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2007.05.30

他者の現象学3:哲学と精神医学の臨界

河本英夫・谷 徹・松尾 正(編) 2004 北斗出版

哲学と精神医学の双方から語られる他者論。

記憶力と理解力がついていかない現象に久しぶりに出くわしました。
漢字6文字以上の文字列は催眠効果があるようです。だからといって、カタカナになっても、キネステーゼって何?ヒュレーって??アモルフってーっ???(T_T)
……百回読んでも寝れそうです……orz

全部で18の論文が集められている。「哲学と精神医学の臨界」と副題にあるとおり、哲学者や精神科医ら、著者の立場も見解も様々である。
読み手の興味によって、面白い論文も変わるだろう。それらを総じて論じることは私の手に余るが、思弁的な立場からは他者を知りうるという前提が、臨床的な立場からは他者は知りえないという諦念が、強いのかな?というのが印象。

とりあえず、読んだという証拠作りのため、各論文ごとに一言コメントを書くことにする。それでもかなり長くなったので、末尾に折り返して置いた。興味のある方は、この記事の「続きを読む」をご覧下さい。

他者。
自分とはどうしようも断絶した他者、他者を他者たらしめる他者性を考えるとき、手がかりになるものが、死者や病者である。狂気や妖怪である。これらは、疎通しえない他者である。
この、互いに通じ合うことが適わず、関わり合うことが難しい他者に、私はどのように振る舞うのか。
臨床哲学という語を鷲田清一が提唱しているが、もともと、哲学は普遍的で不偏的で不変的なものを考えるものだ。
一般的な他者との対話と、しかし、臨床における他者との対話には、大きな違いがあるように思う。
後者を治療を目的にするものであり、その目的によって評価される性質を持つ。一方的な権力関係の上に成り立っており、個別的で限定的だ。その特殊性を、綺麗事で無視したり否定するわけにはいかない。
そのような特殊例を対話の全般や一般にどのように組み込むのか、検討は不十分のように感じた。論集であるために、これらを包含したフレームを検討することや、そのフレームの妥当性の検討は、読者にゆだねられている。

私が個々の論文を十分に理解したとは思わないので、コメントも的外れなものもあるかもしれない。
興味のあるところだけ、抜き読みするほうがよいかも。ある程度の基礎知識がないと、ちんぷんかんぷんです。通し読みを図ったのは、無謀でした。
この本は、私よりもほかに、もっと役立てることができる人がいることでしょう。

  木村 敏「他者性のクオリア」
他者には遠さと近さ、自己の個別主体性と集団主体性、アポロン的個別化とディオニュソス的合体から、他者はどのようにして紛れもない他者であると知るのかを語る。著者はフロイトの「死の欲動」を引きつつ、「個体の死はただちに無機物への還帰ではなく、集団的生命への再統合を意味する」(p.22)と述べ、レヴィナスの他者論を批判する。それって、ファシズムっぽくて嫌だな…と思った。一人称複数の主語は好きじゃないので、私の好みの問題かな。

  水野和久「他者の現象学的現在」
フッサールに基づいて、社会秩序にとっての他者を排除せざるをえないならば、システムに問題があると批判する。自己と他者の等根源性思想の欺瞞性の指摘や、近代社会の特徴である個人の自立と個人相互を結合する紐帯の普遍化の指摘は興味深い。
「人間相互の架橋が必要であるときは、情感内容がいかに異なっていても、架橋の努力がなされなければならない」(p.36)
「第一に関係自体の先行性は必ずしも関係項のそれぞれが同一根源に由来することを意味しないし、第二に関係それ自体は融和と亀裂の両方を含意している」(p.39)

  新田善弘「他者と死」
ハイデガーをひきつつ、「自己と他者の関わりに、あるいは『他者の経験』の問いの場面に、生死の問いがどう関わってくるのか」(p.56)を述べる。
死の絶対的退去性を思うとき、だからこそかえって、お互いに生きているのに別離する、そのわかれるという退去の積極性におののいた。死のように与えられるものではなく、片方にとっては与えられるものとして体験されながらも、別れを選ぶ主体はあくまでも主体として選んで退去しているのだから、その体験をしいられた私は傷つくのだ、と。そんなことを考えてみた。

