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2007年7月

2007.07.26

多重化するリアル:心と社会の解離論

多重化するリアル―心と社会の解離論 香山リカ 2006 ちくま文庫

警鐘を鳴らすのは、上手な人だと思う。
大塚『人身御供論』の解説を読んだときも、題材の選び方が上手な人だと思ったが。
読後、なんとなくすっきりしない感じがして、西村・樋口『解離性障害』と読み比べてみた。
しっくりことなかったことはなんだったのか、ここで少し考えてみたいと思う。だらだら書いたので、下のほうに折り返しておく。

 ***

本書は「現実はひとつ」「一人の人間に一つの心」という枠組みが壊れてきている事態を問題視する。
その前提自体が、問題提起に対して、私は著者よりもう少し楽観的でいられるのだろう。
というのも、どのように解離してもしきれない、自分からは逃れえず、現実と向かい合わずにいられない瞬間があると思っているからである。
人は、自分自身からは逃げることができない。生老病死からは逃げることできない。八苦のうち、解離と抑圧と逃避を重ねて、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦は回避できないこともないかもしれないが、四苦は避けられない。
他者と出会うときにも、現実はつきつけられる。レヴィナスをひくまでもなく、愛撫は、受肉の作法である。HNでしか愛し合えないような相手は、ベッドから蹴落とせばよい。ささやかな記号の連なりに隠れなければ、現実に圧倒されてしまうようなヘタレ男に用はない。
ついでに、経済的な現実も、逃れることはなかなか難しいような気がする。お金がないと、ネットができないじゃないか。ご飯が食べられないじゃないか。生きていくのは、それだけで厄介な難事である。

1章から5章までは初出1999年から2001年に新聞や雑誌に書かれたものを2002年に出版。後に9.11と言えば通じるようになったアメリカの同時多発テロの体験を巡るものであり、解離についてそこそこまとまった論考になっている。
更に、6章として2005年に毎月、新聞に配信された世相についての文章を加え、7章を書き下ろしの文章で閉めている。小泉元首相という体験にまつわるものになっているが、なんだか2005年が遠く感じられたのがやばいと思った。
著者があとがきで書いている失敗がどんなことかは知らないが、7章以降は著者がしんどそうに見えてしょうがなかった。

目の前のささいかもしれないことと丁寧に関わることは素敵だと思うんだけどな。
サルトル『嘔吐』の主人公が、特別な冒険という物語で意味が付与されないかと思い描き、恋愛という冒険で自分に意味を付与しようとし、それがかなわないならば、他者の人生で自分という空虚を埋めようとした。
でも、自分自身が年を取ると、生きることにも少しは慣れるし、ますます老病死が身近になる。
すると、当り前の日常生活が貴重で大事なものに思えてきた。平凡なことや平穏なこと、当然なことや自然なことと、いつかは失われる、この毎日。
永遠はないからこそ、曖昧や複雑のもたらす不安に持ちこたえながら、じっくりと生きていけたらいいな。
同時期に読んだ、みうらじゅんの仏教はエゴを縮小させる思想だという視点(@別冊カドカワ)が、新鮮だった。

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解離性障害

解離性障害 (新現代精神医学文庫) 西村良二(編著) 樋口輝彦(監修) 2006 新現代精神医学文庫(新興医学出版社)

専門書であり、治療者にとってはきわめて実用的であろう。

解離性障害についての知識はあふれており、被暗示性の高さが解離性障害の素因にあげることができるならば、この溢れるばかりの情報がますますこの障害の増加を後押しさせることになる。
しかし、正確な知識の伝達は、疾患の概念や用語の定義が流動的であって統一されがたいことによって、しばしば困難を生じる。
それが「多重人格」や「記憶喪失」のようなドラマティックでファンタジックなイメージを喚起をするものであればあるほど、不十分な理解と不用意な発言が、二次的、三次的にイメージを肥大させて、ますます中核が不透明になるように思われる。
「現在の解離性(転換性)障害をめぐる議論は、第一次力動精神医学への回帰といっても過言ではない」(p.19)という指摘が興味深かった。

