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香桑の近況

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2007年11月

2007.11.27

おひとりさまの老後

おひとりさまの老後 上野千鶴子 2007 法研

『おひとりさま』は、2001年9月、岩下久美子氏が急逝した直後に出版されたエッセイのタイトルだ。本屋で手に取りながらも買いそびれたことが残念な一冊である。
酒井順子『負け犬の遠吠え』が出版されたのは、それよりも後の2003年のことである。
90年代にフェミニズムという言葉が普及したのは、上野千鶴子の貢献も大きかったと思う。
その、いわば、おひとさま推進活動の先鋒であった上野が、どのようにおひとりさまのその後を語るか、興味を持った。
上野千鶴子の本を読むのは、久し振りのことである。

文章の途中で太文字が使われていると、強調されている箇所ばかりが目に行ってしまう。
安っぽくなるから、あんまり好きじゃない。
どの文章が気に入ったか、自分で選びたいのに。

みんな最後はひとりじゃないか、と言われて、成る程と思った。
統計を用いて説明されると、その説得力は強い。
が、同時に立ち止まってしまうのだ。

待てよ。私は、この統計の多数派に入るのか?

そうとは言い切れないではないか。
私は王道からはずれることが得意な横道派。どんなに頑張っても、多数派に入りそこねることが多くて、もういいよ、人とは違う道でいいもん、とか言うことが多い。
じゃあ、少数派に入るとどうなるのか。
老後をいかに生きるかについては、経済的にも社会的にも状況はまだまだ流動的であろうし、私と著者との年齢差などから、ふーんって読んでおくだけのことにする。

自ら少数派に突き進む者はよいとして、そうならざるをえなかった者に対しても、「今までのツケ」で片付けるとしたら、残酷だと感じてしまう。
「その人が努力をさぼっただけ」で片付けてしまうと、社会学じゃなくなる気がする。
それに、一人の例をして全体を皮肉るような言い方は嫌だなあ、と。一箇所、個人的に不快な行があったので、感想を書くのもこうして億劫になっている。やれやれ。

後半の介護される側の10か条であるとか、死に方5か条の辺りは素直に面白かった。
こういうことは、よく考えてみると、女性も男性もあまり関係ないことのように思う。
孤独死を目指して、知っておいたほうがいい、考えておいたほうがいい、大事なことだ。
それに、「人間はこわれもの」という設定を出してくるところに、著者の変化を感じた。

面白いと感じるのと、賛同するのは違うわけで。
上野さんは、ずるいなぁ、と思ったのが正直なところ。
この本を面白く心地よく読めるかどうかは、著者にどれだけ自分を重ね合わせられるか、に、かかっていると思う。
都市に住む、仕事のある、ある程度の収入がある、団塊ジュニアよりも上の世代の女性向け、と思った。

一番印象的だったのは、「ほうっておいても保つような関係は無関係」であり、友人にはメンテナンスが必要だというところ。
多分、私は、自分の友人のネットワークを再編する時期に入っていると思う。かつて重要だったネットワークを一つ失った分、今の自分にとって快い関係を大事にしていきたい。

最後に、「犬文字」。
ぜひとも、鷲田清一『京都の平熱』を一緒に読んでもらいたい。
あーっ!と指を刺してから、にやりと笑いたくなると思うから。

2007.11.22

三千世界の鴉を殺し(13)

三千世界の鴉を殺し (13) (新書館ウィングス文庫―Wings novel (121)) 津守時生 2007 ウィングス文庫

登場人物が増えたことで、会話がすぐに混ぜっ返されて先に進まない会議にいらいらしたのは、ルシファだけじゃないはず。
今回は新たな美形が増えない分、前巻よりも話が進んだかな。一応は進んだ感じがした。

ブレッチャー司令官のヴィジュアルは意外に端整。もう少しおっちゃん臭い人を想像していました。
頬を染めて「アンリ」と呼びかけるブレッチャー司令官に、不覚にもときめきそうですよ?

