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香桑の近況

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2007年8月

2007.08.28

「治らない」時代の医療者心得帳:カスガ先生の答えのない悩み相談室

「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室 春日武彦 2007 医学書院

吉野朔美さんの描く挿絵の医師が、好みでした。笑
もともと春日武彦氏の本が好きなので手に取り、吉野さんへの懐かしさに飛びついた。『少年は荒野をめざす』とか『ジュリエットの卵』とか。

さて、本書のこと。
研修医からの質問に、カスガ先生が回答する。
ここでいう研修医とは、「臨床のリアリティに接して気持ちを動揺させている真っ最中の人たち」(p.193)だとあとがきで定義されている。したがって、「研修医とは意思における思春期である」と。
医師としてやっていく上での悩みもあれば、患者やスタッフに対してこう言われたらどう応えるかというフレーズ集もある。
と言っても、読者に服従と信奉を要求するような単純明快なマニュアル(信仰の書)に堕さないところに、カスガ先生の妙味を感じる。

研修医でなくとも、そのほかの医療に関わる職業、医療に関わらない職業の、「現場のリアリティに接して気持ちを動揺させている真っ最中の人たち」に役立ちそうである。
謙虚な確信犯として、曖昧で宙ぶらりんな状態に耐える能力は、専門家に要請される態度ではないか。ただし、鈍感さを自覚することが、臨床の≪義≫というものだ。
当たり前で変化の乏しい毎日の業務が、退屈なルーチンワークに感じている人にも、読んでもらいたい。
「援助者のリソースは有限である」(p.179)ことを見失って、過度に没頭している燃え尽きそうな人たちや、過剰に背負い込んだ責任を達成できない罪悪感を感じている人たちにも、役立つのではなかろうか。

また、患者として医療に関わることになったときにも、思い出してもらいたい記述もあった。
というのも、現代の医療は万能じゃないことを前提としているからだ。治らない病気、身体の変化はある。
治らないことを受け容れなくてはならないのは、医療者だけではない。患者もだ。
悔しいし、悲しいし、腹立たしいし、もどかしいし、つらいけれど、治らない痛みがある。
患者としてそれを受け容れていくには、時間が必要なこともあるのだ。患者として成熟する時間を許してもらえれば、私は助かるなぁ。

巻末には、内田樹氏との対談もある。待つことについての議論は興味深いし、賛同する点も多かった。
時間が立てば、変化する。選択肢が増えるメリットがあるかもしれないし、選択肢が減るデメリットもあるかもしれない。
どうなるかはわからないが、状況も、主体も、変化する。未来を確保する限り、変化の可能性はいつもある。

個人的に一番励まされた文章は、「患者さんが救われれば、結果オーライ」(p.72)。
今後の課題は「退路を断たずに振る舞うことが、大人であることの基本です」(p.163)ということで、大人になること。
「なぜ人を殺してはいけないか」と問われれば、「簡単に答えることはできません。私もなぜだかわからないからです。とりあえず、私はあなたに殺されるのは嫌ですので、人を殺していいということになると困ります。あなたが人を殺してもいいと主張したいのであれば、逆に、なぜ、あなたは私を殺しても良いのか、私が納得できるように説明してもらえませんか?」などと言ってしまいそうである。
……ほんと、もう少し、大人になろう。大人になろうよ、自分。

2007.08.27

戦争の記憶をさかのぼる

戦争の記憶をさかのぼる (ちくま新書(552)) 坪井秀人 2005 ちくま新書

8月だから、こういう本も読んでおこうと思った。
私は戦争は嫌いだ。なべて反対である。かといって何をするわけではない。
自衛について自分のことを自分で片付けずに人任せにすることをやましく思うが、第9条を大事に思う。教育基本法が書き換えられたことを、残念に思っている。

戦後責任については、戦後生まれの人間が戦後生まれの人間に対して、いつまでぐちぐち言うつもりだ?と思うことも多い。被害者/加害者を分けず当事者は、その当時に生きていた人すべてに限定してもらいたい気がする。
加藤典洋、吉本隆明、小林よしのりなど、90年代の議論が紹介されているが、どれもしっくり来ない。

私のために。
私は偽善者である。利己的であることを否まない。
利他的、奉仕的、献身的を善であれと、短絡に振りかざすことを警戒する。それは他者に奉仕を要求する利己主義者ではないのか。用心が必要である。
同時に、視野狭窄な行動も嫌う。まわりまわって、自分の首をしめはしないか。はるか遠く、はるか先を見据えて、天に唾することにならないように用心した上で、己のためを考える利己主義者でありたい。

私は私が幸せでいるために、私の大事な人に幸せでいてもらいたいと願う。その大事な人の幸せのためには、私の大事な人が大事に思う人にも幸せでいてもらわねばならぬ。
私のために、私は他者の幸福を願い、平和を祈り、環境を守り、健康を恃む。そういう回路において、私はとことん利己的な偽善者であろうと思う。
『そんなことを、知らないよ』という声は、自滅を否認したその場しのぎの営為に過ぎない。私利私欲としては中途半端なものであって、私は巻き込まれたくない。

一つの悲しみを演出するために、たくさんの死を作る。
ショウを作り出す、メディアへの、政治への批判として読むこともできるなあ、と思った。
他者への関心の希薄化。人間の情報処理能力や許容量は限られるのであるから、情報が多量になれば、一つ一つに裂かれるエネルギーは反比例する。
コンパッションの低下は私の世代ですでに顕著だ。ネットの情報とリアルの情報の区別をせずに対象を理解した気分になるのは、リテラシーが向上したのか低下したのか。

