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香桑の近況

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2007年6月

2007.06.28

村田エフェンディ滞土録

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫 な 48-1)  梨木香穂 2007 角川文庫

否応なく、時代も距離も隔たった、戦争の世紀の初頭、革命前夜のトルコに連れ去られる。
これは、小説なのか。村田氏の手記ではないのか。夢のように鮮やかな日々をつづる、祈りのような言葉たち。
そんな錯覚すら覚えるこの本は、是非とも『家守綺譚』と対で読んでもらいたい。
素晴らしい本に出会った。余韻が惜しまれて、レビューを書く気にもならなかった。書くと、読み終えた気持ちになるから。

スタンブール。
道が集まり、物が集まり、人が集まる。
ローマやペルシャにビザンツ。トルコには帝国の歴史が幾重にも折り重なっている。
ノア・ゴードン『千年医師物語:ペルシアの彼方へ』のめくるめく壮大な世界を思い出す。
道が集まり、物が集まり、人が集まる。だから、様々な神々も集まる。
その多様性は共存し得ないものなのか。多数の宗派や宗教があり、人々は主張はするが、専制君主制のもとではあるが潰しあうことなく存在していた時代があった。
やがて、西洋の合理主義という迷信が、世界を貪欲に飲み尽くす。

私は政治史は嫌いだ。英雄の歴史は目立ち、時に面白いことを認めるが、戦争の歴史は嫌いだ。
私は文化史が好きだ。名も残らぬ人々が生きていた。どんなものを食べて、どんなところに住んで、どんな服を着て、どんな風に愛し合ってきたのだろう。
泣いたり笑ったり、腹を立てたり、平凡な日常を生きていた。その当たり前のはずの生活が、異文化で異時代の私にとっては目新しいことも多い。
人が生きて死んでいった。ここに確かに生きていた。じんわりと胸を温めるような感動を覚えることがある。
私の感性に、この本はとてもフィットした。

不思議なことが不思議ではなく、当たり前のように日常に溶け込んでいる。
極めて繊細で、曖昧で、あたりに漂う気配のような、ともすれば消えやすいもの。
当然のこととして不思議を受け入れる心持になることが、梨木さんの本ではしばしば起こる。
時は流れ、人も変わる。貴重なものも、砂と埃に埋もれていく。時代の災厄が大きすぎて。
輝かしい日々は、なんで過ぎ去ってしまうのだろう。夢から醒めた日々の顛末は、涙を禁じえなかった。

京都に住んでいた頃、日本トルコ文化協会と関わる機会があった。オスマン軍楽隊の行進を見聞きし、トルコ大使もまじえたパーティに参加した。
ロダンという店のコーヒーは、飲み終えた後にカップの底に残る粉で、占いができそうだ。京都のコーヒーは、どこかアラビアの香りが残っているのかもしれない。

Disce gaudere.
友よ。楽しむことを学べ。我が友よ。
歴史をただ繰り返さないために。

 ***

200706280047000テレンティウスという古代羅馬の劇作家の作品に出てくる言葉なのだ。セネカがこれを引用してこう言っている。「我々は、自然の命ずる声に従って、助けの必要な者に手を差し出そうではないか。この一句を常に心に刻み、声に出そうではないか。『私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない』と」。(p.84)

←国立民族学博物館で購入した目玉のお守り(ナザル・ボンジュク)。トルコ製。携帯ストラップの目玉はなくしちゃった。

2007.06.27

恋におちたシェイクスピア

アメリカ

シェイクスピアのラブコメが好きだ。「真夏の夜の夢」や「ロミオとジュリエット」は言うに及ばず、「テンペスト」や「十二夜」、「じゃじゃ馬ならし」に「恋の骨折り損」などなど。「ヴェニスの商人」も何とも言えない魅力があるし……。詳しいわけじゃないけれど、挙げればきりがない。台詞回しの妙味に、英語らしい英語の響きが加わると、うっとりする。

蜷川演出の歌舞伎「十二夜」を見て、即座に思い出したのが『恋におちたシェイクスピア』。シェイクスピア作品ではなく、シェイクスピアの若き日を題材にした映画。シェイクスピア自身の恋と、。「ロミオとジュリエット」の芝居を作り上げる過程がシンクロしていくところが面白い。