佳境が近づいている気配はあるけれども、なかなかすっきりしない本編にプラスして、エリーが出てくる短編「やさしい悪魔」も収められている。
雑誌で読んだときにも爆笑したが、今回、読み直して、久しぶりに気持ちよく大笑いさせてもらった。
BGMは、かの有名韓流ドラマ。小鳥のように胸が震えた二人の、運命の出会いの結末も予想がつくような、つかないような。
こういう日常の小さな出来事が、他愛なくてばかばかしくて、心置きなく爆笑できて気持ちいい。

やっぱり、黒髪の超絶美形の魔王さんは好きですねえ。ライラやマルチやサラやO2や、どのキャラも素敵だけど、ルシファの豪快で鷹揚な性格が好き。ちょびっと間抜けで、へたれなところも含めて。

各キャラのファンへのサービスを心配りするより、物語を進めてもらいたいなあ。
作者の人が気配り過ぎて大変そう、と思った。

2007.11.20

マラケシュ心中

マラケシュ心中 (講談社文庫) 中山可穂 2005 講談社文庫

胸を打つ言葉の数々。
どの台詞も、どの独白も、いつかの恋を思い出す引き金になる。
この切なさ、この苦しさ、この悲しさ、そして、愛しさ。

私が言葉にできなかった思いが、そこここに書き留められている。
こんなに書き抜いてくれる人がいるのに、どうして彼には伝わらなかったのか。
彼が男性であったためだとしておこうか。これは女性の恋愛小説であるから。

映画「シェルタリング・スカイ」を観た後に、ふと思い出したのがこのタイトルだった。
中山可穂の小説は、これまで『猫背の王子』と『白い薔薇の淵まで』を読んでいる。
検索をかけたときに、著書のタイトルだけは目にしている。フラッシュバックのようにタイトルが思い出され、読もうと思った。
だから、小説の中にこの映画が出てきたときには、にやりとした。映画とあわせて読むことがお勧めだ。

美しい友のままでいられれば、あの人との関係は切れずにすんだのだろうか。ヒロインの泉の差し出した道徳律は、私が抱えている後悔を再燃させた。恋がいつか終わるものなら、なんで友に踏みとどまらなかったのか。そんな後悔を持つ人は、泉の提案に頷くだろう。
私は、恋人になってはいけなかった。この道徳律を宣言する潔さが私にはなかった。胸をぎりぎりと締め付けられる思いがした。

しかし、私は主人公である絢彦の気持ちに寄り添う。好きな人の心だけでは満たされない。体だけではもっと満たされない。心も体も切り離さずに愛したい。大切なものが手に入らないのなら、ほかには何にもいらない。
私の恋愛観は、中山の影響が大きかったのかもしれない。作者の描く思いつめるような恋愛にシンパシーを感じ、生の喜びと性の歓びに憧れを抱く。

たった一つの出会いの後には、死ぬ瞬間まで、私はその人に満たされている。
泉のように、私から距離を置いた人もいた。彼女が生きているだけで幸せ。彼女が幸せでいることが幸せ。共に死ぬことを願わず、共に生きることをあきらめて、私よりも長生きして私の生を見届けたいと言ってくれた。
その言葉は今も私を許し、支えてくれる。これ以上の祝福はいらない。

絢彦がマオに対して抱くような、いつか自分が産んだかもしれない子どものようなものだと、愛情を持つこと。
こんな愛情も、今の年齢になってから、感じることがしばしばある。性愛とは違うところで働く愛情だ。この子の、この人の、母親でありたかった思うような、母親のように愛したいと思うような、そういう気持ち。

最後まで読んだとき、ほっと一息、ため息のように息を吐いた。緊張感のあふれる恋愛小説だ。
著者はこの後しばらく小説が書けなかったと後書きに記しているが、読者もしばらく小説が読めなくなりそうな重量感である。
物語の構造は『白い薔薇の淵まで』に似ているところもあるが、だからこそ余計に、この終わり方がよかったと思った。読んでよかったと思った。

心中は凡人には及ばぬ領域。そんな恋は恐ろしくてできやしない。小説だけで十分だ。
私は凡人のまま、寄り添う恋を、生き抜く愛を、思っていたい。
見守ることすら許されなくても、心の中で祈っている。あなたが幸せであれ、と。

 ***

恋がいつか必ず終わるものなら、わたしたちは恋人同士になるのはやめましょう。何も契らず、何も約束せず、からだに触れ合わず、それゆえに嫉妬もない、いかなるときも自由で、平明で、対等な関係のまま、いつまでも離れずに、この世で最も美しい友になりましょう。(p.93)