10年ごとに終戦記念日の新聞報道をさかのぼり、振り返り、見比べていく。その過程で、戦争を語る世代交代が、記事の主語と述語から読みとられる。
人は年老いるものであるから、世代交代は当たり前のことである。そう観念として考えることと、それによる語りの変遷を追うことは、説得力が異なる。
時代の文脈を超えて生きる言葉もあれば、文脈を抜きにしては読みとりにくい言葉もある。当たり前ではあるが、忘れられがちのことがなんと多いことだろう。

いわゆる終戦の日から60年以上が経った。
戦争は、今もどこかで行われている。
内乱、紛争、戦闘、テロ。表現は異なるかもしれないが、誰かが誰かを、正義と自衛の名の下に殺している。殺されている。
戦争を知らないと言い切るのも、見ようによっては、自らの鈍感さを露呈しているだけなのかもしれない。
殺しあう苛烈さに思いを馳せることは、正直なところ、難しい。しかし、大事な人を失う悲しみ、自らが死ぬかもしれない恐怖であれば、私は思うことができる。
そこが、おそらく、私の倫理の拠って立つ足がかりの一つである。

デリダ『死を与える』が、この本で感じたことを深めてくれるだろう。
睡魔に負けずに読みおおせたとしたら、であるが。

2007.08.24

LEGAの13(1)

買ったきっかけ:
やまざき貴子さんは白泉社以外でも描いていたんですねえ。最近、ちょっと興味が下がっていたマンガ家さんなのですが、中世のヴェネツィアの設定に衝動買い。

感想:
マリー・ブランシュを思い出した。中世に遊ぶのは楽しい。
絵柄が少しくどいと思う人もいるかもしれないけれど、細かく描きこんだ装飾過多の絵柄がヴェネツィアらしくて豪華。謝肉祭の場面は圧巻だ。歴史上の人物もよく出てきて面白い。
キャラクターが魅力的なのはいつもとおりだけれども、これは物語をきちんと進めてもらいたいな。
この作者は気分のむらがあるのか、時々、アッパーでわけわかな展開になることがあるので……。

おすすめポイント:
ヴェネツィアですよ。ヴェネツィア。それだけでテンションがあがります、よね?>某嬢(^^;

LEGAの13 1 (1) (フラワーコミックス)

著者:やまざき 貴子

LEGAの13 1 (1) (フラワーコミックス)

2007.08.21

エンジェル エンジェル エンジェル

梨木香歩 2004 新潮文庫

認知症のおばあちゃん。
そのテーマは気が重くなる。自分の祖母の境遇を思って。祖母の介護と、施設での様子を思って。
だから、避けていた本だった。が、やぎっちょさんのブログを読んで、手に取ってみた。
買ったその晩に、一気読みした。

主人公コウコと、突然自宅介護することになった寝たきりに近い祖母。
祖母がそのばばちゃまを慕っていた娘時代の、憧れの旧友コウちゃん。
二つの物語が同時進行する。
現代仮名遣いで新字体の章と、文語体で旧字体の章が、交互に紡がれる凝り様に驚いた。
単行本では印字の色合いと黒と茶で使い分けていたそうだから、さらに趣のあったことだろう。

これもまた、三世代の女性達、祖母−母−娘を軸にしてまわる物語である。
『裏庭』の解説で、河合隼雄がそのことに触れている。
母を飛び越えて、コウコの物語と、祖母の物語と、二つの時間の交流が始まる。
祖母の過去の問題と、コウコの未来の問題が許されていく。

二人の娘たちの悔悛を、天使が見守る。
後悔が、そのまま、共感に、受容に、なる。
その交流そのものが、奇跡のような時間だ。
こうして言葉にすると、嘘っぽい。本書を読む以上に再現できないのだ。
小説の中で流れる緊張と緩和の一瞬を味わってもらいたい。
どんな気持ちが動いたのか、言葉にできないほど、揺り動かされた。
ちなみに、本書の解説は神田橋條治。臨床の大家が続くなあ。

祖母は、もう私の名前がわからない。顔がわからない。関係がわからない。どこの誰であるかわからない。祖母の娘である、私の母のことも朧である。
手をなでるとしわしわだが、何年も陽にやけていない皮膚はやわらかく、握ると意外な強さで握り返して離さない。
ときに手を叩きながら歌うこともできるが、透明な目で虚空を見つめたまま反応がないこともある。
ぽろぽろと失われていく人の記憶。誰もおぼえておらず、思い出すことのなくなった過去。
祖母の歴史の何ほども知らぬまま、言語レベルでは通じ合えない人になってしまった。

老いの残酷さを見せ付けられる気の重さに、足が遠のきがちになる。
世話になった。可愛がられた。大事にされた。それなのに、返そうとしない、返せない、薄情な自分。
人を、人たらしめるものはなんなのだろう。ただ長生きをすることが幸福なのか。その人の人生は、いったい何だったのだろう。
老いと死は、祖母が最後にしてくれる教育なのだと、母は私に言った。親が子どもに最後に教えられることなのだ、と。

茶の木を一本、庭に植えている。
椿や山茶花に似た、もっと小ぶりな白い花をひそと咲かせる様が清楚である。
匂い椿(lutchuensis)に似ている。匂い椿は沖縄原産で、白い壷咲きの小さな花をつける。
いつかもう少し茶の木が育ったら、家でお茶を作ってみようかな。できるのかな。やってみよう。
昔、祖母たちがしてきた営みに思いを馳せて。

