関西弁で愉しむ漢詩
この本は、題から中身がわかりやすかった。
「関西弁」で、なおかつ、漢詩を「愉しむ」本なのだから。
こういうノリが大好きである。
高校ぐらいのときだったか、英語や古文や漢詩を、仲間内でこんな風に関西弁にして楽しんでいた頃があった。
そのほうが妙にはまったり、作者や作品の印象が変わって、身近になる。
あの仲間内の笑いを思い出しつつ、斜に構えて読むつもりが、著者の訳やコメントに、声を立てて笑ってしまった……。やられた。
関西の芸人さんの声を頭の中であてながら読んでみると、更に味わい深くなるのではないかとお勧めしたく思います。
関西弁に親しみのない人にとっては、この訳は馴染みづらく感じるかもしれない。
だが、「愉しむ」部分は、関西弁ユーザー以外にも共通すると思う。
ざっくばらんに訳してみると、飲んだくれていたり、仕事も辞めて日長だらだらと、世を拗ねてみたり、ろくでもない感じがそこかしこに、大人のやさぐれぶりが絶妙である。
『僕僕先生』の王弁が遊び人としての修行が足りなく見えるぐらいで、高校生の古典の副読本に勧めるのは微妙であるかも。
著者が好んで李白を選んでいることから、酒飲みばかりの印象を受けるのだと思う。
桃も李も桃のうち、だろうか。
(2005.3.9)
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