 ***

TBのかわりに……

『マラケシュ心中』/中山可穂 ○ 水無月・Rさん:蒼のほとりで書に溺れ。

2007.11.11

図書館革命

図書館革命  有川浩 2007 メディアワークス

読み始めたら止まらない。
待ち焦がれていた続編。
大好きなシリーズの最終巻。
その上、息を尽きせぬ展開だ。
期待と予想を裏切らない。

行きつけの本屋さんに、発売前日に一冊だけ入荷した本を買わせていただいた。
仕事着のまま、仕事の合間を縫って本屋さんをうろうろしていると、レジの人が一言「入っていますよ」。
名乗りもしないのに顔を憶えられてしまったかと焦ったのも一瞬、取り出された本を見て、きゃーっ♪と歓声をこらえきれなかった。思いっきり、素。店員さんたちに笑われる。

手元にある幸せを噛み締めつつ、再び仕事に戻る。この日は非常な緊張を強いられ、心がぐさぐさにささくれ立った。
残業は残業でも、いつも以上に遅い帰宅。すっかり疲れ果て、家族と話す気力も、夕食を口にする気力もなかった。
だからこそ余計に、翌日も仕事があるとわかっていても、読まずにはいられなかった。緊張を緩め、鬱憤を晴らし、疲労を和らげるために。

同日の夕方、同書を入手したと、友人から一報が入っていた。その後は連絡がつかないから、向こうも読んでいるんだろうなあ。負けたくないというか、一緒に楽しみたい。私も追いつきたい。
そして、読み始めるとまったく予想外の事態が冒頭に起きて、いつものようにぐいぐいっと引き込まれてしまった。
読了は3:30am頃。睡眠不足でふらふらになったって、気持ちがほかほかとほぐれて温まった。翌日の仕事中も、にまにまへらへらと幸せの余韻を噛み締めたぐらいだ。

シリーズの最終巻とあり、これまでの登場人物が軒並み出てくる。
特に、ラブ面では、どの人たちも今までのじれったさからは予想外な進展ぶりだ。
郁ちゃんも成長したんだなぁ……。でも、堂上教官の余裕っぷりたらない。一気読みを一番妨害したのは、堂上だ。
郁と一緒に私もやられるぅと、こっ恥ずかしくなって、目が止まる。手が止まる。目が泳ぐ。思わず、本から顔をあげて、ふーっと息を吐き出してみたり。PCをつけてみたり。
もしかしたら郁以上にじたばたじたばたともだえてしまった。頭を“ぽん”も健在で嬉しい。

一番の男前は、柴崎かっ!?と随所で思う。がんばれ手塚。負けるな手塚。てゆーか、最初から負けているからそのまま生き延びろ。にーちゃんに盗られるなよ?とか、いろんな心配もしてみた。
なまはげ玄田隊長の無事も嬉しい。床屋さんたちの裁判の行方も出てくる。平賀さんも忘れられていなくてよかった。彦江さんは査問会が立て続けで大変だろうなあ。
未来企画については、これがこう片付いていくとは。4冊でちゃんと話が結ばれるのか、案じていたのは素人考えだったと感じる。詰め将棋がうまいのは作者だ。
メディア良化委員会も図書隊も、きっとこのままではいられない。
この二人もあの二人も、その他の人も、それぞれのその後まで。
決してあきらめずに最後まで走りぬけ。まあ、疾駆というより、暴走って感じだけどさ。

目を疑ったのは使用を控えられることが増えた言葉が羅列されていたところだ。その言葉を用いないことには、この問題の本質を伝えることは難しい。作者は、作家という職業にふさわしい鋭い感性で、表現の自由を謳う。
たとえば、片手落ち。この言葉を使わずに、この言葉に与えられている意味を表現するときに困ることがある。説明が冗長になってしまうからだ。そのとき、ここに、差別の意識は私にはない。
それなのに、なぜ、言葉を封じられなくてはならないのだろうか。

目が見えないことや耳が聞こえないこと、精神疾患を患うこと、背が低いことのような外見上の特徴があること、特定の地域や血筋の出身であること……。なにかしらの現象を表すことと、そこに価値判断を付け加えることは、まったく別次元のことである。
言葉には、たやすく価値判断が付け加えられることがある。それが誉め言葉ならいい。だが、揶揄や中傷、非難や侮蔑の意味が付加されることも、往々にしてある。
けれども、だからといって、言葉を狩ることは問題の解決にはならない。問題とは、言葉を用いることではなく、差別することではないのか。人を傷つけることではないのか。自由を奪い、正義を曲げることではないのか。