衣装や背景も美しく、シェイクスピアの時代の習俗を知るには持って来いの一作だろう。貴族と庶民の身分差、男性のみで演じられる演劇、ローズ座にカーテン座。グウィネス・パルトロウも魅力的だし、ジュディ・デンチ演じるエリザベス女王の「Too late, too late」の台詞は記憶に残る。

なぜ、「十二夜」のヒロインの名前はオリヴィアなのか。結ばれつつも結ばれえない恋人達の物語。

図書館学の授業の合間に、シェイクスピアを言えば、「ひとごろしいろいろ」と憶えるようにと言われた。1564-1616。シェイクスピアの生没年である。

ダンサーの純情

ダンサーの純情 韓国

ヨンセみたいな男は大っ嫌いだ。過去の傷を振りかざすばかりで、それで人を傷つけることにも無自覚な。目の前の人が、過去の傷つきのものととなる人とは、別人であることを忘れて、過去の傷つきに対する復讐を別人にぶつけるような人は嫌いだ。

「グリーンカード」の韓国版。ダンスのシーンも楽しめるし、面白い映画です。コミカルな要素も、ほろりとする要素もあり、安心して楽しめるような内容。

ただ、ちょっと、登場人物にいらいらしただけで。極めて個人的に。ちゃんと治療をして、ちゃんと法的に訴えて、対処すればいいじゃん。うじうじうじうじうじうじうじうじ、一人で落ち込んでいるだけで、何も解決にならないじゃん。いい迷惑。愛情でもなんでもないよ。ほんと、ばっかだなー。もーっ。

張形と江戸をんな

張形と江戸をんな 田中優子 2004 洋泉社

江戸の男女比率は、偏っていた。女性が男性の四分の一だったか。
だから、離縁状は男性が書いて結婚時に女性に預け、出産歴のある女性は再婚相手として喜ばれた、と聞く。
だから、吉原なり、遊び場所が発達したのも頷ける。

それなのに、何故に江戸おんなに張型が?とわからなくて購入。
そういえば、江戸には武家屋敷があり、大奥があったじゃないかと読み始めてからやっと気づく始末。
男性に不自由しないと女性が張形を積極的に利用することはなかろうという、私の発想における男根主義の影響が見てとれる。

豊富な図版。描いた人もすごいが、集めた人もすごい。
その上、整理と分析が面白かった。絵画の研究とはこのように行うのか、興味深い。
上方はカタログ化したハウツーものが多く、江戸は時代が下がり、絵にストーリーを付したものが多いという。
特に江戸においては、武家の女性(男子禁制の生活をしている女性)の間で遣われるものとして紹介され、後家さんが用いるもの、男女の性行為に用いるものとして、絵の中での位置づけが変わっていく。

ぽんぽんと絵師の名前が当然のように出てくる。初心者には誰が有名で無名かすらわからなかった。さすがに、葛飾北斎の「蛸と海女」だけは見覚えがあったが。
こんな姿勢は可能なのか?とか、それはかえって疲れるんじゃないの?とか、そこまでするかーっ?とか、春画にツッコミどころは満載で、そこを笑うことが楽しみ方なのだそうだ。
笑う以前に、その道具は一体どうやって遣うんで?と首をかしげるものもある。もう少し説明がほしい。どれが何?

一番予想外だったのは、互形であり、本手づかいと呼ばれる女性同士の行為である。これは自慰になるのか(相手を男性の代替とする行為)なのか、相手が女性だからこその関係になるのか、関心を引かれる。
ジェンダーもセクシュアリティも、今風な定義づけとはまったく感覚が違っていたんだろうなあ。女性であることを考える好材料である。

はたして、女性に性欲はあるやなしやと問われれば、あるに決まっているじゃないか。
「絵師が男性であることから春画は男性のファンタジーの産物」と簡単に片付けることを斥け、女性のマスターベーションをあからさまに堂々と描き、男性不在の性行為まで描いてみせたところに、性に関する西洋的な幻想の限界を開く通路を、著者は示してみせる。

読んでいる最中に歌舞伎を見に行った。
この時代から、女性の性は変化をしているが、「女性のように綺麗な顔の男性」が一定の人気を得ることには変わりがないように思う。
しばらく、江戸文化に好奇心がくすぐられそうだ。