  松尾 正「臨床情景の現象学」
「臨床が精神科医の体験の場である。哲学者のように思索の机上ではない」(p.73)という宣言は、両者の他者論、他者との対話の目的、他者の理解に対する必要性そのものの違いを示す気がする。
精神科医には二つの陥穿があるという。「精神科医は、目前の他人に関する自分自身の体験を語ろうとする」。これは、眼前の他者を語ることとも、他者を眼前にせずに自分自身を語ることとも異なる。落し穴のひとつめは、「精神科医自身の他人体験ではなく、他人の世界体験をそのまま純朴に記述してしまうことである。」ふたつめは、「他人の世界体験すらもどうでもよくなる」ことで、自分も他者もなく、病気だけをわかろうとする。ここでいう精神科医を臨床家と置き換えて読んでもよいだろう。
ただし、本来的な臨床家は、臨床的であるがゆえに、このような陥穿に陥っていない人を言う。

  松野敏行「臨床における『了解』という他者理解について」
ヤスパースの「了解」の概念は、精神科臨床によって多用されながらも、批判が多い。了解可能であるか否かが、病的であるか否かの判断基準として採用されたのは、ヤスパース以来の伝統である。「哲学的な厳密な視点からは、ほころびも垣間見られるような了解という概念だが、毎日患者と接している素朴な精神科医である筆者にとっては、やはり、了解概念はなお魅力的である」(p.94)とのこと。

  杉林 稔「精神科臨床における記述と他者」
個人的には非常に興味深い内容だった。防衛的になるあまり、自己変容的記述に陥らず、自分も臨床家の語りを心がけるべし。
専門家として、他の専門家に語りうるか。この体験は、その人の専門性を試すものである。
ウィトゲンシュタインを思い出すような、言葉になしえない、なりえない、関わりえない、出会い得ないものがあることを踏まえ、慎み深くあれ。

  佐伯祐一「妄想を語る他者:妄想の治療可能性に関する草稿」
「妄想は、精神医学の歴史と現在の私たちの臨床経験から、その発現の契機は複合的であり、単一の原因に限定することはできない」(p.119)
妄想という病者が語るテクストに対し、薬物療法の効果は認めつつも、治療者との対話という精神療法的関与が治療に寄与することを主張。著者が、精神療法的介入の余地があると前提に立つからこそ、治療可能性が生じるのかもしれない。

  加藤 敏「統合失調症における享楽とエクリチュール」
ラカンのいう「享楽」の概念を用いて、ヘルダーリンやニーチェに「享楽の意志」を読み取る。特に、『ツァラストゥストラ』を、統合失調症の発病の前駆期における誇大的な気分、力動不安定による産物とする。この診断には、結構、納得。

  梅末正裕「ある分裂病者の語りについて:『語られた言葉』と『語る主体』」
「現象学的精神病理学は分裂病者の言語表現能力に大きく依存してきた」(p.153)との書き出しの一文に、大きく頷く。そこで、筆者は現象学的に、病者の自己陳述を聴取する臨床家の体験に、視点をシフトさせる。そのシフトから生じる対話可能性、ひいては治療可能性に、臨床に携わる人の心意気を感じた。

  堀切 靖「『間のわるさ』と統合失調症」
「通常の対人接触の場合とは異なる何とも形容しがたい違和感」(p.184)という、言葉にしづらいけれども否定しえない体験を、「間のわるさ」という言葉で表現しようという試み。統合失調症という病気の体験の本質は一体、なんなのか。やっぱり、了解不能という、了解という語に戻ってみたりしたくなる。

  河村次郎「身体-自我の障害と他者経験の空間性」
精神分裂病(統合失調症)について、ヤスパース以来の了解的方法と、説明的方法を統合するために、ブランケンブルクの身体-自我障害の理論と、宮本忠雄の他者経験の空間性の理論をとりあげる。
また、「自分の内的体験についての自覚的表象」が障害されることから関係妄想や被害妄想、支離滅裂な会話が生じると指摘。
「生きられる身体性」の概念を用いて、認知神経心理学と現象学的身体論の相補性、行動-生態学的観点の導入を示唆している。
……実のところ、私には難しすぎました。はい。

  新宮一成「無意識の他者論」
「我々が真理を求めることがなければ、他者は出現してくる必然性がない」(p.217)と言い切られて、ほほーっと平伏。この最初の一文が印象的。
「自分の意図が『真理』であるかどうかは、本来、私自身が決めてよいことではないからだ。私は意図することや出来る。しかしその意図が『真理』であるということを、自ら決定する力は持たない」(p.222)。そうなのよ。そうなんですよ!だから、パレーシアに失敗した私は黙しているしかない。
「倫理を要求してくる同胞としての他者と、真理を支えるために我々を立ち聞きしている絶対的な真理の他者とを区別」(p.234)する手腕がスリリングで面白かった。