解離性障害について、一般的な知識として重要なことは、「現代の精神医学では解離を必ずしも病的な現象とはみなさず、むしろ個人が破局的な体験を乗り越えるための防衛機序として認識されている」(p.6)ことであろう。
解離性健忘、解離性遁走、離人症や解離性同一性障害など、各自が思い当たり、思い悩むことがあれば、自己判断せずに専門医に相談してもらいたい。
もしかしたら、非病的なものであるとわかれば安心できるかもしれないし、病的なものであれば治療の対象となるからである。

解離は、本来、自己を防衛する機序である。
人は誰しも、解離したり、抑圧したりしながら、自分を守っている。
だとしたら、近代的な理性は、やはり神話性に溢れるものだと思われてくる。
自己とか自我とか呼ばれるものに徹底的にこだわってみたとしても、それは決して純粋無垢の一枚岩ではないことが示されるのではないか。
個の自明性は、それが成り立つことにおいて危うく、そこに責を負い込ませることにおいて危うい事態が、ありはしないだろうか。
ぴったりの表現が見つからないが、自戒として書いておく。
つまり、この自分でさえ、完璧で純粋な≪私≫ではないということ。

 ***

8月22日以降、本書と無関係のTBが急増。ニュースに登場した単語がタイトルに使われているからであろう。ニュースの内容については私がとやかく言うことではないが、ニュースにすら無関係の記事のTBも多い。うっとうしいので、この記事だけTBを受け付けないことにする。

2007.07.21

ミミズクと夜の王

ミミズクと夜の王 (電撃文庫 こ 10-1)  紅玉いづき 2007 電撃文庫

一気読み奨励。
私も白状します。泣きました。
仕事中に鼻をかんでいたのは、そういう理由です。

有川浩さんが解説を書いたということで知り、読む本に不自由しそうなときについでに買った。
帯には、有川浩とならび深沢美潮もコメントを寄せている。
本編を読む前に、解説を読んだぐらい、読む気は乏しかった。
私が最後のほうから目を通すのは、読む気をかきたてなくちゃいけないぐらい、読む気が乏しいときだ。
読み終えてから、作者の方に失礼しましたとお詫びしなければいけない気持ちになった。

たとえ、ベタでも、ベタベタでも、いい。
先が読めるとか、言っちゃいけない。この王道を突き進むところがいい。
女の子は、力強く、幸せと好きな男を掴み取らなくちゃ。

主人公のミミズクは、安逸に養育されることなく生き延びてきた。
傷だらけの赤ん坊のような心を持つ少女が、フクロウと出会い、成長し、恋する娘へと変化していく。
成熟は遠い。だが、不幸で無力な子ども時代から抜け出るチャンスはきっとある。

完璧な保護者はいないし、完全な家庭などない。学校も安全ではないかもしれないし、地域の包容力も期待することが難しくなったといわれる。
虐待は毎日のように報道される。自傷行為も残念ながら少なくなく、よく見かける事象となった。
過去の痛みの記憶に、体と心が引き裂かされそうになることがある。だから、今の痛みが必要になる。
この世から消えたくなるような闇を抱える心性にとり、この物語は受け皿になる可能性を持つ。
たとえ陽光の下を歩くことがつらいときであっても、月光がかすかな希望を灯してくれるだろう。

2007.07.20

僕僕先生

僕僕先生 仁木英之 2006 新潮社

柔らかな色使いと優しい絵柄の可愛い表紙が気になる本だった。誘惑に負けた。
ブロガーさん達の評判もよく、日本ファンタジーノベル大賞受賞作なら私の好みだろうと買ってみた。

中国の歴史や故事、文化が膨大に詰め込まれており、物語の土台がしっかりしている感じだ。
そういった知識がなくとも、読み手を容易に引き込む雰囲気がある。
玄宗皇帝が楊貴妃に惚れ込む直前、仙人が飛び交い、人々が祈りによって自然と折り合いをつけていた素朴な時代へと。