2007.06.25

(雑誌)テンペスト

テンペスト  上 若夏の巻 テンペスト  下 花風の巻  池永永一 野性時代

十九世紀の琉球王朝を舞台とする。
琉球王国は冊封をうけて清を宗主国と仰ぐ同時に、鎖国中である日本の薩摩の支配を受けている。
男だけしか政治に関われない中、主人公の真鶴は、性別を偽り、名前を変え、宦官として科挙を経て宮廷に上がる。

設定は興味深い。中国文化圏の辺縁に位置する国として、琉球はヴェトナムや韓国と共通項が多い。文化的葛藤の面でも、歴史的宿命の面でも。建築や衣装など、見比べると面白い。
この小説は、現代的な日本語文の合間合間に、琉歌や和歌が織り込まれ、公文書は漢文で、ときには英語などが差し挟まれ、当時の琉球王国の持つ多様性をよく表していると思う。
雑誌を買うたびに読んでいるのだが、どうも、物語にはうまく入り込めない。
女の子が頑張る物語のはずなのに。『彩雲国物語』と比べちゃ、いけないだろうか。

主人公は美人で才気煥発、無垢で完璧。健気にがんばっており、その活躍は痛快なはずだ。「夢の女性」のような男性のファンタジーを感じさせられる造詣に、感情移入しづらい。
主人公以外の女性は、傲慢であったり、短慮であったり、強欲であったりして、魅力に乏しい。ここまで悪し様に書かずともよかろうに。女性一般の記述は軽蔑的と言ったら、言いすぎだろうか。
主人公の周りには何種類かの魅力的な男性キャラを配置して、ある種の萌えを狙っているように感じる。男性がBL風のものを書こうとして、とてもヘテロセクシュアルなものに戻ってしまったような感じ? 

物語の粗筋や設定は面白いのだけれども、どうも描写が好きになれない。
このしっくりこない感じは、男性作家が女性を主人公にして書いた小説に、私は感じやすい。
美人だったら何でも許される。それ以外は許されない。その構造に、女性一般に愛情や敬意を払ってもらえていない感じがするのだと思う。
性別で分類されて、個人の魅力が無視されている。過剰に性化させられている感じがして、嫌になるんじゃないかな。
だって、私はその他大勢の女性一般に自分を投影するから。その自覚がある。

この小説に関しては、ものすごくもったいない感じがする。
もったいないから、多分、雑誌を買ったら続きを読むとは思う。
いっそ主人公が世界を制覇するぐらいの勢いで突き進んでくれないかなあ。

 ***

その後、第二部に入ってからが、俄然、面白くなった。真鶴と寧温の二つの顔を使い分けながら、二つに引き裂かれそうになりながら、しかし、どちらも魅力的に人を惹きつけながら輝く竜の娘。主人公が真鶴の顔を取り戻したことで葛藤が生じ、人間味が出てきたのだ。

同時に、敵役である真牛にも徐々に人間らしい魅力が感じられるようになってくる。それにしても、ちょっと眉をひそめるような苛烈な境遇に落とされてしまうわけであるが……。

ちょうど、ドラマ『篤姫』と同時代ということもあり、そういう意味でも面白く、結局、最終回まで雑誌のほうでおいかけてしまった。紅型風の模様がプリントされたページが綺麗で、それも楽しみだった。

琉球王国から俯瞰する、アジア。薩摩に代表される日本、朝鮮半島、清国の力関係。そこに、欧米が進出して伝統的な世界に影を落とす。時代背景がはるかにわかりやすくなる。ダイナミックな構造を、多言語を駆使して描く。

雑誌ではVol.55(2008年6月号)が最終回となった。フェミニスティックにうがった見方をすればできないこともないが、ハッピーエンドとなった。読み応えのある小説であることは間違いない。

2007.06.22

(雑誌)バンドネオンを弾く女

中山可穂 2007 野性時代 Vol.44

めあての小説を探して雑誌をぱらぱらとめくっている時に、ふっと作者の名前が目の前に飛び込んできた。
中山可穂。
予想外のことに嬉しく驚く。最近、『白い薔薇の淵まで』を話題にしたばかりだ。

