、迎え撃つ?ヒロインも素晴らしく魅力的で格好のいい生き方をしている女性でした。

その点、冒頭の郁と堂上のかけあいは、微笑ましくも甘ったるく、いつも通りでほっとするものがありつつも、ラブっぷりの印象が薄くなるほど、緒方さんの物語が素敵でした。

そう。一番好きな人と出会ってしまったら、ほいほい誰でも好きになれるわけじゃないのです。
誰でも彼でも特別な人になるわけではない。特別だから、二度とない。
心の中のその場所を誰かにあげてしまったら、ずっとそこにはその人が住んでいるような、そういう出会いもあるのです。悔しいけど。

この女心は、男性作家にはなかなか書ける人がおらんねえ。
さすが有川さん!!!と、買った甲斐があったことを明記しておきます。
すごくよかった。ぐっときます。

尚、この短編は、『別冊 図書館戦争Ⅱ』に収められました。

 ***

  別冊 図書館戦争Ⅱ
  別冊 図書館戦争Ⅰ
  図書館革命
  図書館危機
  図書館内乱
  図書館戦争

2007.12.11

青年のための読書クラブ

青年のための読書クラブ 桜庭一樹 2007 新潮社

あちこちのブログで気になった本だった。私も女子校出身者であり、きわめてマイナーな部活動を逃げ場にしていたものであるから。
桜庭一樹は「辻斬りのように」を読んだときに、あまりいい感じがしなかったので、手に取ってから逡巡。
ぱらぱらとページをめくるうちに、視界に飛び込んできたのが「緋文字」の文字。
ナサニエル・ホーソンとこんなところで出会うとは!

スカーレット・レターというと、デミ・ムーアが主演で映画化されたものとか、ビグズビーのリライト版も思い出すが、罪人の印である緋文字を胸につけられたヘスターの娘の名前はパールである。
聖マリアナ学園という女子校の100年の歴史、それも正史から削除された裏の歴史の断片を切り取った5つの短編は、赤い色に彩られている。
赤煉瓦、赤黒いドア、紅子、アザミ、蕾、薔薇色の顔、鉄色の髪、赤い香水瓶、赤毛、苺の香水、赤の扇子、ルージュ、ルビー、赤面、血、緋文字、紅はこべ、ブーゲンビリア、紅色金魚……。
同じく、黒にも隈取られているのであるが、この赤の色合いが際立つほど、面白い話であったと私は感じたのである。
逆に、第三章「奇妙な客人」の印象がぼんやりとしているのは、桃色の扇子しか持ち得なかったためとしておこう。実は、学生というものはすべて百代の過客であるのだが。

第一章「烏丸紅子恋愛事件」は、川原泉『大天使の乙女』を連想し、次にその映画版と重なり、目を疑った。大天使の乙女のなかに紛れ込んだ、毛色の変わった子羊のように肩身が狭い少女達。映画版では主人公が関西弁になっていたから、余計に似ている。
しかし、この作者、表現がえげつない。そこまでずけずけ言わなくてもいいじゃん……と涙目になりそうなほどである。
かといって、実態をヴェールにくるまれてスポイルされた良家の子女たる少女たちの群れの中に混じることができない青年達に対して、愛情がないわけではない。
群れの規格から外れた醜さは、むしろ、自我を形成し、他から己を屹立させる契機として働く。
タイトルからして、青年のためであり、少女のための読書クラブではない。

主人公達は、なぜ、「僕」という一人称を遣うのか。
それは、既に松村栄子『僕はかぐや姫』について書いたことと重なるため、ここでは繰り返さない。
ことに第四章「一番星」は、『僕はかぐや姫』をひどく連想させるものだった。

第二章「聖女マリアナ消失事件」では南瓜に反応し、第五章「ハビトゥス&プラティーク」では中野ブロードウェイに反応した。
南瓜といえば、松井幸子『日曜農園』。もしくは、トーナスカボチャラダムス『空想観光 カボチャドキヤ』。
中野ブロードウェイって、『サウス・バウンド』に出てきたビルだよね?