主人公王弁は、見事な若旦那である。
ここでいう若旦那とは、江戸時代の大店の、妙に頼りない跡継ぎ息子のこと。番頭が見張っていないとふらふらと遊びに出かける。それも吉原ではなく、近所の川べりで針のついていない糸を垂らして釣りしてみたり、ぼうっと風車に見とれるような、そういう私の勝手なイメージである。
……こう書くと、日本では昔から、ニートであることを、ある程度までは許容する文化的土壌があったということか……。

さて、王弁はふらふらと旅に出てしまうところは、回避的ではあるがアパシーというわけではなく、アイデンティティが拡散しているわけでもないと思わせる。
遠い世界に牽引を感じるだけで、自分探しのたびではないからだ。育ちのよい若旦那としてまっとう?なだけで、彼には若旦那という彼らしさがちゃんとある。
そもそも、こだわりのなさも無為自然の域に達することができたら、立派なもんだ。
一方、僕僕先生も魅力的な仙人である。この主人公ら二人の淡い愛慕が、清潔感があってこれまたよい。

続々と名うての仙人や神々が登場する。
『封神演義』の訳者が書いていたことだけれども、中国の古典にはファンタジーの要素がいっぱいある。
近代化して、人間は蝗を恐れる必要はなくなったかもしれないが、こんな混沌として曖昧としながらも絢爛で芳醇な世界での遊び方を失ったと思うと寂しくはないだろうか。

デビュー作とあり、多少の文章のわかりづらさは感じる。
句読点の位置の問題だろうが、修飾部と被修飾部の区別がわかりにくいところがあった。
人のことを言うのは簡単である。(もう少し、文章を見直せ>自分)
しかし、この作者の今後に期待を持ちたい。中国ものが続くのか、それとも?
面白くて、最後は切なくて、でも最高にハッピーな小説だった。

バリー・ヒューガード『鳥姫伝』のシリーズや、田中芳樹『創竜伝』が好きな人には、とっつきがよいと思われる。
夢枕獏の『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』もちょうど同時代だ。まだ読んでないけど。
政治制度の面では、小野不由美の十二国記シリーズや雪野紗衣の彩雲国物語を思い出す。
マンガだったら華不実『夜光雲』を思い出したが、古すぎるだろうか。『僕僕先生』の中の古い神々が出てくる諏訪緑『蠶叢の仮面』『西王母』もお勧めだ。
美少女の僕僕先生なら、九天玄女だったらいいな、なんて、思ったのだ。杏の花の香りがするのだもの。

 ***

というわけで、すずなちゃん、読んでね。

2007.07.17

サイン会はいかが?:成風堂書店事件メモ

サイン会はいかが? 成風堂書店事件メモ (創元推理文庫)  大崎 梢 2007 東京創元社

書店限定名探偵のシリーズ3作目。
2作目『晩夏に捧ぐ』は長編だったが、今度は短編集で、1作目の『配達あかずきん』の雰囲気が蘇る。
この作者は、やっぱり本屋さんを描くところで俄然活き活きする。2作目よりも好きかも。
特別付録「成風堂通信」まで読むことができて、ラッキーだった。

多絵ちゃんの出番は以前よりも劣る。その代わり、ほかの社員たちの登場が増え、キャラクターが立ってきた。
書店の日常で起きる事件は、名探偵ではなくとも、謎解きができるような出来事の積み重ねであることが多いだろう。
日常はそうでなくては困る。多絵ちゃんが、ちゃんと普通の子の扱いになった気がしてほっとした。

その中で、表題作の「サイン会はいかが?」は、やや長めで、謎解きの要素が強く、多絵ちゃんの出番もある。
サイン会は成風堂書店にとって史上初めてのイベントと、当の作家から依頼された人探し。
作家さんのサイン会って、行ったことがないなあ。違うサイン会なら……。
そういえば、世界三大紅葉樹というものがある。ニシキギ、スズランノキ、ニッサを指すが、これらの原産地からして北米で選ばれたものかもしれない。