  大橋秀夫「『了解し難い恨み』について:能『道成寺』の怨霊分析試論」
こういう分析は読んでいて面白い。読み物として、かなり好きな部類に入る。
しかし、恨みとは、どのような感情であろうか。私の中で、「憎しみ」と「恨み」には、かなり明確なトーンの違いがある。わざわざ相手を害そうとするほどの悪意は、恨みというより憎しみになると思っていた。
恨みとは、相手にも伝わらぬことがわかっていて尚晴れぬ心のように思う。この身の不幸であることを思い知らせたいほどに、死んで幽霊になってみたものの、相手に気づいてもらえなかったよ、あれれ?みたいな。憾みの本領は、般若や蛇面ではなく、応挙の描く柳の下の白けて静かにたたずむ美人の図の印象である。
少し自分の定義も見直しが必要かもしれないが、「自分を愛するはず」の者が自分を捨てた「了解し難い体験」の反復が「了解し難い恨み」の苦しみとなること、情緒的にもしっくりした。

  日暮陽一「死から死へ」
文体というか、口調に圧倒された。面白かった。
「それは見られた死、思われた死であって、実際の死ではない」(p.271)とあるよう、死を思索するとき、それは残された側、これから死に行く側から見た死であって、死んでしまったものの体験したものでもなければ、死そのものでもありえない。この明晰さに脱帽しつつ、ちょっと皮肉屋さん?とも思ったりなんだり。ほかの誰でもない自分でなくてはならないという承認は他者からしからもたらされず、未来は他者からの承認を得ることでしか充実させえないことで、子どもを産むことにしか自己の存在理由を見出せない在り様に鋭い警句を与えている。

  谷 徹 「歓待と暴力」
鷲田清一を、メルロ=ポンティに遡りつつ、レヴィナスに立ち戻りつつ、批判を加える。「敵」と「客」は同一の語源を持つことから、共通の根から二つの反対概念へ、反転を起こすことを引き出す。これに対して、筆者はかつて見知っていたが今では忘却されたものだとして、もともと「見知らぬもの」、真の「他者」との出会いが不足していると指摘する。レヴィナスに対してデリダが反論を加えたが、この議論を踏まえて読むと面白いのではないか。レヴィナスに息詰まりを感じた理由が、なんとなくわかった気がした一文だった。
「他者は、大人にとってのみ、重大問題である。いや、大人になっても、癒合的社会性は完全には消滅しないのだから、他者問題は、じつは独我論者にとってのみ、問題になる。」(pp.284-285)

  永井 晋「妖怪の現象学 序説」
読んでいてほっとする。
民俗学ですくい損なったもの、民俗学が頓挫すると同時に学問ごとにうち捨てられた素材の、再検討を図る。
現代の知見からの読み直しが二重に図られるところが面白い。

  山口一郎「汝の現象学にむけて」
ブーバー、レヴィナス、フッサールを対比させ、我と汝の関係を整理する。自己と他者は、一人称であるが私一般と無名の三人称との関係であると同時に、対象を人間であるとは規定せず、我とそれとの関係も含む。しかし、私はあなたに出会うことによって人間となるのであるから、一人称の他の誰でもない私と二人称のあなたとの出会いを取り扱うことで、そのあなたの持つ「汝の汝性」、真の「他者の他者性」が解明しうる……のかな?

  河本秀夫「相即の変容」
勘弁してください。もう頭がついていきません。あうあうあう。
自明的で、知識によっては解明しようのようない経験領域は、失われることはないが変容することがある。自明性の喪失、相即の機能が変容してしまっているがゆえに、経験的自我が解体を免れており、いかに自己治癒の努力をしようとしてもかなわぬ。その絶望。

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コメント

はじめまして大絶画と申します。
復刊ドットコムに『他者の現象学』全3巻をリクエストしました。みなさんの投票次第で復刊される可能性があります。
投票ページへはURLからアクセス可能です。投票にご協力ください。
なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。

大絶画さん、はじめまして。
この本、絶版になっていたんですね。
本書に関わるコメントですので、そのままにさせてくださいませ。

といいますか、こんなグダグダな記事で申し訳ないです。

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