一人の男を挟んだ、妻と愛人が手を握り合う。
渚は、まるで鈴子にこそ恋をしてきたように、見とれる。
鈴子は、まるで男が見るような目で渚を見て、戸惑う。

しかし、そこには性愛の気配はない。夫婦の間にも、男と愛人の間にも、そして女性同士の間にも。
妻という役割や母という役割を削り落として、女であることまで振り落として、日常から遠く離れたところ。
それぞれの歴史を背負う、ひけめのない一人の個として、ゆるやかに連なる。
恋人同士ではない。しかし、友達同士とも異なる。不思議な連帯感が心地よい。

その人は、母であり、姉であり、妹であり、娘であり、妻であり、妾であり、女であり。
白い薔薇の淵を越えて、中年期に入った心性を感じる。
女であることを捨て去らずとも縛られなくなる。
そういう境地もあるのかもしれない。そんな希望。
この人の最近の作品をもっと読んでみたいと思った。

ヴェトナムの暑さを思い出した。もう一度、行きたいものだ。
……肝炎にならないものなら……orz

(雑誌)そ 【ソフトクリーム】下から吸う男。

火浦功 2007 野性時代 Vol.44

火浦功!!!!!
雑誌の目次を見て、驚嘆のあまり大声を出しかけた。
出たーーーーっっっ。

寝ぼけた目を見開き、表紙も確かめるが、目の錯覚ではない。
火浦功だ。あの火浦功だ。遅筆自慢の寡作の(お笑い)SF作家。
うおー。この雑誌、買ってよかった。なんと貴重なものを。

「スベったらお代返します!? とっておきの笑えるハナシ」という特集記事の中の、見開き2ページに書かれたエッセイ。
ただそれだけだ。
文章に加齢に伴う落ち着きを感じたが、懐かしいことには変わりない。生存を確認できただけでも今回はよしとする。

だーかーらー。
遊んでいても悪くはないですから、あれやこれやの続きを書いてください。
待って待って待ち続けて、表紙が変わるたびに買いなおして、火浦さんの本が部屋に増えて行くんです。
それなのに、物語の続きがわからないままのものがあるのです。
レイクの続きは求めませんから、せめてガルディーンぐらい。
いっそ、座談会のみで一冊とか、口述筆記で二冊とかでもいい。
続きが読みたいんだー。軽妙な文章を読みたいんだー。ちくしょー。

(雑誌)ホルモー六景:同志社大学黄竜陣

万城目 学 2007 野性時代 Vol.43

同志社でJoeといえば、あの方しかおりません。
母校が出てきた喜びのため、迂闊にもまた雑誌を買ってしまいました。
かつて、同志社にもホルモーがあったのです。

今度の主役は巴ちゃん。
芦屋の元彼女。芦屋を追いかけて京都の大学に入ったと本編で語られていた、あの女の子。
そして、意外な歴史が語られます。

芦屋のだめっぷりが見事で、巴ちゃんに思いっきり感情移入しました。
あの大学の男ってだめね、と一緒に言ってやろうではないか、と握り拳を振り上げたくなるぐらい。
巴ちゃん、よくやった。啖呵に拍手をあげたいぐらいだ。そんな男につきあうだけ時間の無駄だ。
碌でもない勘違い男の腐った性根にへこたれず、その後の巴ちゃんがハッピーになっているといいな。

200705211611000 今出川キャンパスのあの建物のあの書庫にそんなものがあるのなら!
多分、出入りしたことがある場所だ! あそこだあそこ!!
場所の一つ一つが目に浮かび、楽しくってしょうがありませんでした。
「庭上の一寒梅」を歌いつ。

 ***

 単行本『ホルモー六景』の感想

2007.06.19

金春屋ゴメス

金春屋ゴメス 西條奈加 2005 新潮社

小気味の良い江戸言葉で啖呵を切る。
歴史小説とミステリの両方をいっぺんに楽しめる贅沢な本だ。

病気療養中に友人から勧められた本である。
第17回ファンタジーノベル大賞を受賞しており、突飛で斬新な設定にびっくりした。
意表をつく設定のおかげで、現代の常識や感覚を活かした科学的な医療ミステリとしても成り立っている。
病院臨床の場のミステリというより、感染症のテロに対する謎解き。最先端医療の研究に対する問題提起にもなるミステリだ。
読むのに時間がかかっちゃったけれど、これは友達にお礼を言わないと。

