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香桑の近況

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2007年9月

2007.09.20

水曜の朝、午前三時

水曜の朝、午前三時 (新潮文庫) 蓮見圭一 2005 新潮文庫

 季節の庭に 咲かせた愛は
 時の流れに 色あせて行くけど
 別れるために 人はめぐり逢い
 それぞれの心 やさしく変えてゆく
 *1

私が思い出す「水曜の朝、午前3時」は、解説が触れていたS&Gではない。
泣きたくなるほど優しくて甘いラブ・ソング。その歌と同じタイトルを見て、手にとった本だった。

私が知らない時代。けれども、どこか懐かしい香りのする時代だ。
セピア色がかった写真の中で、静かに姿をとどめる、熱い時代だ。
1969年の動乱の時代が開けて、1970年は大阪で万国博覧会が行われた。
「終戦の年からちょうど四半世紀の節目に開催された大阪万博は、高度成長の総仕上げの見本市であり、仮に戦後という時代があったとすれば、その幕引きの役割を果たした祭典でもあった」(p.64)と、物語の舞台は設定される。
A級戦犯を祖父に持つほどの「良家の子女」である直美は、わずかばかりの自由を求めてホステスとしてかの地に赴き、太陽の塔のもとで理想の恋人と出会ったのだ。

ここで、太陽の塔だ~!と笑ってはいけない。たとえ、鴨川デルタや京大周辺、疎水の桜並木が出てきたとしても……。

これは、成就した恋の物語だ。
理想の恋人を恋人のまま手に入れつづけた、恋を失わずに抱き続けることができた物語である。
失われたと思った恋を、直美はしっかり回収している。そこに、私は興ざめしてしまった。
誰しも、配偶者とは違う人への思いを抱くことはあるかもしれないし、そのことを諌めようとは思わない。
彼女は恋と愛とを手に入れた女性であり、幸せな人生だと思う。そのように人生を決めて選んできた主人公の努力の成果であるが、賛美はしない。
物語の最初を最後の語り手が、直美の夫ではなく、娘ではなく、娘婿という離れた立場からでしか語りえなかったところが、直美の生き様への評価である。

時代背景と心理描写がたくみだ。女であることと付き合うことの息苦しさ、家族に囲いこまれることの息苦しさ、自分の中にある差別や恐怖に気づいたときの息苦しさ、目覚めるたびに今日こそ自分が死ぬのではないかと思う闘病の息苦しさ、小児病棟の幼い子ども達の死とそれを見守るしかない家族の息苦しさ。
若くて美しく、健康で奔放にすることを許される特権的な日々は、期間限定のものであるからこそ、ますますお祭り騒ぎのようだった。
示唆深く、印象に残る台詞の数々。見たことのない万博の景色が体感されるような表現。間違いなく、名作であろう。

目の前にあるものすら見えないふりをしているのがいまの時代なら、誰もが見えないものまで見ようとしていた――恐らく、それがあの時代でした。(p.35)

当時の日本で生活をする、朝鮮半島をルーツに持つ人々の状況は、映画『パッチギ』を思い出した。1968年の京都を舞台としており、この小説の空気に近いものがあるのではなかろうか。
学生運動の面では、高野悦子『二十歳の原点』は立命館大学であるが、京都の学生運動の様子を伝える。やがて疲弊して自殺した女性の日記であり、『「独りであること」、「未熟であること」これが私の二十歳の原点である』という一文はあまりにも有名である。
柴田翔『されど、われらが日々』も有名であるが、これは東京を舞台とする。持っているが、読んだことはなかったりする。
この頃、『サウス・バウンド』の一郎はどこで戦っていたんだろう?などと考えると、ますます面白かった。

鳴海さんなんて怖い女ではない。彼女はプライドがある。
成美さんも怖い女ではない。彼女達は、無邪気でも、無自覚でもないからだ。
直美という、宝探しに成功した、幸せな一人の女性の物語だった。その幸せさのゆえに、私は彼女を嫌いになった。