 ***

エンジェルエンジェルエンジェル 梨木香歩 ["やぎっちょ"のベストブックde幸せ読書!!]
私がインスパイアされたのは上記のレビューです。読書の幸せをいただきました。

また、ちょうどよいタイミングで人が生きる意味を考えるきっかけをくれたのは麻麻猫さんでした。トラバありがとう。

2007.08.19

シェルタリング・スカイ

1990 イギリス

サハラの景色は美しい。朱色の大地と青空の対比。砂漠は夕焼け空のように美しく、白い骨のように無駄がなく清潔だ。T.E.ロレンスの言葉を思い出す。
砂漠の真ん中で記憶喪失になった人を探しに行く約束をした。その意味を知りたくて、DVDを借りてきた。
画面の美しさにうっとりする。サハラに行ってみたくないと言えば嘘になるが、蝿の多さは苦手だ。

一回観ただけで感想を述べるのは難しい。いろんな連想がもやもやと湧き立って形にまとまらない。
サハラに旅をしたアメリカ人夫婦ポートとキット、同行するタナー。
顔を隠してなされる愛撫、酔っ払って記憶に残らぬ愛撫は、匿名性を保つ。
それは、夫の代替。夫を想起させる手がかり。夫を記銘する身代わり。
他者との関わりを拒絶して、個の内で完結した自慰の範囲にあるもの。

サルトルの『嘔吐』を思い出した。人生を冒険という意味で満たそうとした主人公を思い出した。
レヴィナスを思い出した。キットは砂漠の民に対して、無条件で賓客として扱うことを要求している。(『レヴィナス入門』『ためらいの倫理学』
クンデラの『笑いと忘却の書』を思い出した。愛しても愛しても愛しても、忘れてしまう。

後半はほとんど台詞のない映画だ。人々は多いが、言葉がわからず、字幕がない。
群衆の中の孤独。アフリカの地方都市の群集も、N.Y.の都市の群集も、性質において変わらぬ。
主人公キットの孤独はますます深まる。一声も話さず、顔を隠し、私物を捨て、研ぎ澄まされていくほど、美しさを増す。
彼女を迎えに来た大使館女性が、冒頭のキットと同じように厚化粧をしている横で、キットは素顔に清楚な衣服を身に着けているのが印象的だ。
言葉を失い、記憶を失い、ありとあらゆる個性を一つずつはぎとられて、そこに残された孤独。

知人が勧めてくれた通り、最後の場面の原作者が語る言葉がよい。印象的で、哲学的だ。
原作者バロウズは、キットに「Are you alone?」と声をかけ、キットは笑顔で「Yes」と答える。
孤独になる不安を訴えていた神経質な表情はない。晴れ晴れとした笑顔があるだけだ。
字幕では「迷子になったのかね?」と訳されているが、「一人かい?」でもいいだろう。
キットは笑顔で、自分は孤独であると肯定してのけてみせたのだ。最早、自分の名前すら忘れ去った境地において、やっと。

旅行者travelerと観光者touristは違うという。後者は旅に出たときから家に帰ることを考えているが、前者は帰りを考えていないという。
でも、人生そのものが、繰り返しのほとんどない、後戻りすることのない旅行、いや彷徨なのだ。
空は固体のように、人を虚空から守っていると、ポートがキットに語りかける。キットは空虚への恐怖から守られたのだろうか。
彼女を待ち続けて、しかし、彼女の人生においてゆきずりの関わりしか持ち得なかったタナーの立ち位置が自分に近く、気の毒になった。

愛されたことを忘れるのと、愛したことを忘れるのと、どちらが悲しいことだろう。
人は忘れる。どうしても忘れる。いつか自分自身も忘れ去られる。終わりがあることを人は忘れがちである。
孤独からは逃れえず、不安や恐怖に駆られることがあっても、空がシェルターになる。空虚から、虚空から、人を守っている。
このタイトルが切ない祈りのように感じる。

私はあなたを空虚から守る空になりたかった。私が守らなくても、あなたが孤独のまま生きていけるように祈ろう。

2007.08.17

パパとムスメの7日間

パパとムスメの7日間  五十嵐貴久 2006 朝日新聞社

役割交換のロール・プレイ。
カップルの関係性の見直しのために、夫に妻の真似、妻に夫のふりをして会話をしてもらう。
いじめの予防と解決のために、いじめる側と、いじめられる側を決めて、なりきって演技をしてもらう。
今ここで、相手だったら、何を感じ、何を思い、何を考え、何を言い、何を行うのだろうか?