たとえば、資源が枯渇して、環境が荒廃して、生活水準を数百年分前に遡らせなくちゃいけないとする。
そうしたら、どんなに戸惑ったり、困ったり、苦しんだりするんだろう。
こういうシビアな状況に自分の身を置くことを考えると、どうしても自分が生き残るように思えない。
生きるしぶとさ、たくましさには自信がない。

その反面で、毎日の日常を送ることに精一杯でなければならない生活が、安心して安定した居場所を与えることも知っている。
江戸の生活は不思議な魅力を持っている。懐かしいけれども新鮮で、少し厳しくて温かい。
理想の生活、理想の人生って、どんなのだろう?

容貌魁偉、冷酷無比、極悪非道で厚顔無恥なヒロイン、馬込すずの出番が少ないのが残念だった。
ヒロインと書いたら異論が出そうであるが、主役級の重要な女性キャラという意味である。
だって、主役よりえらいし。

時代小説は苦手という人も、ミステリが好きな人なら楽しめるかも。
ここから時代小説に興味を持つ人も出てくるかな。
ほろりとする結末も、べたな時代劇にあるような、人情味がある。
続編『芥子の花』も読んでみようと思う。物語と作者の今後に期待。

2007.06.17

配達あかずきん:成風堂書店事件メモ

配達あかずきん (ミステリ・フロンティア)  大崎 梢 2006 東京創元社

行きつけの駅ビルの本屋さんを思い浮かべながら読んだ。
本好きさんのブログで見かけることが多かった本を、ようやく読むことができた。
本がいっぱい並んだ表紙が、物語の舞台を表している。面白いタイトルだ。

本屋さんのリアルなお仕事振りを背景に、本屋さんで本当に起こりそうな日常の事件が物語を作る。
中に出てくる本も出版社のわけ隔てなく、知っている本、好きな本が出てくると嬉しい。本好きには楽しくなる本だなあ。
登場するのも愛すべき人たちだ。舞台の本屋さんも素敵だけど、ハーレムのようにハンサムさんばかりの理容室も素敵だ。

『あさきゆめみし』には、高校の古典の授業を随分と助けてもらった。気づいたら、当たり前のように参考書として広まっていた。
『天の果て地の限り』という額田王を主人公にしたマンガを大和和紀は書いている。『あさきゆめみし』より前で、古典に題を置く試みとなったのかもしれない。私のお気に入りの一冊で、このマンガで憶えた和歌もいくつかある。もちろん、「あかねさす むらさきのゆきしめのゆき ~」の歌もだ。
山岸涼子『日出ずる処の天子』、神坂智子『T.E.ロレンス』など、古典や歴史の副読本に事欠かなかった。

『夏への扉』は、表紙の猫につられて買った。年数が経って、すっかりページが茶色くなってしまったが、読むたびに元気をもらう大好きな本だ。
ダヤンは、ちょっと苦手だなあ。
YONDA?のパンダは登場した瞬間にほれ込み、二年連続で全種集めたしおりを今も取っている。

本屋さんが大好きだ。
図書館も好きだが、本屋さんが大好きだ。
本棚を歩いていると、本の呼ぶ声が聞こえる。
その声に従って連れて帰った本は、はずれがない。
真新しい本をそうっと開くときの喜びは、なにものにも代えがたい。
ネットの本屋を使うことも増えたが、本の呼び声を聞きに本屋さんに行くことが好きだ。
実物の本を見ることで、今まで興味を持たなかった新しい世界との思いがけない出会いが増える。
本屋さんがない生活は考えられない。

2007.06.15

墜落遺体:御巣鷹山の日航機123便

墜落遺体―御巣鷹山の日航機123便 飯塚 訓 2001 講談社+α文庫

この飛行機には、もしかしたら家族が乗っていたかもしれなかった。
「空港がすごい人出だったよ。なにかあったのかな」と、いつも通りののんきな様子で父親が帰ってきた。
父の会社の人で被害にあわれた方もいたという。

数年前に本屋でなにげなく手に取り、しかし、当時は読みきることがためらわれた。
そういう本が多いな、私。
次は買おうと思っていたが、タイトルよりも本屋の置き場所で本を憶えていたものだから、その本屋がなくなって本のこともわからなくなった。
ところが、先日、1998年に出版され、2001年に文庫化された本なのに、近所の本屋で平積みされていた。
今度こそ、買ってみた。