苦痛を訴える人の訴えを取り合わない。そのことが暴力になるときがある。
取り合わなかった人は暴力を振るっている自覚はないかもしれない。
すると、その自覚のなさ、鈍感さが、暴力をますます強化するのだ。
『李陵』の中で司馬遷が「好人物ほど腹立たしいものはない」と嘆いた通りだ。
中島敦は、好人物は腹立たしくはあっても恨むに値しないと付け加えたけれども、暴力は常に禍根となる資格を有する。
嫌われるのでもなく、憎まれるのでもなく、恨まれる。

「バイト金森くんの告白」は可愛い小品だったし、「ヤギさんの忘れもの」も巻末でほっこりとさせてくれる。
冒頭の「取り寄せトラップ」は謎解きものとして前からの流れをそのまま受け継ぐ。

一番好きだったのは「君と語る永遠」かな。
こういうのに弱い。最後のほうは、泣きながら読む。
切なくて、ほろりとする、いい話でした。

ところで、家庭画報よりもゼクシィが重たいらしい。今度、本屋さんで持ち比べてみよう。

2007.07.15

永遠のとなり

永遠のとなり 白石一文 2007 文藝春秋社

香椎に行く機会があり、本屋さんで見つけた。
ほかの本よりも多めに平積みにされていた。
この本を買うならば、是非にこの街に因んで買ってみようと手に取った。
かつて、松本清張『点と線』の舞台となった、この街で。

ある方のブログで見て、舞台がどこかを知らなければ、おそらく買おうとしなかっただろう。
香椎に住んだことはないが、生まれた場所であるので、景色はよく知っている。
主人公の男性は五十歳を目前にして、うつ病を発症し、離婚した上に離職して、単身、地元に戻る。
幼馴染の友人は肺がんを何度も再発しながら、結婚と離婚も繰り返している。
生まれて生きて死ぬだけの人生の、「生きる」ことの難しさ、孤独に耐える難しさが語られる。

うつ病の症状としての性欲減退や、薬物療法の副作用としての勃起障害はよく知られるところであると思うが、それがどれぐらい男性にとって重要なものであるかは、私には実感できないことである。
男性の勃起に対するこだわりの手がかりは、私の場合、奥田英明『イン・ザ・プール』、それ以外では阿部輝夫『セックスレスの精神医学』、森岡正博『感じない男』あたりが挙げられるか。

これだから男って。まったくもう身勝手なんだから。何度もぼやきながらページをくった。
それに、酒も飲み過ぎ。毎日の飲酒は体に悪いんじゃないか?
それでなくとも、運転の前には飲酒はやめましょう。醒めたと思っても残っているのが酔いです。事故のもとです。
アイランドシティを抜けて雁ノ巣に行く道筋を示しつつ、飲酒して運転するような描写が残念に感じた。

順風満帆で、平凡きわまりないと思っていた人生が、ある日、失われる。
死を見た後の、二度と安心できない日々。世界や神様や運命への怒りを、むなしさとはき違えてはいけない。
永遠は遠く、そこに至れば幸福であるとの保証もなく、どこへ向かえばよいのか。
立ち止まって考える機会が、人生には用意されているものなのかもしれない。主人公の考え方は私とは違うけど。
永遠の別名を、死という。

暗い話かと思いきや、読後感は悪くはない。多少はくたびれて、しょぼくれたとしても、残りはまだあるのだ。
最後に出てきた「太陽の塔」に思わず噴き出した。

2007.07.12

(雑誌)流れる

石田衣良 2007 野性時代 Vol.44

この人の小説を読むのは初めて。
『美丘』の表紙が気になって、タイトルをなんと読むのか気になって、気になって、気になったまま、好みじゃなさそうと思って、本は手に取らずに作者の名前だけを憶えた。

三年同棲した男と別れて、三週間で危機を乗り越えることは、私には難しいかもしれない。
しかし、呑気に寝ている男の額に、一言書いてやることができたら、少しはましな気分になれただろう。