すずなちゃんのブックレビューで知った後、ドラマ化された。
そのため、パパのイメージはどうしても舘ひろしさん。
声も喋り方も、学校の景色や町並みも、ドラマを頭の中で再現するようにして読んだ。
とはいえ、小説には小説の表現手法があって、ドラマにない面白みもある。
ムスメの口調は、文章でわざわざ読みたいものではないので、どちらかといえばパパ目線で読んだ。

ヴィスコンティの映画のあたりが、私のツボ。確かに、寝れる。というか、寝た。
「ルードヴィヒ:神々の黄昏」でも寝れるし、「山猫」でも眠れる。熟睡可能だ。
画面がどれだけ綺麗で、建物も衣装もこりまくっていたとしても、だ。
デートで空振りするつらさに共感してしまうパパが微笑ましくてよかった。

組織は腐ることがある。企業の中で、腐りそうな気分をなだめながら働いている人には、ムスメの正論に励まされることもあれば、そんなにうまくいくわけないとますます腐りたくなるかもしれない。
どうしてこう、顔色をうかがう相手を間違ってしまうのか。
自分の顔を向ける方向を間違えないようにして、日々を過ごしたいものだ。

ところで、西野さん。ああいう人っているよな……と思い出すと薄暗くなる。
日本語がまっすぐ伝わらないの。相手の中で都合よく都合よく、つけたされたり、すりかえられたりして、まったく言葉が通じなくなる。
自分の中だけで世界が完結している人は、バランスが悪い。適応範囲内におさまっている間はいいが、はずれてしまうと修正が難しいところが気の毒だ。

物語は「ありえない話」という意味でファンタジーの設定なんだけれども、パパとムスメが立場を入れ替えて眺めるそれぞれの生活はリアリティがあった。
医療を頼って科学を導入せず、ファンタジーを保ったところが、興をそがずにすんだのだと思う。
共通する取り組むべき課題が解消されたとき、非常事態の緊密な関係は失われるかもしれないが、お互いへの理解は深まっているはず。
できれば、ラストは、パパとムスメがもう少し仲良くなっているといいな、と思ったけれど。
小説を読んで自分の立場を入れ替えてみた後は、父は娘に、娘は父に、笑顔の一つ分ぐらいサービスできたらいいな、と思った。

春告小町(1-4)

買ったきっかけ:
山口さんは、V-Kカンパニーの頃からのファン。しばらく離れていたけれども、前作「ひとゆり峠」で時代劇もいけるじゃないかと思って、これも購入。

感想:
お春ちゃんがとにかくかわいい。ものすごくかわいい。
元気な団小屋の看板娘と、しがない浪人のだんな、えせ坊主の岩ちゃんに女好きの常盤津のお師匠。キャラクター達も魅力的な人情味のあるドラマ。
だんなのフルネーム「坂崎正之助」だとわかったときには、作者ならずとも「ん?」と首を傾げましたが……。

おすすめポイント:
金春屋ゴメスが気に入った人には、おそらくOKだと思う。ファンタジーでありつつも、十分に和装が板について、時代劇に違和感がない。丁寧に書き込んだ絵柄も綺麗で、乱れがなく、台詞回しもよく、大人が読んでも楽しめる内容。

春告小町 (1)

著者:山口 美由紀

ココログの新機能のテストも兼ねて、アップしてみますです。レーダーチャートを考えるのも面白いけど、全部が全部、このテンプレで書いていくのもめんどいな。

芥子の花:金春屋ゴメス

芥子の花 西條奈加 2006 新潮社

『金春屋ゴメス』の2作目。歴史小説+ミステリをSFの設定でくるみこんだ異色のシリーズ。
タイトルから、芥子→阿片が関わるだろうと、あたりはつけることができる。江戸時代にも存在し、医療用として用いられていた。
タイトルを頭に入れていたのに、「雛罌粟」が「ひなげし」だと気づくまでにしばらくかかった。国の名前など、固有名詞の漢字表記に手を焼くとは情けなし。

新しい登場人物も増えて、ぐっと世界の厚みが増してきた。美しくて凛々しい朱緒様も同性ながら愛らしいし、ゴメスを目の敵にする筧様も憎めないキャラだ。隠密同心が出てくれば、松吉ならずとも胸が躍る。
しかも、いよいよ、ゴメスが、容貌魁偉、冷酷無比、極悪非道で厚顔無恥と町衆から恐れられるところを見せる。
同時に、ゴメスの過去も少しばかり示されるので、そんなに怖い人だとは思えない。
主人公の辰次郎と同じように、ゴメスを怖がるばかりでなく、信じてしまいたくなる。
だって、理不尽なばかりではないのだもの。いや、部下達には理不尽かな、少し?

江戸時代の再現ではあるが、そのままではない。異国人街もあれば、制度上の変更もある。今度はどんな設定が出てくるのか、わくわくしながら読んだ。
できれば江戸の地図、なければ東京の地図を念頭に置いておくと、謎解きもわかりやすいかも。
特に、水路の繋がりは、現代ではあまり意識されない。『其角俳句と江戸の春』でも、吉原に水路で行く景色が出てきたが、地下鉄とJRの路線図に慣れた頭じゃ予想外だった。
辰次郎も随分と江戸国内を歩きなれた様子である。

次作、江戸国存亡の危機か?
江戸時代設定と近未来視点の塩梅を決めるためには、江戸の外部である日本国を持ち出さなくてはならないだろう。
江戸国内で終始するならば、潔く普通の時代小説にしてしまうほうがすっきりするし、それを描ける作者の力量だと思う。
物語が今後、どのように進むのかも楽しみであるが、個性的な人物達が織り成す当たり前の江戸国の日常風景も読みたいなあ。

2007.08.16

日本神話の英雄たち

林 道義 2003 文芸新書

文章を読みやすくする配慮から話し言葉にすることは、私の好みではないが、言葉遣いの点を差し引いても、平易な言葉や日常的な表現を用いて、わかりやすく、とっつきやすく、面白く、ユング心理学流の神話の読み解き方を示している。
ユング派の理解の仕方とはこういうものであったかと、腑に落ちた気がする。特に、他のユンギアン批判が痛烈で、明快で、私には面白かった。意地悪な笑みが漏れたほどだ。
ただし、これは日本神話についての解説であって、神道について論ずる書ではない。後者を期待する人には不向きである。ギリシャ神話やエジプト神話を始めとする神話に興味を持っている人には、一読の価値がある。
(2005.9.6)