*1 作詞:高見沢俊彦「水曜の朝、午前3時」

2007.09.18

猫だましい

猫だましい (新潮文庫)  河合隼雄 2002 新潮文庫

猫に嫉妬したことがある。
気難しいと言われる猫を愛撫する男性の長い指先に見惚れた。こまやかで丁寧な仕草にうっとりと見蕩れた。とてもセクシーだった。
その膝に甘え、その指に撫でられるのが、なぜ、私でないのか。
猫好きの私としては、非常に珍しいことだった。猫を撫でる人が他の人だったとしたら、猫をとろりと手懐けた手腕を羨んでいたことだろうに。
そのとき、私は猫に嫉妬した。
「とろかし猫」の章を読んで、そんな体験を思い出した。

猫好きであるから、猫の本をよく読むかといえば、そうではない。どちらかといえば、用心深く避けることのほうが多い。
いかに自分の猫が素晴らしいか、比べ合わぬように。いかに自分が猫を理解しているか、競い合わぬように。猫好きは自分も含めて猫自慢をしがちである。
その上、猫を扱う本が常に猫に愛情をもって描かれているとは限らない。この本は、猫自慢にならないように自制を効かせたところで書かれている。

宮沢賢治の描く猫も、萩原朔太郎『猫町』の猫も、どことなく不気味で超越的であったり、うろんで姑息で残酷であったりする。
そういった猫に対する多様なイメージを、猫マンダラで整理するところが、ユング派の著者ならではの視点であろう。
人間の「たましいはそれ自体を取り出すことはできない」(p.15)が、「猫を主人公とする作品を基にして、猫を通して人間のたましいについて語りたい」(p.24)。それが本書のコンセプトである。

『長靴を履いた猫』や『100万回生きた猫』『注文の多い料理店』『綿の国星』など、既知の本も多い。ちなみに巻末には大島弓子のマンガがついている。
読んでみたくなった本もあった。ポール・ギャリコ『トマシーナ』やル=グウィン『空飛び猫』(家のどこかにあったはず…)など。
鍋島猫騒動は知っていたが、久留米猫騒動(有馬家)は初耳。調べてみたら、阿波の猫騒動で、三大となるそう。

化猫の怪談で、主人の身を守ろうとして化猫となり大鼠か何かと戦うが、かえって妖怪として主人に成敗されたという話を、子どもの頃に読んだ気がする。夜が明けて主人は愛猫の忠義を知って嘆き悔やむが、あまりに猫が気の毒だった。
私の記憶が勝手に作り変えているかもしれないが、猫の報恩譚に、是非ともこれを加えてもらいたかった。
私が猫に投影するものは、愛情深く、忠誠心があり、甘え上手で、秘密があるように見せかけて実はなーんも考えていないような、根に持つことはなくて健気で気立てのよい、その瞬間を生きることが上手なひと達。
うちの子たちも、尻尾がいくつに増えてもいいから、長生きしてくれないかなあ。

河合氏に敬意と弔意を表して。
その後、トラはかなり強くなりましたよ。

2007.09.11

閉鎖病棟

閉鎖病棟 (新潮文庫) 帚木蓬生 1997 新潮文庫

最初にいくつかの人生、家族が描かれる。
中絶を図る10代の少女。復員してきた父親が自殺した家族。知的な能力が低さを恥じる家族。腹いせに納屋に火をつけた男性。
ばらばらに紹介された人々が、そこに集まってきていた。

淡々とした筆致は読みやすく、小説だということを忘れる。
作者の文章力も高いのだと思うが、作者をインスパイアした、実際の数々の患者達の人生の重みを感じる。
戦争を経験した人は少なくなってきていると思うし、このような昔ながらの精神病院の景色も、よかれあしかれ失われ行く景色の一つかもしれない。
数十年も人を閉じ込めることは非人道的な処遇ではないか、という点で、よかれ。