同性の友人たちがどれほど支えてくれたか。もつべきものは、まさに。
これが男性を書いたことに、驚く。作者は女の人だとばかり思っていた。ほえー。

もう、あの男のために苦しむ時間は終わったのだ。次だ、次。

2007.07.11

李陵・山月記

李陵・山月記 中島 敦 1969 新潮文庫

身につまされる思いがした。
森見登美彦『新釈 走れメロス』を読んでから、再読したいと思ったのだ。
かつて国語の教科書で読んだ記憶はあるが、読み直してみて、ひどく身につまされた。

狷介の性。
「山月記」「名人伝」「弟子」「李陵」の4編に共通するのもの、作者の特徴をあげるならば、頑なさにあるのではないか。
キルケゴールは、死に至る病は絶望と説いたが、絶望よりも救われぬのは強情であるとも述べている。
自恃。頑固。意地。強情。一途。孤高。不羈。潔癖。
当世風の言葉に置き換えるならば、強迫性や自己愛性の性格傾向とでも言おうか。

古代の中国に題材をとり、漢文風の表現も多く、おおむね、中国の古典を読んでいるような気分にさせられる。
しかし、単なる古めかしい物語ではない。人物描写に、社会風刺に、古びることのない問題意識を感じる。
戦争(第二次世界大戦、十五年戦争、太平洋戦争のどの語が今はニュートラルで一般的なんだろう?)の只中において、自らの信じるものを見つめ、行うことは、どれほど難しいことだったろう。

自分に厳しく、他者に厳しく、求道する。
全身全霊をかけて、不確かな己を訴える。フーコーの言うところのバレーシア。
ただ己の倫理を貫く気風は、時に社会から遊離し、孤立し、自らを滅ぼすこともあり、いずれの小説も幸福とはにわかに言いがたい読後感がある。
不確かな私を追い詰める私自身。徹底的に、自分自身にこだわること。そういう近代的な意識が、小説全体を支えているのである。

自分自身の意地っ張りな気難しさを思い、反省の念頻り。
しかも、司馬遷や蘇武に対して李陵が引け目を感じるような、中途半端な意地っ張りでしかない。
子路にはなれず、孔子にもなれず、いわんや名人をや。
それでもなんでも、好人物への腹立たしさには、我が意を得たとばかりに大きく頷いた。
偽善者の自覚のないいい人は、恨みを向けるだけの値打ちがなくとも、奸臣や酷吏よりも始末が悪い。
いやほんと。自分が人を傷つけていることに無自覚な人を相手にすると、大変だった……。
作者の描く潔癖さとは無縁のところで、妙に共感した自分の卑近さが対照的だったということにしておく。

大量の注解がついており、中学生ぐらいでも読みこなすだろうか。
ただ、その注にて、「賦役」に「ぶやく」とルビがふられていたことが気になった。これでいいのかな。

2007.07.08

晩夏に捧ぐ:成風堂書店事件メモ(出張編)

晩夏に捧ぐ<成風堂書店事件メモ・出張編> (ミステリ・フロンティア)  大崎 梢 2006 東京創元社

本屋に幽霊が出たら、それも売り物にしようよー。
と、幽霊よりもはるかに生きている人間のほうが怖いと思う私は、素敵な本屋さんには幽霊がいたって魅力の一つに変わってしまう気がする。
先日、「だって、見ず知らずの幽霊に恨まれる覚えなんてないもん」と言ったら、「向こうがそう思ってくれるかどうかは別なんだから」と上司に諭されたばかりだが。

前作『配達赤ずきん』の何が出てくるかわからない、わくわくする感じが少なくなったかな。
主人公の杏子&多絵の巻き込まれた事件に不自然さを感じた。冒頭のアリバイ証明のあたりの地に足をつけた書店員っぷりに比して、探偵として招聘されるくだりが居心地が悪くて、非日常の物語だと思ったた。
主人公達にとっても、普段の職場を離れた非日常で物語が進む。

おそらく、本屋さんで起きるような日常の小さな事件というのは、長編で語ることが難しいのだと思う。
長編で語るには、大きな事件を。いつもの職場で起きないのならば、ほかの場所で。
古い事件を組み込んだことは、上手だと思った。
司法をなるべく絡めないためには、時効が過ぎていたり、すでに判決が出ている出来事を設定しないといけない。つまり、犯罪は終わっているのだ。