さて、この本を踏まえた上で、だらだらと書いてみた文章がある。実は、以下を書いたときに念頭に想起していたのが、冬木るりか『アリーズ』だったりしたのだ。
三浦しをん『極め道』を読んで、自分の文章を思い出した。こういうことをうだうだ書き散らかすのが好きだ。

 ***

フロイトは、父親と息子の物語を説いた。息子が愛した女性は、実は母親であり、すなわち父親の伴侶であった。母親を奪い合う、息子と父親の対立の物語である。これを、エディプス・コンプレクスと名付けた。
エレクトラ・コンプレクスは、母親と娘の物語である。母親が父親を殺して、母親を愛人を作った。その母親を殺す、娘の物語。ユングの命名だ。
阿闍世(あじゃせ)コンプレクスという和製の概念もある。小此木啓吾が提唱した、母親と息子の物語。自分を堕胎しようとした母親(と父親)を幽閉殺害した息子が、その怨みを許して、母子が通じ合うという物語。
母親と息子の物語には、アグリッピーナ・コンプレクスというものもある。母親が息子に執着し、支配するあまりに、息子は母親=女性を拒絶するようになる。
なんでも、コンプレクスをつければいいというものではない、と、私は思う。

エディプスの物語が男の子の心理を説明する概念であり、それと対比させて、女の子の心理の成長発達を説明する概念とされたものがエレクトラの物語だ。
だが、私にはどうもエレクトラがエディプスと対比をなしていると言われても、しっくりしないのだ。
これを書くために調べていたら、Wikipediaの記事にも、エレクトラ・コンプレクスは女性に人気がないと書いてある。笑
ペニスへの羨望→父親への愛着→父親から愛情を受けている母親への同一化→父親への所有の欲求と母親との競争→母親への同一化と競争の葛藤状態という、展開が、どこか間違っている。率直に言えば、スタートが間違っている。
ないものを意識することは、あるものを意識するよりも難しい。したがって、最初に自分にはないペニスを有している父親への憧憬を設定することに無理があるんじゃなかろうか。この辺り、ペニスを羨望してもらいたかった男性の願望を感じてしまうぞ。

むしろ、母親と娘の一体化した状態が先にあり、後から男性が登場して、母娘の対立や分離が生じる物語のほうが、母親と娘の物語としてふさわしいように思うのだ。
たとえば、デメテル-ハデス-ペルセポネの神話などはいかがだろうか。
デメテル/ペルセポネは二柱一組の豊穣の女神である。ハデスの登場により、母子の密着した状態から分離が生じ、結果として季節が生じる。

神話をどのように読み解くか、ここに興味を持って方法論を確立させたのは、ユングに端を発する一派であろう。
私にユングを読みこなす根性はないが、林道義『日本神話の英雄たち』(文藝春秋)はかなり読みやすい本であった。ここでもデメテルに言及した箇所があった。豊穣の女神が泣くと不毛になり、笑うと豊作になるという、世界共通のシナリオを述べている。
また、死者の国は母親の領域であり、豊穣の女神がいることを指摘している。穀物の神である少年の姿を持つ神は、死者の国に行って戻らねばならない。
そこから、デメテル/ペルセポネ(母と娘は別々の存在)でありながら、デメテル=ペルセポネ(母と娘は同一の存在)でもあると、考えられる由縁である。

さて、林の本で面白かったのは、少年神→青年神→英雄と、男性が女神との関わりにおいて発達していく過程である。
少年神は女神の寵愛を受ける。息子は、「母親の愛人」である。最愛の息子という表現が象徴的だ。息子のような愛人は、母親=女神に反抗すると殺される運命にある。
言い換えれば、男性を自分の息子にように称する心理には、その相手への支配欲や独占欲が隠れている。相手への影響力が決定的であり、裏切られることはない信頼感や関係性の強固さを誇示しつつ、性愛的なニュアンスを回避する周到で姑息な表現となる。
少年神が母親=女神を好きになったりすると、母親=女神に殺される。穀物神が地上から死者の国に去ると、地上は不毛になる。やがて蘇ると、母親=女神は喜び、豊作になる。

青年神には、母親=女神から分離しようと試みている段階である。しかし、成功せずに死んでいく。
自分に惚れ込んで終わるナルキッソス、継母の誘惑を拒否して同性愛を選ぶけれども継母にそそのかされた実父によって殺されるヒッポリュトス、処女神アルテミスの裸を見たために殺されるアクタイオンなど、みな、最後は母親=女神=女性によって殺される。

そこを生き延びることができる、女神にはむかうことができる、女神を殺すことができた者が、英雄となる。
メドゥーサ退治のペルセウスはわかりやすい。メドゥーサは太古の女神。滅ぼされた敵の部族の女神、蛇という多産や豊作の女神、すなわち母親を殺す。ついでに、アテネという新たな女神(浮気相手か?)の助力も得る。組み替えれば、新しい女性(恋人/嫁)に乗り換えるために古い女性(母親)をふりきることが成功した物語という、身も蓋もないことになる。
ヘラクレスの場合、ヘラに狂気を与えられて妻子を殺した後、女王オンパレーのもとでいろいろ功績をあげて英雄になる。ヘラは母親であり、嫁いびりには成功したが、息子=愛人殺しは失敗したと理解すればよいだろう。オンパレーも散々いじめたが、くじけなかったのでヘラクレスは英雄になったのである。