作中の患者達に面会しに来るのは、多くの場合は親達であり、兄弟姉妹はだいたい冷淡に描かれる。
年老いてもなお親心を見せる、その親達に胸を打たれる思いがした。しかし、親は子どもよりも長生きしないことが多い。
その人を受け止めて支える居場所がほかにどうしてもないときに、病院すら受け入れないとなるならば、あしかれ。

単行本の刊行は1994年(平成6年)だそうだ。
精神保健福祉法と呼ばれる法律がある。この法律の目的は、第一条をひいておこう。

この法律は、精神障害者の医療及び保護を行い、障害者自立支援法(平成17年法律第123号)と相まつてその社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進のために必要な援助を行い、並びにその発生の予防その他国民の精神的健康の保持及び増進に努めることによつて、精神障害者の福祉の増進及び国民の精神保健の向上を図ることを目的とする。

昭和25年に作られた精神衛生法をもとに改正を重ね、平成7年から精神保健福祉法(精神保健及び精神障害者福祉に関する法律)の呼称になったそうだ。
いつ、どのような変更を重ねられたのか、私はよく知らない。が、そういう法制上の変遷を踏まえて書かれたことは感じた。
薬物療法の進化と法制面の整備など、主人公格のチュウさんが出会う、若い女医が任意入院について語る場面に、時代の変化は如実に表れている。

絲山秋子『逃亡くそたわけ』とはかなり趣は異なるが、本作も福岡を舞台としており、博多弁と筑豊弁を使い分ける芸の細かさだ。
秀丸らの家族は博多弁、チュウさんや昭八ちゃんらは北九州から筑豊の言葉。筑後弁はわからないけど、入っていたかもしれない。

精神科の病気の治るとはどういうことか。
がんでさえ、「5年間再発していない」ことをもって「治癒」と操作的に定義する(乳がんのみ8年間)。
糖尿病や高脂血症など、病気と長くつきあうしかない病気がある。傷は治っても傷跡が残ることは、治ったとは言わないのか。
治るということを、どのように考えればよいのだろうか。

病院を終の棲家にしてはいけないという秀丸さんの手紙には、作者の理想や希望が託されているのだろう。
小説は綺麗な終わり方をしているけれども、本書が書かれて10年以上が経っても、厳しい現実はある。
本書は、だから、作者の免罪符にはならないだろうと思ったりもした。

2007.09.07

サウス・バウンド

サウス・バウンド 奥田英朗 2005 角川書店

こんな父親、嫌だーーーーっ。
ぐうたらで、わがままで、乱暴者で、家族の心情にも家計の窮乏にも無頓着で、周囲と問題ばかり起こす。
力いっぱい苦手に思っていたのに、この父親、途中からどんどん格好良くなる。
都市が似合わぬ人がいる。野性の中でこそ輝く自恃の人。困ったことに、力強く身体を用いて働く男は格好いいのだ。
井戸水をくみ上げて運ぶ姿が、鍬を持って立つ姿が、Tシャツの下で実用的な筋肉が躍動しているところが、美しい。
その上、聞きほれるような響きのよい大声で名乗りをあげ、角材一本でひるまずに戦うことができるとくれば、ファンも増えよう。
(イメージ映像は、チョン・ウソンの後姿。沖縄顔じゃないから、後姿の背中から肩、二の腕にかけて。)

東京の中野に生まれ育った小学六年生の主人公の二郎。その父親・一郎が元過激派で、母親さくらも実は…。
だんだんと家族の背景を知って戸惑ったり、自分の拠って立つ足場や背負う歴史を請い求める年頃だ。
世の中の不条理がせまってくる中、ふっと目の前に湧いて出た希望。しかし、「裕福な家庭に引き取られてめでたしめでたし」といった、昔のイギリスの少女小説のような生暖かいハッピー・エンドを許さないのが一郎である。
裕福なだけでは解決にならない。こけおどしの幸福もどきは、楽園ではないのだ。