読んでみたいというより、読んでみなくちゃと思ったのだ。

離断、炭化、挫滅……。
遺体の描写をグロテスクと感じる人もいるかもしれない。
私においては、それをリアルに映像としてイメージすることが難しかった。
心理的に拒否した部分もあるだろうが、その凄まじさは想像を絶していたのである。
どこをどうすればそんなことになるのか。人体がそのような有様になるのか。
感情が揺さぶられて涙がにじむ場面もあったが、圧倒されて気持ちが追いつかない。
嫌悪感は不思議に湧かない。感傷的になって泣いてしまえば、逃げるような気さえした。
目をそらさずに読んだつもりだ。

国内で大量の死者が出た大惨事といえば阪神淡路大震災が真っ先に思い出される。
この大惨事という言葉を憶えたのが、御巣鷹山の報道だった。子どもだった私は「第三次」だと思い、何の災害が一次で、どの事故が二次のひどいことなのか、親に尋ねた記憶もある。
このような警察、医師、歯科医、看護師、本書にはほとんど出てこないが自衛隊らの活動は、その後の大規模災害でもあったことだろう。
生存者の救出という「明るいニュース」の陰になりながらも、骨身を削って職務に当たった専門家がいたのであろう。
不眠不休も四日目になると異常行動が増える様子など、危機対策の参考になる情報も読み取れた。

表紙の緑の尾根が美しい。
読み終えて、一つ、思う。
戦争でも大量死が起きる。このような酸鼻を、敢えて作りたいのか?

2007.06.14

蝶々の纏足・風葬の教室

蝶々の纏足・風葬の教室 山田詠美 1997 新潮文庫

私は仲間はずれになりやすい子どもだった。
今となっても、集団に適応しにくい、孤立しやすい人間だと思っている。
ここは私の居場所ではないのだと、そんな居心地の悪さをいつも感じているのだ。
友達というのは日常生活だと、著者は書く。私の友達はとても少ない。

三浦しをん『秘密の花園』の表紙を見たときに、ふと思い出した。気になりながら、まだ手付かずの、この小説。
読む勇気が出なくて、読むと決めてからも開いては閉じ、結末や解説を開いて心の準備を促し、結局、「蝶々の纏足」を後回しにして「風葬の教室」「こぎつねこん」から読んだ。

思いがけず、「風葬の教室」のほうが「蝶々の纏足」よりも印象深いものだった。
確かに、私と私の特別な友達は、子どもの頃、お互いに纏足を結び合っていたのかもしれない。
その束縛を断ち切るために、私は男性を利用したのかもしれない。
しかし、心の中に飼っていた纏足は、同時に、私を地上に繋ぐ重力の鎖となった。
私がここにあるために、今もか細い糸となり、私を縛り付けている。それが、ありがたく思いこそすれ、嫌なことではない。
だからだろう。怖れていたほど、読んでみれば、「蝶々の纏足」はそんなに苦しいのではなかった。ただ、彼女が山田詠美をよく読んでいた理由が、なんとなくわかった気がして切なかった。

「風葬の教室」を読んで、恐ろしく思うのはどちらだろうか。
周りの子どもの心の機微に敏感で、大人に対しても冷静で操作的、軽蔑という方法で人を殺すことを選ぶ主人公の心持だろうか。
それとも、ある種の宗教がはびこる教室の、主人公をいじめてはしゃぐ、その他大勢の子どもたちだろうか。
いじめる側といじめられる側の相互作用的な悪循環を、鋭敏に皮肉に描いている。
異邦人に対する集団の圧力のぞっとするような描写は、小野不由美『魔性の子』と比肩する。

転校すると、前の学校の知り合いは手紙を書くと約束するが、それは滅多に来た試しはない。
「風葬の教室」の主人公は、引っ越すことで、これまでの知り合いの日常生活から取り外されることをよくわかっている。
主人公を日常生活に組み込み、主人公が日常生活に組み入れて支えられているのは、家族だけである。