これを書きながら、思い出したことがある。
同じ日にこの本を読んだ友人と、初めて議論したのも、こういう話題だった。真摯な意見の書かれたあのときのメールが、知人から友人に変わったきっかけだった気がする。ある人の一言をめぐる議論だったよね?
私の基本の考えは変わらない。表現をいくら言い換えても、言いつくろっても、そこに誰かを見下し、傷つける意思があることが問題である。

その本質を見失い、正義のような顔をして、表面的な対応をし、横から利権をむさぼるのは誰だ。
言葉の暴力から誰かを守るような振りをして、自由を奪うのは誰だ。
表現の自由という、読書に興味がない人にも一緒に考えてもらいたいテーマを、作者はシリーズを一貫して堂々と描いている。
メディアにおける自粛が過剰になるとどうなるのか。報道が傲慢で過剰になるとどうなるのか。よく考えられた上に紡がれる言葉は、きっと暴力的にはならないと思う。そう願っている。

ひとまずの区切り、らしい。ということは、今後もあるのか? あってくれ。
スピンアウトも歓迎だし……と思ったら、既にスピンアウトは書かれたらしい。マンガ化も2パターンあるし、アニメ化の予定まであるというから、ほかにも機会があるのだろうか。
主人公を変えて、土地や時代を変えてもいいから、第二部、第三部が出ないかなぁ、なんて、願望も持つ。
その前に、この本を読み返して、読み返して、『図書館戦争』から続けて一気読みするつもりだ。
私が読者として好きな本を読める自由を楽しんだように、作者にも好きに本を書ける自由があるといいな。

この世界に本を焼くことのない平和を祈る。

 ***

  別冊 図書館戦争Ⅱ
  別冊 図書館戦争Ⅰ
  図書館危機
  図書館内乱
  図書館戦争

2007.11.09

人間関係論

野村 昭(編) 1982年 北大路書房

人間関係論についての近年の刊行物を見ると、社会学から心理学あたりの視点でもって記述されているものが目に付く。
いくつかの資格取得のために「人間関係論」と題した講義が行われるし、社会人にとって悩ましいことが多いのも人間関係だから。

それに対して、本書は8人の著者が、心理学、言語学や技術文化史、社会学、政治、経営、家事紛争といった多様な立地から人間関係について述べている。
四半世紀前といえば、これほど臨床心理学が国内で流行する以前のことである。
なんでもかんでも過剰に心理学・精神医学的に説明する文化に染まっていない点が、逆に新鮮だった。
しかし、いかんせん古い。今となっては、修正されたり、反論されている知見もあるだろう。
心理学や社会学の資料としてはつかいづらい。こうなってくると、史料である。

個人的には「紙と筆の技術文化史」が視野に入ってくることが面白かった。こういう文化史や考古学は趣味として大好きだ。
パピルスの作り方とかレタリングの多彩な展開とか、およそ日常生活に役立たなさそうな知識は楽しい。

しかし、なんといっても目を引いたのは、「天保人間と明治っ子」の比較である。
世代間による人間関係の違いを示す例が、片や江戸時代生まれの祖父、片や明治生まれの父親。
どちらにしても、私の感覚からして、大過去であり、歴史的記述になる。
短いが著者の家族の会話に基づいて活写されており、色あせながらも人が生きていたぬくもりを感じる。
梨木香歩の小説を読んだときのような、そういう切ないような微笑ましいようなぬくもりを感じた。

2007.11.04

No.6(1)

NO.6♯1 (講談社文庫) あさのあつこ 2006 講談社文庫

試しに一冊、読んでみた。
これはまずい。続きが気になる。残りも一気に読みたい。面白かった。

No.6というのは、都市の名前だ。未来の整備された都市は、忠誠を誓うものだけを許す。有益をもたらすものだけに優しい。名前からして、他に5つは同じような都市があるのだろうか。
都市の中には従順で優等な自然だけが準備されている。しかし、天候だけは思いとおりにならない。
その上、人もまた自然の一部であり、自然を身のうちに飼っている。竹河聖が『風の大陸』の後書きで書いていた指摘だが、まったくその通りだと思う。
身のうちの自然が人の意のままにならぬのに、身の外の自然が意のままになるわけがない。