『逃亡くそたわけ』に続き、南へと舵を取る小説が続いた。今度は、楽園を目指して。これまたダイナミックで、力強い物語だ。
第一部は都市を舞台にしており、子どもを取り巻く環境を憂えさせる分、二郎もそれなりに活躍していた。子どもの世界では大人は役に立たない。
二郎の両親は型破りだけれども、自分の家族を恥ずかしく感じたり、逆に、誇らしく感じる瞬間には、誰でも共感できると思う。
西表に舞台を移す第二部では、父親の前に子どもが目立つすきがない。二郎もがんばっているのであるが、それを上回る大人の世界では子どもは役に立たない。
子どもに子どもの世界を用意すること。子どもらしく生活できるように。しかし、いずれ大人になるように。

……自分の父親より、隣家の父親だったら、もっと嫌かも。
一郎とさくらが人として間違ったことをしていないとしても、世間にあわさないことを世間は迷惑に思うし、私も世間の常識に染まった判断をするだろう。
それでも、心の中には楽園を求めていたいと思う。自由な生活はひよわな心と体じゃついていけそうにないけれど、最後の楽園は最後の楽しみに大事に心に描いておこう。
読後、酔うような興奮が残った。とにかく面白いので、ぜひ。

 ***

革命は運動では起きない。個人が心の中で起こすものだ。
集団は所詮、集団だ。ブルジョアジーもプロレタリアートも、集団になれば同じだ。権力を欲しがり、それを守ろうとする。(
p.249)

2007.09.06

逃亡くそたわけ

逃亡くそたわけ (講談社文庫) 絲山秋子 2007 講談社文庫

なんて攻撃的なタイトルだ。
目を見張った。

プリズンからの脱走劇。福岡に始まり、大分、熊本、宮崎、鹿児島へと駆け抜ける。
主人公の花ちゃんはうつ病から躁転(躁状態に転じること)し、幻聴と不穏な気分にさいなまれている。
 亜麻布二十エレは上衣一着に値する。
渡部直巳が文庫の解説で、マルクスの『資本論』と引用元を提示しつつ解説を述べているが、このフレーズを無意味なジャルゴンとして受け止めたほうが、主人公の苛立ちに寄り添いやすいかもしれない。

いらいらして、止まらない。自分では止められない。どうしようもなく駆り立てられる。
追いかけられるのではないかと広がる妄想。頭の中で自分を責めるいくつもの声。
焦燥と衝動。不安と緊張。恐怖と激越。実感の上では、幻覚が現実を凌駕する。些細な刺激にも耐えがたいほど過敏になる。
症状は、意思を強くすれば抑えこめるようなものではない。多種の薬剤が作中にも登場するが、効き目も万能とはいいがたい。
花ちゃんの相棒に行きがかり上なってしまったなごやんは、躁はうつの反対だからハッピーな状態だと考えていたが、花ちゃんは泣きそうな悲鳴をはりあげる。

ここから逃げよ。

奇矯な様子に圧倒されて引きずり込まれるうちに、ふっと、花ちゃんもまだまだ若い、ほとんど幼い、普通に年頃の女の子らしい女の子であることを思い出さされる一節が訪れる。
「一人では絶対に来たくなかったけれど、一度ほかの誰かと行っておかないと、もう行けなくなるような気がした」。恋人との思い出の地にわざわざ立ち寄ろうとする花ちゃんのけなげなこと。
うっかり男性と行ってしまった為に、その男と別れた後、二度と行く気がしなくなった場所が私にもいくつかある。その土地には、結界が張ってあるかのように踏み入ることができなくなる。行くと間違いなく体調を壊す。
失いたくない場所の思い出を上書きしたり、効力を失わせてしまわなくちゃ。

神秘的な国東半島、雄大で豪快な阿蘇、きらめく都会の宮崎、そして一番強い海にそそり立つ開聞岳。
行ったこともある場所も、行ったことのない場所も、魅力的な愛想笑いで旅行に手招きしてくるようだ。
南へ行くほど、光は強く、景色が開け、空気が澄んでくる。どこかあっけからんとした雰囲気が、逃亡劇の舞台に九州を選んだ効果ではないか。
田舎に住むことは、可哀想でもなんでもないんだけどな。ご飯が美味しいって、食いしん坊らしい自慢をしたくもなるよ。美味しいんだもん。
主人公達と一緒に口をとがらせたくなる場面もあった。