最後まで読み終えて、ふと、長野まゆみを思い出した。身体に対するえげつなさはないが、どことなく文章が似ている。男子校ヴァージョンを長野まゆみが書いたら、いろんな意味で対照的な一対になるだろうなあ。
時間がいくら流れ、時代が変わり、人々が入れ替わろうとも、さして変わらぬ人の性。
少しずつ姿を変えようとも、きっと連綿と続いていくのである。それは永遠の唐草模様のように。
この表紙が、不気味で怖かった……。

2007.12.07

エスケイプ/アブセント

エスケイプ/アブセント 絲山秋子 2006 新潮社

Bookwormのすずなちゃんのお勧め。
東京から京都、そして福岡。
親しみのある場所が出てくることから、キャラ読みならぬ場所読みをした。

吉田寮は知らないけれども、京大の近くで、中庭がある清潔感のある古い喫茶店というと、頭に浮かぶ景色は進々堂だ。森見だ、万城目だと、楽しくなってしまう。案の定、最後の方には進々堂の名前が出てきた。残念ながら八文字屋は名前しか知らない。
比叡山に登ると琵琶湖が見える。森見登美彦の小説でも、梨木香歩『家守綺譚』でもわかることだが、京都と滋賀は山並み一つで隔てられているだけで、実は近い。
京都の野球好きは、阪神ファンじゃないような気がする。京は、阪でも神でもないからだ。子どもの頃、京都で見たのは阪急ブレーブスや近鉄バッファローズのポスターだった。
主人公達の出身地の仙台も、一度だけ行ったことがある。住所からすると、同級生が住んでいる辺りではないか。

9.11。
日本で過激派を名乗っていた人たちは、どのようにあの出来事を受け留めたのだろうか。
奥田英朗が『サウス・バウンド』で描く一郎が見切ったのは、こんな人たちではなかっただろうか。
二つの話のどちらも主人公の一人称で語られる。その語り口は、軽やかにつるつると堂に入った口語である。リズムよく、多弁な独り言のように、アジるのが下手な正臣は喋りつづける。これが読んでいて、とても面白い。居酒屋や特急車両の隣の席のおっちゃんにとっつかまった気分だ。
女性が書いていることで、主人公に独特のなよやかさを加味することに成功し、余計に変わり者らしくなっている気がする。

中編「エスケイプ」の主人公、正臣は、左翼の活動家だった。一応、過去形。
革命は起きないまま、暴動すら起きないまま、四十歳にして惑いまくり、逃げる。
逃げると不在ができる。不在は美化される。不在によって存在は固有の伝説になる。
けれど、逃げた当人に自由はあるのか。ポケットの中の自由が、自由か。
自由になろうとして、自由にならなくてはならないというルールに縛られていた。最後の最後で、主人公は自由だと思っていたものをうっかり壊すことで、やっと解放される。そんな気がした。
libertyは圧制や暴力的支配からの自由である。freedomは法によって保障された自由である。

短編「アブセント」の主人公は、正臣の双子の和臣だ。
お互いに、大学の時に、それぞれの家族から行方不明になった。
正臣が東京で左翼の過激派になったなら、和臣は京都でノンセクト・ラディカル。
そして、今は福岡の本屋でバイトをしている。年貢の納め時がきている。結婚を迫られており、自由な時代が終わったと感じている。
不在が成立する。死という圧倒的な不在がある。それは、他の誰にも埋められな不在である。
自分の不在が成り立つ。それは、自分の代わりには誰もならない、自分という個があることの証明である。

エスケイプとアブセント。一つ目の中編と二つ目の短編のタイトルが入れ替わっていても通じそうなものだが、なぜ、一つ目はエスケイプで、二つ目はアブセントなのか。
正臣はエスケイプによって属性づけられており、和臣はアブセントによってのみ特徴付けられる。そういう兄弟の物語である。
きっとここからは、やっとお互いの影から解放されるかもしれない。それぞれのたっぷり残った人生を、退屈で窮屈な日常に縛られる覚悟はできた。
不在を抱えながらも、不在から解放されて生きることができるかもしれない。できないかもしれないけれど、それが自分なのだと言えそうな日々。

こういう小説は、感想を書くのが難しい。
最後に、読んでいて思い出した歌の歌詞を書きとめておく。
この歌を知っている人なら、そういう時代の、そういう主題の物語だったと思うのではないだろうか。

 ***

自由になるそのために 何かを探していたよ
手探りの毎日に あの詩が聞こえていた
強く!強く!この胸に!