林は、神話の成立の時機に着目する。神話は時代によって変遷する。象徴が転換し、神話も発達する。
ヨーロッパ型の神話は英雄神と少年神が別々の人格を与えられているが、日本型の神話は英雄神に少年神(黄泉帰りと豊作)の性質が同居しているという。
そこから、日本型の神話は、ヨーロッパ型の神話よりも早い段階で記述され、形が残されたのだと結論付ける。

さて、再び、デメテル-ハデス-ペルセポネの神話に戻ろう。
少年神が死者の国から地上に戻ると豊穣の女神が喜ぶ。
果たして、デメテルを笑わせる(春にする)のは、娘であるのか、娘の夫であるのか。夫たりうる男性は少年ではありえないが、英雄は少年の時期もあったはず。
となると、ハデスを挟んで、ペルセポネとデメテルの間に嫁姑関係のような息子=男性の取り合いを想定することが可能になる。
デメテルが嘆き悲しみ怒り狂ったのは、娘を取られたからか、それとも、愛人を取られたからか。
女神の夫(デメテル/ハデス)はむしろ妻の怒りや悲しみの対象であるところも、あるいは存在感が薄かったり、頼りにならなかったり情けな~いところも、なにがしか現代に通用するモデルとなりうる気がした。

他人を息子と呼ぶときは気をつけよう。自戒を込めて。
そしてまた、息子と呼ばれて喜んでいるような男の不気味さにも。

2007.08.15

西の魔女が死んだ

西の魔女が死んだ (新潮文庫) 梨木香歩 2001 新潮文庫

学校に行けない。
行きたいけれど行けない、というわけではない。
行かなくちゃいけないのはわかっているけれど行けない。
行きたくないのだから、行けるわけがない。
だって、そこはもう怖くて嫌な場所。

私が最初に読んだ梨木作品。
不登校の子ども達や、その保護者が、口々に教えてくれた本だった。
タイトルを聞く機会が多く、話題についていこうと、本屋さんで立ち読みしてみた。
立ち読みは流儀に反するが、本を置くことができなくなった。
ラストのところで、泣いた。思わず、涙が出た。
完敗、という感じ。

このまま置いて帰るわけにはいかない。そのままレジに直行した。
改めて、家で最初から読んだ。誰もいないから安心して泣いた。
二度目だから泣かないかな?と思ったのに、最後の最後は涙なしには読めなかった。

とても敏感な心を持っている人に、素敵なヒントを与えてくれると思う。
ここに出てくるのは誰にでも遣えるようになる魔法だ。
苦しみや悲しみ、怒りや嘆きに駆られ、自分一人の世界にひきこもったとき、もう一度、勇気や自信、希望や愛情を取り戻す魔法だ。
正しい魔女修行の参考書として必読。
(2005.2.19)

2007.08.13

SHIMAVARA(1・2)

藤田貴美 1999, 2000 ソニー・マガジンズ

Eli, Eli, lema  sabachthani.
主よ、主よ、なんぞ我を見棄て給うや?

十字架に架けられたイエスの最後の言葉である。

神は試す。
人を試す。
信仰を試す。
そこに、救いはあるやなしや?

人は祈る。
神に祈る。
奇跡を祈る。
そこに、赦しはあるやなしや?

奇跡は神の御業である。
異性の装いをする異装は、性を超え、人であることを超える記号である。
人であれば奇跡は起こしえず、奇跡を起こすならば人としてありえぬ。
大切なものを救いたいという願いは、人の心によるもの。
その愛のために人であらねばならぬなら、人として生きて人として死ぬほかない。
疑ったときから、その信仰は信仰でなくなるのだ。

人間味のある天草四郎時貞の造詣、幼く可愛らしい恋人達、のどかで桜の美しい風景。
神の加護をただただ信じて身を差し出す農民達。二つ心を持つ武士達。
酸鼻な島原の乱を背景に、苛烈な信仰を美化せずに描いた傑作。

購入時には「四郎様」には一言「ならぬ」と言ってもらいたいと思ったものだが、年月を経ても尚、読み返すたびに胸を打たれる作品。
入手困難とは、本当にもったいない。

極め道:爆笑エッセイ

極め道―爆裂エッセイ (光文社文庫 み 24-1) 三浦しをん 2007 光文社文庫

もともとは、1998年11月から2000年6月の間、Boiled Eggs Onlineに掲載されたもの。このサイト、現在は万城目学のエッセイを目当てに、時々読んでいる。

三浦の『秘密の花園』を読んだとき、吉田秋生『櫻の園』を連想したが、本書では三浦が『櫻の園』に言及しつつ、女子校の生活を述べている。
ああ、やっぱり読んでいたんだ。

那須雪絵『ここはグリーン・ウッド』も、大和和紀『ヨコハマ物語』も、松苗あけみ『純情クレイジーフルーツ』も、樹なつみ『OZ』も、冬木るりか『アリーズ』も、藤田貴美『SHIMAVARA』も、清水玲子『22XX』『MAGIC』も、なんかもうたいがい読んでいるぞ? 持っているのも多いぞ?