最後にとっておきのよかにせが出てくるけれど、間近に寝ながら花ちゃんを抱かなかったなごやんも、なかなかのよかにせだと思った。
失うものも多かった二人だと思う。精神疾患は悲しいと主人公はつぶやくが、決して悲壮に浸ることはない。その力強さがまぶしい。
ああ、どこかに行きたいな。
さしあたって、宮崎のホテルを目指そうか? それとも、一番強い海に会いに行こうか。
思い切り大声で叫んだような爽快感が残る一冊。勢いにつられて、ふっと元気になってしまった。

200708260529000 ***

先日、長野の善光寺で「極楽の錠前」に触れてきた。
どうしても私にはこの世が大事に思われて仕方がないから、あの世の浄土に帰っていくのではなく、この世こそが極楽であってほしいと願う。
しゃあしくて、うっとうしくて、いとしいこの世界が。

2007.09.04

CATS, CATS, CATS

Cats, Cats, Cats Andy Warhol 1995 Little, Brown and Company(Inc.)

どこで買ったんだっけ? 円の値札がついたままだから、京都の丸善か。
どこか洋書を置いている本屋さんで、表紙の猫に一目ぼれして購入。
母親へのプレゼントという理由で買いながら、自分のほうが開くことが多い。

繊細な色合いで、横顔の美しい、たおやかでしなやかな猫だ。我が家の猫に似ているとなぞらえて、勝手に「はなちゃん」と呼んでいる。
カラーの色合いの美しさは、さすがウォーホール。明るくて、大胆で、突飛な色合いなのに、優しい。
着色されていないデッサン描きの猫たちも、様々なポーズで活き活きとした表情で微笑ましい。

最後のほうのページの聖家族図も、幸せいっぱいな景色で好きだ。
歴史的に家は人間だけではなく、多種多様な生き物が情景を作り、生活を営んできたのだと思う。
人間しか生存できない環境を不自然と言う気がする。

添えられた言葉も、猫の台詞のようであり、猫を見ながらつぶやく台詞のようでもあり、にんまりと笑顔が浮かぶ。
おしゃれで愛情に満ちた、小さいけれども豊かな絵本だ。
手元に置くにも、プレゼントにするにも、ウォーホールに詳しくない人でも、猫好きな人にお勧めしたい。

強迫性障害の治療ガイド

飯倉康郎 1999 二瓶社

強迫性障害。音だけ捉えて、脅迫性などと書いているのを見かけるが、それは間違いだ。同じく、精神症状のこん迷も、混迷は間違いで、昏迷と書く。

何か決まったものが気になってしかたがないといった観念と、戸締りなどを確かめずにいられない、手や身体を洗わずにいられないといった行動が、症状である。
この病気が登場する映画に『恋愛小説家』がある。ジャック・ニコルソン扮する主人公の恋愛小説家の、汚れるのではないかという不安に駆られて、生活に支障をきたしている。

この本の前半は、病気についての知識、症状や治療、経過についての説明で、簡潔に図解され、分かりやすいものとなっている。
後半は、暴露反応妨害法を行えるように、解説とワークシートから構成されている。治療は記録しながら行うものだ。

きわめてシンプルで薄い冊子であるが、その本の軽さが、これで治るんだという期待を後押ししてくれるようだ。勇気をもって、きちんと症状に取り組み、宿題をこなしていくことで、症状は必ず改善する。
内容も充実しており、強迫性障害の治療を必要としている人、あるいは、治療をする側の人にとっても有益だと思われた。