作詞:高見沢俊彦「希望の詩 (うた)」

2007.12.04

彩雲国物語(15):隣の百合は白

彩雲国物語隣の百合は白 (角川ビーンズ文庫 46-15) 雪乃紗衣 2007 角川ビーンズ文庫

仮面をつける前の黄鳳珠。
これは映像化が難しいだろう。
が、見てみたいなぁ……。

外伝短編集。
一つめの「恋愛指南争奪戦!」は、秀麗が国試を受ける直前の冬のこと。
彩雲国の筋肉だるまな子羊さん達。彼らの憧れの人はあの人とか、この人とか。
恋愛運が今ひとつな彼らの行く手を阻むのは、名うての六部の尚書たち。
津守時生の描く宇宙軍と重なって、大笑いをさせていただきました。
年齢があがるほど、侮れない人が多いです。この巻、影の主役は櫂瑜様。

二つめの「お伽噺のはじまりは」は、紅家の三兄弟が子どもの頃のエピソード。
邵可パパを子ども扱いできる大人たちが知っている、パパが子どもだったときの様子、風の狼を率いる黒狼になった経緯。
やはり、じいちゃん達がいい味です。

三つめは書き下ろし中篇「地獄の沙汰も君次第」では、紅黎深が主役。
魔の国試。黄鳳珠が受験し、ほかには紅黎深、鄭悠舜しか合格しなかった年。
黎深とその妻となる百合姫との馴れ初めや、養い子となる李絳攸との出会い。
若き日の鳳珠が可愛いんだけれども、黎深も可愛いんですよ。悠舜は、多分、末は腹黒タヌキさんかと。
でもねえ、こんな伴侶は、大変だよね?

おまけのショートもついた、盛りだくさんな一冊でした。

2007.12.03

青空の卵

青空の卵 (CRIME CLUB) 坂木 司 2002 東京創元社

帯は、「名探偵はひきこもり」。
このひきこもりという言葉と、主人公鳥井の人物像に違和感を持った人は、出版年に注目してもらいたい。
厚生労働省による調査研究と対応ガイドラインが配布されたのは2003年(暫定版は2001年)のことである。調査研究には、対象を定義することが必要である。
伊藤・吉田は「当時、急速に社会的認知の増大しつつあったいわゆる『ひきこもり』に対する公的機関による認知は公式なものではなく、各機関で各々が手探りで支援に着手しはじめたばかりであった」(こころの科学No.123 p.17)と振り返る。
つまり、誰もが現在の定義でひきこもりを語る以前、社会現象として着目され始めたばかりの頃の小説ということである。著者が用いたひきこもりの語が、たった数年の隔たりであっても現在と違和感が生じたとしても仕方なかろう。
そういえば、滝本竜彦『NHKにようこそ!』も2002年が初版である。
斎藤環が書く本の中でも『ひきこもり救出マニュアル』が、同じく2002年の本だ。

『切れない糸』の原点はここにあったか。
著者にとって一冊目の本の主人公は、著者と同じ名前である。それだけをとってみても、このシリーズが著者にとっては大きな意味を持つことがわかる。おそらく、未来においても重要な意味を持つことだろう。
著者は坂木に自分を重ね合わせて書いたのだろうか。それとも、鳥井にだろうか。これもまた、おそらく両方であるだろう。
主人公の坂木にしか心を開かぬ鳥井が名探偵の役である。坂木と鳥井の危うい関係をキャラ読みしたくなる人の気持ちはわかるし、そのほうが無難のような気もする。

ミステリとしては、この作者らしい、人の死なない事件を題材にしており、事件の過激さや陰惨さを好む人には刺激が少なくて不向きだろう。
むしろ、痴漢やストーカー被害(ちなみにストーカー規制法は2000年)、身体の障害や移民や貧困の問題、夫婦間の問題や養育放棄など、社会的な問題を取り扱おうとしている。
その大きな主題を、小さな関係の中で解決していくことの難しさと、著者の初々しい筆致から、多少の無理やりな感じはなきにしも。青臭いような、若々しさを感じて、むずがゆくなってしまった。
登場するのも、嫌味のない、いい人たちばかりだ。誰も死なないから、誰も物語から立ち去らず、主人公らを取り巻く人間関係は豊かになっていく。
したがって、ミステリとして読むよりも、鳥井や坂木らの成長の物語として読んだり、もっと腐女子っぽく読んだほうが、面白いかな?と思ったのだ。

夢見がちではあるかもしれないけれど、傷つけあう物語ばかりでは殺伐とする。
個人的には、私は鳥井よりの人間だと思う。特別な才能があるわけではないからおこがましいかもしれないが、危機的な状況を救ってくれた唯一の友人にすがりついて生き長らえた。
私にとっての坂木が私を見つけたときの、坂木の心を覗き込むような。これは不思議な感じだ。
もしも、私の坂木もまた罪悪感を持っていたとしたなら、教えてあげればよかったと思う。そうやって坂木を捕らえたのは鳥井である、と。
お互い様、なんだよね。

だから、この二人の成長を楽しみにして、続きを読みたい。

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