とても魅力的な老舗の本屋さんや、おしゃれで大型の本屋さんが出てくる。
本を書く人、作る人、売る人、読む人と、それぞれ本が大好きな人たちが出てくる。
本に思い入れを持つ人たちがいるからこそ、私も読書の楽しみにふけることができるんだよなあ。
本屋さんを応援しなくちゃ~と、近所の本屋さんに交互に散在することにしている私の努力は微力であるが、そういう建前があってこそ思う存分、積読本の山を成長させられるのである。
すぐに手に入らなくなるから、目に付いたときに買わないと、二度と出会えなくなるのだもの。もう少し、一冊ずつをゆっくりと丁寧に扱う文化になってくれてもいいのに。
さて、次作はいつもの本屋さんに戻るようで、楽しみだ。

書名の明かされなかった多絵と杏子の出会いの本は、バーネットの小説で、メアリーとディコンとコリンが出てくるものじゃないかと推測。
映画化もされていますし、ターシャ・テューダーのイラストで出版されているものもある。
ロビンが可愛らしい、あの本だといいな。違うかな?

最後に。
PTSDの言葉が普及すると同時に、意味が拡散し、流行が過ぎつつあるように感じるが、トラウマティックな体験は暴き立てればいいというものではない。
さかしらげに内奥に踏み込んで、善意を振りかざして踏み荒らすような、想像力と共感性の欠如を、私は嫌う。
しかし、その体験したときには致命的なほどの記憶も、効力を失うことはある。
人は、変わることができるのだから。
今は難しいことも、いつか大丈夫になる。きっと大丈夫。そう信じている。

 ***

晩夏に捧ぐ (成風堂書店事件メモ(出張編)) (創元推理文庫) 晩夏に捧ぐ (成風堂書店事件メモ(出張編)) (創元推理文庫)

著者:大崎 梢
販売元:東京創元社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本、文庫化もされています。

2007.07.07

いのちの質を求めて:ホスピス病棟日誌

 下稲葉康之 1998 いのちのことば社

伯母がこの病院で看取られて死んだ。胃ガンだった。
他の病院で全摘の手術をしたが、予後が良くなかった。
がん治療は手術をして退院したときが「治った」というわけではないことを、それまでは実感として知らなかった。
術後、水を飲むことが許されるようになるまで一ヶ月。食事も今まで通りというわけにはいかない。体力がごっそり削られる。
伯母が自宅療養に断念したとき、搬送してもらった先がこの病院だった。

そのときの印象は、ホスピスはターミナルケア(終末期医療)に秀でているが、死を看取るだけの場所ではないということである。
本書のタイトル、「いのちの質」の部分で、がん患者の術後のケアによく慣れている人たちなのだと感じた。
もっと早くからこんな看護をしてもらえたら、伯母の生きる気力も損なわれることがなかったのではないかと悔やまれたほどだった。
声のかけ方に始まり、様々な医療スタッフのこまやかな気遣いが、死に逝く者と、見送る者らとの心身の苦痛を緩和してくださったと思う。

キリスト教の精神とわけては語ることのできないホスピスの理念であり、実践である。経済的な合理性では、まかないきれない部分もあろう。
しかし、それがどれほどの人の痛みを慰めてきたか、本書の随所に描かれている。
医療スタッフの力強さに脱帽である。

今現在もガンで闘病中の親戚がおり、片っ端からガンになる平均寿命の短い家系の一員として、私の視界には死がいつもある。
職業柄、人と会うことも多く、多ければ人の死に会うことも多くなる。目をそむけなければ、死は身近なものだ。身近ながら、慣れることのない痛みが伴う。
家族の末期のケアを考えるとき、また、私自身も順番から行くと私を看取る家族はいないから、最期はこういう病院にお世話になれたらいいなあと願っている。
一人で死ぬのは、やはり、少し怖いかな。

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