2007.09.03

オロロ畑でつかまえて

オロロ畑でつかまえて (集英社文庫)  萩原 浩 2001 集英社文庫

オロロ畑って、何? 何の畑なんだろう??
すずなちゃんのレビューで、読みたくなった本。

小野不由美『屍鬼』の外場村よりも田舎っぷりを誇る牛穴村。
村の特産品はオロロ豆にヘラチョンペ、かんぴょう、ゴゼワラシ。
住人達は、外場村とは打って変わって、ラテンな気質。過疎や高齢化の問題を抱え、村おこしを思い立った青年会の人々が第一集団。
彼らに村おこしの企画を依頼されるのは、東京の倒産寸前の広告会社の顔ぶれが第二集団。
面白いのは、前者は下の名前で表記され、後者は苗字で表記されることだ。たとえば、前者の集団には慎一や悟やテリーヌ等がいて、後者には杉山、石井、村崎等がいる。
対称的な二つの集団は、どちらもうだつがあがらないところで共通している。

これって映画にならないかな?
映像を思い浮かべながら読んだ。どの登場人物も個性的で、キャラが立っている。
私のお気に入りは村崎だが、株をぐいぐいあげるのは悟だろう。野卑な男に見えるけれども、実は結構、慎一にも気遣いがある。いずれにせよ、誠実さは大事な美徳だ。
楽しくて、少しほろり。どたばたした後は、収まるところへ納まっていく。

牛穴村の方言と、業界用語という方言の対比も面白い。映画にすると、音声表現がちょっと大変かな。
時折、( )して著者の訳注が入るが、しばしば、牛穴方言ではなくて業界用語に付記されているところが面白かった。

さあ、裏庭を探してみよう。ゴンベ鳥のその後やいかに。

 ***

登場人物の名前の一つが知人と同じだったものだから、読んでいる最中から、かつてのダメージが……。
溜め息をつくと、福が逃げるんだよなあ。

2007.09.02

笑う大天使

笑う大天使(ミカエル)プレミアム・エディション 2005年 日本

川原泉『笑う大天使』ほど、好きなマンガはない。
何度も何度も読み込んで、すっかり日にやけたコミックスを、大事に取っている。
女子校で過ごした生活を振り返るに、一番、しっくりくるのがこの世界だ。
吉田秋生『櫻の園』でもなく、三浦しをん『秘密の花園』でもない。
庶民の中の庶民、毛色の違った子羊は、お嬢様たちの中で、餌のいらない猫の飼い方を憶えた。

その映画化。

……うーん。やっぱり、難しいやね。
ハウステンボスでロケをしたのもよかったと思うし、ダミアンの声が太一郎さんというキャスティングも素晴らしい。
一臣さんは最初はイメージが違うかと思ったが、見慣れると、低めの声が魅力的でなかなかよい。
俊介さんも出番は少ないが、かっこいいじゃないか。孝にーちゃんもイメージに近い。
ロレンス先生は、もうちょっとブロンドのほうがよかったな。絵に近いキラキラの金髪か、イギリス人らしいアッシュブロンドも好みだけど。
1コマだけルドルフ氏も出てきたし、財務省をバックにとびかう御札にはカーラ氏のイラストが。ダミアンもよく動いていたし、猫かぶりの猫も可愛らしかった。麦チョコだって。黒いフェラーリは出てこなかったけど。

問題は、お嬢様がお嬢様らしくなかったこと。言葉遣いもさることながら、所作や表情が美しくない。制服や衣装が品がない。お嬢様が板についていないのである。やれやれ。
モブになると、毛色の違う子羊が浮いて見えない。チキンラーメンだけではインパクトが薄すぎるのよー。
ケンシロウ様オスカル様コロポックル様が出てきたときは嬉しかった。鉄腕アトムと超人ロックとウルトラマンはさすがに出てこなかった。ましてや、梵天丸や南斗水鳥拳やフランスの女王やらは。これは仕方あるまい。
作業服を着た労務者風の3人の女子高生によるアクション映画という、萌えをねらったんだか外したんだかわからない辺りに、力が入ってしまったようだ。

これはこれで、面白いんかいな?
殿下と史緒さんのストーリーはほろりとさせられたけどね。
川原作品に着目した点だけは評価する。(偉そう)

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