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香桑の近況

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2007年5月

2007.05.31

匂いをかがれるかぐや姫:日本昔話Remix

匂いをかがれる かぐや姫 ~日本昔話 Remix~ 原倫太郎 2006 マガジンハウス

疎通性というのは、他者との相互理解というのは、一体、成り立ち得るのか。
会話というのは、案外、こんな勘違いだらけのチンプンカンプンなものかもしれない。
お互いに通じ合っていると思っているのは、幻想で。
とはいえ、なんとなく通じている部分もなきにしもあらず。言い換えれば、了解可能性というやつだ。

機械的に英語に自動翻訳したものを、機械的に日本語に自動翻訳しなおして編纂したもの。
文章を用いたコラージュで、二番煎じを許さぬインパクトである。
原游が、もとの昔話にはモノトーン、翻訳後の昔話にはカラフルなイラストを寄せており、視覚的にも楽しい。
収められているのは、次の3つだ。

  一寸法師 → A liitle, law mentor → 少量法律助言者
  かぐや姫 → As soon as it smelled, princess →
     匂いをかがれるとすぐに、プリンセス
  桃太郎 → Peach Taro → 桃タロイモ

もとの昔話を読んで、翻訳後の昔話を読んで見比べて、なんでここはこうなる??と英語を読んで、誤訳の過程を見つけることが面白かった。ほとほと機械に頼りきったらいかんねえ。
翻訳後の昔話のわけのわからなさが、いっそ、昔話を神話に昇格させているのではないか。
変容した文章は奇妙な破壊力があって、遠藤徹「くくしがるば」を彷彿とした。

楽しいんだけど、楽しいんだけどさ、いつも、「桃太郎」の絵本を見て不満に思うことが二点。
第一に、鬼は成敗されたという残酷さや身勝手さを伴う結末が、なんで謝ったら許される物語に換えられたんだろうってこと。
第二に、お供のキジの絵を、なんでわざわざコウライキジにして、日本の在来種のキジを画かないのかってこと。

2007.05.30

他者の現象学3:哲学と精神医学の臨界

河本英夫・谷 徹・松尾 正(編) 2004 北斗出版

哲学と精神医学の双方から語られる他者論。

記憶力と理解力がついていかない現象に久しぶりに出くわしました。
漢字6文字以上の文字列は催眠効果があるようです。だからといって、カタカナになっても、キネステーゼって何?ヒュレーって??アモルフってーっ???(T_T)
……百回読んでも寝れそうです……orz

全部で18の論文が集められている。「哲学と精神医学の臨界」と副題にあるとおり、哲学者や精神科医ら、著者の立場も見解も様々である。
読み手の興味によって、面白い論文も変わるだろう。それらを総じて論じることは私の手に余るが、思弁的な立場からは他者を知りうるという前提が、臨床的な立場からは他者は知りえないという諦念が、強いのかな?というのが印象。

とりあえず、読んだという証拠作りのため、各論文ごとに一言コメントを書くことにする。それでもかなり長くなったので、末尾に折り返して置いた。興味のある方は、この記事の「続きを読む」をご覧下さい。

他者。
自分とはどうしようも断絶した他者、他者を他者たらしめる他者性を考えるとき、手がかりになるものが、死者や病者である。狂気や妖怪である。これらは、疎通しえない他者である。
この、互いに通じ合うことが適わず、関わり合うことが難しい他者に、私はどのように振る舞うのか。
臨床哲学という語を鷲田清一が提唱しているが、もともと、哲学は普遍的で不偏的で不変的なものを考えるものだ。
一般的な他者との対話と、しかし、臨床における他者との対話には、大きな違いがあるように思う。
後者を治療を目的にするものであり、その目的によって評価される性質を持つ。一方的な権力関係の上に成り立っており、個別的で限定的だ。その特殊性を、綺麗事で無視したり否定するわけにはいかない。
そのような特殊例を対話の全般や一般にどのように組み込むのか、検討は不十分のように感じた。論集であるために、これらを包含したフレームを検討することや、そのフレームの妥当性の検討は、読者にゆだねられている。

私が個々の論文を十分に理解したとは思わないので、コメントも的外れなものもあるかもしれない。
興味のあるところだけ、抜き読みするほうがよいかも。ある程度の基礎知識がないと、ちんぷんかんぷんです。通し読みを図ったのは、無謀でした。
この本は、私よりもほかに、もっと役立てることができる人がいることでしょう。

続きを読む "他者の現象学3:哲学と精神医学の臨界" »

2007.05.28

くますけと一緒に

新井素子 1991 大陸書房

久しぶりに読んだ新井素子。
主語の主格を表す助詞(「は」とか「が」)の欠如が気になった。相変わらずの台詞の多さも手伝って、ト書きを読んでいるようだ。

主人公の成美は、くまのぬいぐるみのくますけを手放せない子どもである。
ライナス症候群などと呼ばれることもあるが、そういったぬいぐるみや、大切ななにかを移行対象に持つ人は、別段に珍しくはない。
この小説に描かれるほど、異常な取り扱いをしなくてはならないものであるとも、私は思わない。