家族との関わりを危機的状況で再確認する「風葬の教室」の主人公に対して、「蝶々の纏足」の主人公は、がっぷりと組み込みあった日常生活を切り分けようともがく。
「こぎつねこん」は、家族の中の日常生活の関係にすら、どこか非日常を感じとっている不安定さがにおうのではないか。
この三篇の小説は、生活に組み込まれた関係性が、共通の視点になる気がする。

私の大切な友人は、遠くに住む人だった。その人の日常生活から切り離されていると感じていた。
彼の友人が、彼と共に過ごす日常生活を語る様を聞かされることが、私には苦痛だった。
引越しを繰り返して末に、今の在所に住んでから時間が経ったけれども、訪ねて来てくれた人は数少ない。
彼はその数少ない一人であり、私にはとてもとても特別な人だった。
いつも友人に囲まれている人に、なかなか伝わらなかった、この仲間はずれの感覚を、山田詠美は見事に抽出していると感じた。
彼との間に繋ぐ糸が残らなかったことが、私はやはり悲しい。

2007.06.11

彩雲国物語(13):青嵐にゆれる月草

彩雲国物語―青嵐にゆれる月草 雪乃紗衣 2007 角川ビーンズ文庫

相変わらず、女の子達が元気です。秀麗が新しい職に就いて、物語も違う方向へと進みだした感じがします。宮廷陰謀モノの様相を呈してきました。

無茶や無謀の痛快さが減ったり、腹を抱えて笑う場面も少なくなりましたが、それぞれの成長が見えます。秀麗の出生と体質に関わる謎もあります。

大好きな人と一緒にいるために、気持ちに恋と名づけないで、どこまで頑張れるか。最終的に、ものすごーいハッピーエンドにしてもらえたらいいなあ。

はたして、劉輝は王様として周囲に認めてもらえるのか? まだまだ続きそうです。

2007.06.07

京都読書空間

京都読書空間 2005 光村推古書店

京都が好きで、本が好き。
今住む場所にもようやく馴染んで愛着を持つようになり、京都に戻りたいとは思わなくなったけれども、私にはいまだ思い出深い特別な場所である。
そして、私はこういうブログを作る程度には読書が好きだ。

この本では、図書館やブックカフェなど、本を片手にくつろげそうな場所が紹介される。
旅行者というより、京都で生活する人向けのガイドブックになるだろう。
京大近くの古本店が地図に沿って案内されていたり、永田萌や森毅らのコラムもある。
下鴨納涼古本まつりが紹介されている。森見登美彦のファンなら、にやりとするだろう。
『猫町』から名前を取ったカフェもあるようだ。

ああ、いいな。こういう場所で、自分だけの隠れ場所をいくつか、持っていられたらいいだろうな。
京都だからってどれだけ特別かは決められないとは思うけど、京都の景色や生活は本になる。町の暮しに、商品価値がある。
自分の身の回りに、こういう生活を見つけられればいいんだけど。

装丁もお洒落で綺麗。父親の誕生日祝いに。

そして僕は天使になった

そして僕は天使になった 池谷剛一 2002 パロル舎

『そして僕も天使になった』の姉妹編で、一足先に死んだ飼い犬が主人公である。
パステルだと思うが、柔らかで暖かみのある絵柄で、青みの強い画面が犬の無垢さを思わせる。

自由を満喫したあとは、ベンチで寂しく座り込んでいるのではなく、こんな風に天使になってもらいたいと祈る。
寂しさに捕らわれないで、かろやかに美しく、次の世界へ。どんな鎖も繋ぎとめることはできない。
先に行って待っていてほしい。思い出を温めて、待っていてほしい。

リサとガスパールを思い出す、犬さんの表情。スヌーピーと同じ犬種なのかな。
犬に限らず、飼っていた動物を見送ったことのある人には、切なくも安堵するような絵本だ。

そして僕も天使になった

そして僕も天使になった 池谷剛一 2002 パロル舎

昔、飼っていた猫がいた。最初の私の猫。名前をアーサーという。
肉球のスタンプを押した手紙が届き、この猫が迎えに来てくれるなら、死ぬのはそう怖くはないことないだろう。
今、飼っている猫たちがいる。彼女達が先に逝ったとしても、一杯やりながら昔話に花を咲かせることができるなら、死ぬのはそう寂しくはないだろう。
そう悪いことではない。きっと、あたりまえのようなこと。