日々の出来事や物思いを、自分もブログに書いてみたりするけれども、作家の人が書いたものは面白いなあ。
友人と喋るように、文章にうけあったり、つっこんだりしながら、愉しんだ。
フェミニズム的な感覚も持ちつつ、ステレオタイプなもので遊べる余裕。かつ、自分をネタにできる度胸に好感を持った。エセフェミと名乗れるぐらいが、バランスが取れていていいように思う。

私の身の周りにも「気は優しくて力持ちでおまけに知性もある女」友達は、過去も現在も多かった。
それなのに、やっぱり、「気は優しくて力持ちでおまけに知性もある男」とは縁遠いんだよなあ。

2007.08.10

しゃべれどもしゃべれども

しゃべれどもしゃべれども 佐藤多佳子 2000 新潮文庫

落語のことはよく知らない。
ときどき、笑点を見て笑ってみることもあるけれど、名人の名前も古典の粗筋も知りやしない。
映画ではなく、勝田文のマンガ(しゃべれどもしゃべれども (ジェッツコミックス) )を先に知り、こんな話は好きだと思って原作を手に取った。
だから、主人公三つ葉も、黒猫十河も、村林も湯河原も良も、私の頭の中ではマンガの絵柄で動いていた。
それがこう、しっくりくるんである。

気持ちだけじゃだめなの。以心伝心じゃだめな時があるの。言葉が必要なの。どうしても言わなければいけない言葉というのがあるの。でも、言えないのよ!(p.241)

こんな悲鳴を、心の中であげている人や握りこぶしの中に隠している人は多いだろう。
言いたいことを言えなかったり。余計なことまで言い過ぎてしまったり。
相手によって、主題によって、場面によって、できたり、できなかったりもするだろう。
言わなくちゃと、言わなくちゃ伝わらないんだから、わかってもらえないんだからと、手変え品変え言葉を重ねてみたけれども徒労に終わったことさえある。
うまく通い合えないつらさを知っている人に、この物語はそっと寄り添う。

小説は、言葉にできないもどかしさを言葉にしてある。登場人物たちのつらさがびしびし伝わってくるようだ。
また、小説は、言葉になりにくいぼんやりとしたものを言葉にしている。雰囲気であったり、心情であったり、表情であったり、匂いであったり。
長い小説なのに、一気に読ませる吸引力があるのは、作者の上手だろう。江戸言葉の切れ味と、噺めいた表現を織り交ぜ、言葉を用いる面白みを示す。
落語を聞いてみたいと思った。そうしたら、ちょうど、落語のチラシを手に入れた。行ってみるのも面白そうだ。(そして、実際に行って来ることができた。茶の湯を生で聞けたのが嬉しかったのです)

文中、「おおっ!」と声をあげたくなったのは、湯上谷と村松の名前である。
ホークスの試合中継が予備のカード扱いなのは、舞台が東京だから仕方がないか。
そう思って、念のために単行本の発刊年を確かめると、1997年。ダイエー・ホークスが優勝する以前だ。
……となると、人気のない中継の例にあげられても仕方がないかも……よく見りゃ「福岡ドーム」だし……違和感は感じないけど…今は名前が変わっちゃったけど…球団名も変わったものね。
好きな選手の名前が出てきて、言いなれた球場名が出てきて嬉しかったという、本題にはまったく関係のない感想。

自信なんて、ないことばかり。
弱音を吐きたくなったときは、次の三つ葉の言葉を思い出したい。
ないものは作れ。

 ***

本職は甘ったれたことを言っちゃいられない。自信がないなどと泣いていられない。ないものは、作るしかない。作るには、とりあえず努力するしかない。(p.183)

2007.08.04

ルバイヤート

オマル・ハイヤーム 小川亮作(訳) 1979 岩波文庫

高校生の頃に読んだ。酒に興味はありつつも、飲酒の経験などない頃。
楽しいお酒も、憂さ晴らしの酒も、つきあいの酒も、艶かしい酒も、おきよめの酒も、深酒して気分が悪くなったこともない頃に読んだ。
だから、酒に託されたことの、何ほどのことがわかったかといえば、わかったふりばかりで、わからぬことばかりだったように思う。

それでも、とても印象深く、忘れられぬ一冊となっている。
エスニックで、エキゾティックで、エキセントリックな、美しい言葉。いくつかのイラストと共に、ファンタジックな世界に酔える。
刹那的に酒と恋の楽しみを謳いながらも、皮肉げなのは、楽しみが奪い去られ踏みにじられる苦しみを承知しているからだ。
ひたすら酔っ払いだけれども、ただ苦しみから目をそむけるのではなく、苦しみを見据えながら楽しみを掬い上げるような、大人の態度を感じた気がする。

イスラム教では飲酒は禁忌である。
よく考えれば、飲酒の習慣があったり、飲みすぎて困った行動を取る人がいたから、禁止されたんだろうなあ。
ペルシャのガラスの杯に、赤い葡萄酒を注いで、月下に酔おうか。
今にして読んでみれば、以前とはまた違う、こもごもの思いが去来することだろう。

オマル・ハイヤームは11世紀セルジューク朝ペルシャの詩人にして科学者。
セルジューク朝はイスラム王朝であり、内部の権力争いや第一次十字軍による攻撃、さらにアフガンからの侵攻など、安穏とした平和とは無縁であった。
まさしく、ノア・ゴードン『千年医師物語:ペルシアの彼方へ』の時代である。

