2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

著者名索引

香桑の近況

  • 2017.1.4
    2016年 合計50冊
    2015年 合計32冊
    2014年 合計26冊
    2013年 合計32冊
    2012年 合計54冊
    2011年 合計63冊
    2010年 合計59冊
    2009年 合計71冊

    合計323冊
無料ブログはココログ

« 解離性障害 | トップページ | 関西弁で愉しむ漢詩 »

2007.07.26

多重化するリアル:心と社会の解離論

多重化するリアル―心と社会の解離論 香山リカ 2006 ちくま文庫

警鐘を鳴らすのは、上手な人だと思う。
大塚『人身御供論』の解説を読んだときも、題材の選び方が上手な人だと思ったが。
読後、なんとなくすっきりしない感じがして、西村・樋口『解離性障害』と読み比べてみた。
しっくりことなかったことはなんだったのか、ここで少し考えてみたいと思う。だらだら書いたので、下のほうに折り返しておく。

 ***

本書は「現実はひとつ」「一人の人間に一つの心」という枠組みが壊れてきている事態を問題視する。
その前提自体が、問題提起に対して、私は著者よりもう少し楽観的でいられるのだろう。
というのも、どのように解離してもしきれない、自分からは逃れえず、現実と向かい合わずにいられない瞬間があると思っているからである。
人は、自分自身からは逃げることができない。生老病死からは逃げることできない。八苦のうち、解離と抑圧と逃避を重ねて、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦は回避できないこともないかもしれないが、四苦は避けられない。
他者と出会うときにも、現実はつきつけられる。レヴィナスをひくまでもなく、愛撫は、受肉の作法である。HNでしか愛し合えないような相手は、ベッドから蹴落とせばよい。ささやかな記号の連なりに隠れなければ、現実に圧倒されてしまうようなヘタレ男に用はない。
ついでに、経済的な現実も、逃れることはなかなか難しいような気がする。お金がないと、ネットができないじゃないか。ご飯が食べられないじゃないか。生きていくのは、それだけで厄介な難事である。

1章から5章までは初出1999年から2001年に新聞や雑誌に書かれたものを2002年に出版。後に9.11と言えば通じるようになったアメリカの同時多発テロの体験を巡るものであり、解離についてそこそこまとまった論考になっている。
更に、6章として2005年に毎月、新聞に配信された世相についての文章を加え、7章を書き下ろしの文章で閉めている。小泉元首相という体験にまつわるものになっているが、なんだか2005年が遠く感じられたのがやばいと思った。
著者があとがきで書いている失敗がどんなことかは知らないが、7章以降は著者がしんどそうに見えてしょうがなかった。

目の前のささいかもしれないことと丁寧に関わることは素敵だと思うんだけどな。
サルトル『嘔吐』の主人公が、特別な冒険という物語で意味が付与されないかと思い描き、恋愛という冒険で自分に意味を付与しようとし、それがかなわないならば、他者の人生で自分という空虚を埋めようとした。
でも、自分自身が年を取ると、生きることにも少しは慣れるし、ますます老病死が身近になる。
すると、当り前の日常生活が貴重で大事なものに思えてきた。平凡なことや平穏なこと、当然なことや自然なことと、いつかは失われる、この毎日。
永遠はないからこそ、曖昧や複雑のもたらす不安に持ちこたえながら、じっくりと生きていけたらいいな。
同時期に読んだ、みうらじゅんの仏教はエゴを縮小させる思想だという視点(@別冊カドカワ)が、新鮮だった。

 ***

以下が中略した部分。

一人の人間に、もとから心は一つしかなかったのであろうか?
cogit ergo sum. 考えるゆえに我あり。その我が複数に分割されて、他の我を認識できない事態は、確かにデカルトも途方に暮れるかもしれない。
しかし、人は相手によって仮面を付け替えるものだ。それが、柔軟性であったり、社交性であったり、適応性であったりする。
私の中には、無意識もあれば、良心もあり、幼稚な自分もいれば、冷徹な部分もあって、優柔不断きわまりなくなるほど、混乱状態だ。アラビアのロレンスに親近感を持ちもする。
自分はモザイク状なのだと思い描く。純粋無垢で完全無欠で単純素朴な一枚岩であるとは思われない。
捩れ曲がり折れ歪み崩れ壊れ撓み捻れ、傷に傷を重ね、修正に修正を重ね、補強に補強を重ねた。
認知の複雑性が成熟の指針となるように、複雑さと曖昧さに耐えてきた全体をもって自分としてはならないか。
モザイクのどこかに真実本当の自分があるなどという狭隘でけちくさい考え方は性に会わない。
私は欲張りだ。胸を張って、どれも自分であると宣言する。どの心をも。すべてが。

かつて、現実は、おそらく一つであったかもしれない。
少なくとも、目の前の現実の中に、超越的な次元や他界的な要素が織り込まれて渾然として体験されていたとしても、使い分け可能なほど細分化はされていなかったかもしれない……けど、私にはよくわからない。
会社と家庭、実家と婚家、学校と遊びの場、在所と旅先など、場面によって、やっぱり、現実は多層的であったような気がするのだけれども。
それがどれぐらい解離していたのか、分裂していたのか、想定する時代と地域によっても異なるだろう。

realの対になる言葉としては、まっさきにidealが思い浮かぶ。
現実と理想と訳してもよいが、現実と理念と訳したほうが、より包括的になる気がする。
realは実存とも訳してもいいかもしれないし、actualを用いたほうがいいけれども、細かい議論は手におえなくなるので、思いつくまま書く。
理想は現実と乖離しているからこそ理想なのであり、現実の標準から抽出されて措定される。
その理念の世界、理想のような価値判断を伴なくとも、fantasyを人は内側に抱えている。
内と外がクラインの壷のように反転するのが、virtualな次元だ。
virtualな次元は純粋なfantasyではないから、想定外のことが起こる。他者という現実は常に在るのだ。
また、virtualな次元は、大体において文字情報のみで展開されるので、伝えないことには伝わらない。
気づいて欲しければ、動くしかない。自然、行動化が増える。それは予測可能な事態である。
ネット人格でピュアさを追求することも、デカルト以来の心身二元論の呪縛を感じるところだ。

また、一生の間に触れる情報量の増大は、個人の処理能力を超えており、統合しおうせなくなっているのかもしれない。
全体量が増えれば、濃度は下がる。内側に取り入れる刺激を制限しないと、主体が耐えられなくなる。だから、多すぎる刺激に、感覚は鈍磨する。
また、人間が実感が感じられるのは、どこか見知らぬ遠くの出来事ではなく、ある程度の身近さ、顔が見える、縁が感じられる場合に限定される気がする。
それほど、人間の認知能力や共感能力はすぐれていないと思う。

以上、ほんとにだらだら、思いつくまま。

« 解離性障害 | トップページ | 関西弁で愉しむ漢詩 »

エッセイ/ルポ」カテゴリの記事

専門書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/183237/7283361

この記事へのトラックバック一覧です: 多重化するリアル:心と社会の解離論:

« 解離性障害 | トップページ | 関西弁で愉しむ漢詩 »

Here is something you can do.

  • ボランティア・寄付ならプラン・ジャパン
    子どもとともに途上国の地域開発を進める国際NGO

最近のトラックバック