絵本は、『そして僕は天使になった』の姉妹編で、前作で死んだ飼い犬の、飼い主が主人公である。
パステルだと思うが、柔らかで暖かみのあるセピアがかった絵柄が、嘆きをやわらげる。
死を受け入れる心の準備を、穏やかに手伝ってくれるような作品だった。

私は、『そして僕は天使になった』よりも、本作の方が好きかな。
青い星が見えるバーの窓の景色が、楽しみになる。
いつか一緒にどこまでもどこまでも歩く日まで、待っていてね。

2007.06.06

猫町 他十七編

猫町 他十七篇  萩原朔太郎 清岡卓行(編) 1995 岩波文庫

猫町。表題作に興味を持って、手に取った。
方向音痴な主人公が、繁華な美しい町に迷い込む。緊張するうちに、ふっと人間が猫の姿に見える。ぎょっとしたと思ったら、普段の町並みがそこにあった。省略してみると味気の無い短い小説だ。
あまり萩原の詩を読んだこともないし、他の収録作に興味もなかったが、編者の解説が3分の1ぐらいのボリュームがあり、結果として、これが初心者にとって非常によかった。

私の最初の猫町との出会いは、菅野覚明『神道の逆襲』である。この中で、筆者は「猫町」を神との直接の出会いの体験として読み解いている。菅野によれば、「猫町」の主人公は、道をなくした迷い子の、神隠し寸前の体験をした。「道を失い、再び道を取り戻すまでの時間が詳細に語られている」(p.41)。場所や人は同じだけれども違うという、日常世界の「景色の裏側」にあったカミが突如として「景色」として現れる、世界の反転が起きている。このような体験が、神道の教説の深い主題の一つをなすと、菅野は言う。

次に、私が猫町と出会ったのは、春日武彦『不幸になりたがる人たち』だった。「見慣れた筈のものを意表を突いた角度から眺め直すといった偶然を契機にして、内面がそのまま周囲の世界に映し出されたという体験」(p.28)に面白さがあり、統合失調症の発症の直前に「周囲がただならぬ状況を呈しはじめ、それこそ右に引用した猫町さながらの様相を帯びていったという話を聞くことは珍しくない」(p.28)と述べる。

同じ小説に対して、二つの異なる読み。それが、「猫町」に興味を持ったきっかけだった。

更に、清岡卓行は本書の解説で、景色の裏側である繁華で美しい町を、萩原が見ていた国民の生活や文化の近代性ないし近代化の夢であると措く。その近代の幻想が、全体主義と軍国主義によって編成された群集によって「無残に破壊されるかもしれないという絶望に近い思い」(p.150)を読み取る。

……深い。
私などの思いが及ばぬほど、深い。
小説そのものもさることながら、この多様な読みを読み比べることが面白かった。
多様な読みを可能にさせる作品の抽象度の高さが、アートとしての完成度であろう。
猫が出てくるが、ここでの猫は宮沢賢治の『注文の多い料理店』の山猫のような不気味さを持つものであり、猫好き向けであるとは言いがたい。かも?

その他十七編は、小説2篇、散文詩13篇と、随筆2篇から成る。
散文詩の中では、ショーペンハウアーを「猫町」の冒頭で引いた著者が「自殺の恐ろしさ」を書いているものが興味深い。
ショーペンハウアーは『自殺について』を読んだような気もするし、部屋にあるような気もするが、はるか記憶の彼方に埋もれている。
どうやら、死んだらどうなるか知ろうと思っても死んでみてからわかっても遅いからやめておきよし、というようなことを言っているらしい。
対して、萩原は、飛び降りた瞬間に後悔しても遅いことを考えると恐ろしいから自殺はせんどき、と語る。

随筆はかなり後年の作で、「老年と人生」がよい。
性欲に振り回されなくなった自由さをあげて、加齢を肯定的に書いているところがよかった。

 ***

要するに初め善きものは終が悪く、終善きものは初めが悪い。終始一貫して善い人生などというものは、西洋人の工夫した社会にもなう、東洋人の道徳する社会にもない。(p.115)

とにかく老年を楽しむために、まだまだ僕は修行が不足で、充分の心境に達していないことを自覚している。(pp.116-117)

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