2007.08.03

其角俳句と江戸の春

其角俳句と江戸の春 半藤一利 2006 平凡社

「理解できないのはそっちの教養と眼識とが不足している」(p.125)とうそぶく。
挑発的なところが、其角の魅力らしい。
大酒のみの詩人とくれば、李白を筆頭、次点にオマル・ハイヤームを挙げていたが、今度からは其角も加えたい。

季節ごとの名句の解説に加え、忠臣蔵、三囲神社、永井荷風との絡みで書かれたものも面白い。

詩句を読む難しさは、幾重にも折り重なった、世界観にあろう。
短い言葉の背景には、もとの和歌や漢詩が、わかればわかるほど味わいが深まる。
本歌取りの妙は、詠み手の教養や感性をひけらかすと同時に、読み手の眼識や力量を試す。
「わかるものだけがわかる」という挑戦的な、暗号の世界なのだ。それをわかるという楽しみ方がある。

さらに、詩句を読む難しさは、一度にたくさんの詩句に触れると、一つ一つが記憶に残らないことである。
詩句は一つを何度も何度も目でたどり、舌でなぞり、折につけて思い出せるように憶えこむ楽しみ方がある。
こういう解説を読んで、成る程とうなることは多けれども、一読したぐらいで暗記できるような量を超えている。

その量でもって全体として、其角という世界を再構築しているのであるから、ほんの2、3でも記憶に刻むことができれば、初歩の私としては上出来だと思った。

俳句からは少し離れるけれども、『平家物語』では死者120人中、切腹したのは5人か6人。『太平記』では2140人以上が切腹していると、そこに人の心が殺伐になったと見て取る。成る程なあと頷いたり、よくも数えたものよと驚いたり。
そういう歴史や古典の薀蓄集として読むだけでも面白い。が、お小姓は男前のほうが思い描くに楽しいが、ヨン様はちょっと……。
ホトトギスの声は初夏になると毎年聞こえる点、今も我が家は江戸並みの田舎っぷりかもしれぬ。

以下、私なりに印象の強かった句のトップ3を記しておく。

 ***

 御秘蔵に墨をすらせて梅見哉
 傘に塒かそうよぬれ燕
 しら雲に声の遠さよ数は雁

 我雪とおもへばかろし笠のうへ ……も、捨てがたいなあ。3つにならず。

2007.08.02

俳句

高橋睦郎(他) 2003 ピエ・ブックス

すっきりとした表紙のレイアウトからして、手元においておきたくなる本。
これも、同じ出版社の『Man'yo Luster:万葉集』と並び、プレゼントに重宝する。
が、万葉集に比べると、俳句は切れ味がよく、小気味よく感じる。
きりりとした、一瞬の心地よさ。

季節ごとに章立てられており、その折々にあわせて読むもよし。
一ページをじっくりみるのよければ、ぱらぱらとめくるもよし。
言葉も景色も綺麗な本。
たとえば、海外の人へのお土産にもいかが?
(2005.2.7)

2007.08.01

Man'yo Luster:万葉集

Man’yo Luster―万葉集  リービ 英雄(訳) 2002 ピエ・ブックス

この本を読むのに、順番にこだわる必要はない。
ぱっと開いたページの言葉と情景を味わう。それだけでいい。
古典だ、古文だと堅苦しくならずに、窓の外に視線をはせて、ほっと一息つくかのように、眺めればよい。
古語と現代語と英語の音の世界に酔うのもよいし、日本の古典的な風景の写真集として楽しむのもよい。
もともとの万葉集の魅力を損なうことなく、世界を展開させている。
贅沢で、素晴らしく美しい本である。

初めて見た瞬間に一目惚れし、本屋の中をぐるぐる回った末に、2冊、買った。
発見を誰かに自慢したいと興奮していた。こんな喜びは親しい人とわかちあいたい。
プレゼントした人とは、今は疎遠になってしまったけれど。
今も輝きだけは残されていて、背表紙を眺めては思い出を温める。
共に楽しめる友人も貴重だと思えた、そんな思い出の本です。
(2005.1.25)

関西弁で愉しむ漢詩

関西弁で愉しむ漢詩 (寺子屋新書) 桃白歩実 2005 寺子屋新書(子どもの未来社)

この本は、題から中身がわかりやすかった。
「関西弁」で、なおかつ、漢詩を「愉しむ」本なのだから。
こういうノリが大好きである。

高校ぐらいのときだったか、英語や古文や漢詩を、仲間内でこんな風に関西弁にして楽しんでいた頃があった。
そのほうが妙にはまったり、作者や作品の印象が変わって、身近になる。
あの仲間内の笑いを思い出しつつ、斜に構えて読むつもりが、著者の訳やコメントに、声を立てて笑ってしまった……。やられた。
関西の芸人さんの声を頭の中であてながら読んでみると、更に味わい深くなるのではないかとお勧めしたく思います。

関西弁に親しみのない人にとっては、この訳は馴染みづらく感じるかもしれない。
だが、「愉しむ」部分は、関西弁ユーザー以外にも共通すると思う。
ざっくばらんに訳してみると、飲んだくれていたり、仕事も辞めて日長だらだらと、世を拗ねてみたり、ろくでもない感じがそこかしこに、大人のやさぐれぶりが絶妙である。
『僕僕先生』の王弁が遊び人としての修行が足りなく見えるぐらいで、高校生の古典の副読本に勧めるのは微妙であるかも。

著者が好んで李白を選んでいることから、酒飲みばかりの印象を受けるのだと思う。
桃も李も桃のうち、だろうか。
(2005.3.9)

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