僕はかぐや姫
松村栄子 1993 福武書店(文庫)
本屋で、タイトルに惹かれては手に取り、ぱらぱらと読んでは痛々しく、買うのはためらわれたまま読みおおせず、今となっては入手が難しそうな一冊。
三浦しをん『秘密の花園』を読んで、こんな小説があったことを思い出した。同じく女子高を舞台にしている点で、読み比べても面白いと思う。
『僕はかぐや姫』の主人公は17歳。彼女を含む文芸部員たちの一人称は「僕」。
女性しかいない中で生活するということことは、男性を意識しないでいいということであり、翻って女性らしくせずともいられることだ。
自分が内面化してきた女性像を意識しないでよいということであり、その内面化された女性像と自らをリンクさせないよいということである。
「僕」と名乗り、旧制高校やギムナジウムの幻想を再現するかのような文学的な会話をたしなむ主人公達は、男子校の文芸部と交流したときに、女性であることに直面せざるを得ない。
彼女たちは、ナマの「男性」になりたかったわけではない。マッチョな、男性らしいオスになりたかったわけではない。
かつて、フェミニズムが「Men(人類)はmen(男性)であって、womenはMenではない」と伝統的な文化は男女差別していると指弾していた表現を援用するならば、ただ人になろうとしていただけである。
家父長制の価値観下では、良妻賢母のような伝統的な意味合いで女性らしい女性は人ではないのだから、女性らしくなることを保留していたのだ。
しかし、教育を受けて自我を発達させることそれ自体が、「おばかで従順でだから可愛らしい弱者」になることと二律背反を起こす。
成長して女性らしさを引き受けるためには、性化されずに保ってきた自分の傷つきを味わわなくてはならない。性化されるという、傷つきだ。対象化され、身体化される、「される」という体験。
それをふまえて更に、自分自身を立ち上げて行くことは可能なのだと思うけれども、性的に未分化な少年から女性になるときのためらいをよく描いた小説だった。
女性としてのアイデンティティ、セクシュアリティ、ジェンダーは、かくも息苦しいものであった。
この小説は80年代を反映しているが、この息苦しさを今も味わっている人もいるのではないか。
今になって、きちんと読んでみればよかった、読んでみたいと思う。
調べてみたら、2006年のセンター試験の問題に使われたそうだ。
興味のある人は、ここをどうぞ。比較的引用も長い。
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