12歳の誕生日。台風の日。
その日、主人公の紫苑はネズミと出会い、人生が変わることになる。
理想の都市ははりぼてだった。環境だけではなく情報も統制されている。
情報は信じられるのか。猜疑心を持ち、忠誠を誓えなくなったとき、都市から排除される。
少年たちは、ここからどこに行き、何を見るのか。何を壊し、何を掴むのか。
生き延びることはできるのだろうか。

同系列で思い出すのは、やまざき貴子『Zero』(管理された都市からの逸脱)や樹なつみ『OZ』(都市設定)と『獣王星』(主人公の境遇の変化)、華不魅『グラマラス・ゴシップ』(管理された都市の裏側)……と、マンガばかり。萩尾望都『百億の昼と千億の夜』のゼン・ゼン・シティーのモチーフが思い出されてならないのだ。
少年同士の関係性から、吉田秋生『BANANA FISH』を挙げている人を見て、成る程と思った。
映画だったら、MATRIXかな? 小説では、わたりむつこ『はなはなみんみ物語』というタイトルがぽんと思い浮かんだが、読んだのが昔過ぎて話を憶えておらず、なんで連想したのか自分でもわからない。

「物語が現実に追いついていない」と作者は後書きで抱負を述べる。
残酷で傲慢な現実に肉薄してなお、希望を描く物語を書きたいという、書く人の心意気に打たれた。

伝説の森(上・下)

伝説の森 上 (1) (創元推理文庫 F ラ 3-10 ヴァルデマールの風 第 3部) 伝説の森 下 (3) (創元推理文庫 F ラ 3-11 ヴァルデマールの風 第 3部)  マーセデス・ラッキー 山口緑(訳) 2007 創元推理文庫

こんな読書をできた、今日はとても幸せ。
今なお私が読み続けている唯一の異世界ファンタジーだ。

エルスペスと〈暗き風〉、スキッフとナイアラ、鷲獅子たち、〈炎の歌〉や〈共に歩むもの〉らと、〈隼殺し〉モーンライズとの戦いの最終章だ。ついに、ハードーンのアンカー王も登場する。大勢の人物が入れ替わり立ち代りする上、伝説の森で伝説の人物まで登場する。
三部作の最終巻となると登場人物も増えて、全巻までの物語を思い出すまで固有名詞に戸惑った。以前のようにシン=エイ=インの用語リストが欲しくなる。
物語の紡ぎ手にして歴史の記録者であるキリーのリースのように、タルマやケスリー、ケロウィンの名前を見ると、懐かしくて嬉しくて、読み手のテンションもあがった。

幾つかのカップルの行く末も気になるが、ヴァルデマールとハードーンとの対決が目前に迫る。物語は、これら二つの国を交互に舞台にしながら進んでいく。
エルスペスは〈暗き風〉らを伴って、「谷」から故郷ヴァルデマールへと帰る。そこから、敵の本拠地であるハードーンへと乗り込むことになる。
カースやイフテル、レスウェラン、東の大国の名前も出てくるが、その中で、国とは何か、エルスペスは考えさせられる。

ラッキーは、主人公らの個々人の戦闘だけではなく、軍を用いた戦略まで描ける稀有な作家だ。それは、ケロウィンの物語『運命の剣』で顕著だった。
ファンタジーの世界で戦争を描きながら、政治家がするべきことをしなかったとき、消耗した人々や疲弊した土地、暴力や略奪、戦場の血なまぐささを書くことをためらわない。
夢物語であっても綺麗事で終わらせないところが、本作の魅力であり、著者の良心であるように思う。
前作より甘さが減った分、ラッキーらしい持ち味が活かされているように感じた。

今回は、アンカーやヴァルデマールの人々という魔法に詳しくない人々を物語の中に布置したことで、魔法の仕組みについてもずいぶんと詳しく説明することを可能にしている。
心理魔法のところを読むと、著者は心理療法に精通しているように思われる。少なくとも、どうやって行われるのか、仕組みを理解している人のように感じられる。
人物設計だけではなく、世界の設定が詳細でしっかりしているところが、このシリーズに飽きることなく惹きつけられる理由の一つだろう。
翻訳も品があって読みやすい点も、大事なところだ。

この巻で三部作は調和のうちに終わるけれども、新たな物語の前兆が残される。
次が、また楽しみだ。気長に次作を待ちたい。

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