子どもは、子どもなりに世界を理解する。
世界に因果関係を持たせて、理不尽なことも、不可解なことも、子どもなりに理解しようとしている。
突然の喪失体験が避けられないとき、子どもはそこに必然的な理由がないことを理解できない。
その場合、子どもなりに解釈した結果、自分の所為だ、と、結論付けることがあるそうだ。
たとえば、大地震で両親が死んだのは、前日に自分が悪い子だった所為だ、と。
間違った推論が、子どもに生きていては申し訳ない気持ちをもたらすのである。

そういった子どもなりの世界の理解の仕方が、よく描かれていることに驚いた。
主人公は主人公なりに、精一杯、理不尽な世界に適応しようと努力してきた。
喧嘩するばかりの両親。両親から無条件に愛されているという実感を持てず、むしろ疎まれていることを意識し、そんな両親を実は愛していないかもしれない自分自身に対する不安を抑圧している。
しかも、両親は突然に失われた。それが悲しくない。しかも、自分が望んだから、両親は死んだのではないか。

こんなひどい子ども。
反省は自責になり、自責は自罰に繋がる。そうであるとしか、主人公にとっては考えられない。
自分の思いつかないことがあることがわからないのが、子どもなのだから。
こう言えばこう思われるのではないか、ああ言えばああ言われるのではないか。
先回りして考えて考えて、考えるだけの能力があるからこそ、余計に感じるまま思うがままの自然な反応が失われる。
主人公は、適応が難しい子どもではない。
過剰に適応してしまうことが、問題なのだ。

大人だって、そんなに器用ではなく、抑制が効くわけでもなく、いつもいつも上手に適応できるわけではない。
子どもだったら、上手にできなくて当たり前。自然じゃないことをしたら、無理があることが自然なのだ。
子どもは無条件に愛される権利と、嫌いな人を嫌う権利を持っている。
大人の心の中の子どもを抱きとめるような、よい物語だった。

ちなみに、私は人形は苦手。ぬいぐるみも、あまり擬人化したものは苦手。ふわふわふかふかは好きで、動物のぬいぐるみの衝動買いもするけれども、寝室には置かない。
視線を感じて苦手なのだ。
生きている猫の視線は大丈夫なんだけど。
この苦手、ぬいぐるみや人形の秘密の力を想像していた頃の残滓かも?

動き回るぬいぐるみの話として、川原泉『笑う大天使』の中の「オペラ座の怪人」を懐かしく想起した。これは涙なしには読めなかった。
また、大塚英志『人身御供論』は、かえってこのような移行対象の持つプラスの意義を指し示す点で、あわせて紹介しておきたい。

2007.05.24

All I Need to Know I Learned from My Cat

大事なことはみーんな猫に教わった Suzy Becker 1990 Workman Pub Co

谷川俊太郎が日本語訳したものも出ているが、私が持っているのは原作の方だ。
ボストンだったか、N.Y.だったか忘れたが、本屋で一目惚れしてお持ち帰り。
英語が苦手な人でも、イラストを見れば、ふふーんと納得することばかり。
あるある、こんなこと!とねこと生活したことがある人なら頷くこと請け合い。
ねこが足元で8の字を画くたびに思い出す一冊だ。

人と付き合うときに同じことをされたらいらついたり、腹を立てるのに、ねこが相手だと受け入れるしかない。
逆に、自分が人にしてはいけないと気にしていることも、ねこ達は平然とやってのけてみせるのだ。
「他者」とつきあう。それって意外と難しくないかもよ?と、本当に必要で大事なことを教えてくれる。
以来、ねこ達とは、「主人-飼い猫」関係ではなく、「師匠-弟子」というか、「女王様たち-従僕/下女」というか。

将来を案じず、過去を引きずらず、ただ現在を一生懸命に生きる。
好きな人は好き。嫌いなものは食べない。幸せな時には喉を鳴らして、たっぷりと寝る。
ねこ達の自然体を見習いたいものだ。

ねこの喉音を聞いている時、平和や安全を痛感する。
愛しくて大事なうちのお嬢さんたちには、もっともっと長生きしてもらいたい。
がんばれよ。がんばるんだぞ。頼むよ、ねこ達。

ポーポキ、平和って、なに色?

ポーポキ、平和って、なに色?―Popoki,What Color is Peace? (ポーポキのピース・ブック)  ロニー・アレキサンダー 2007 エピック
Popolo's Peace Book1: Popoki, What Color is Peace?

可愛い表紙を見せられなくて、とても残念!(と思ったら、その後、アフィリのリンク用画像ができた)
平和教育のワークで使われていたものが絵本化された。日本語と英語の両方で書かれている。
平和について考えるなんて小難しいと感じる人にも、もしも猫が好きな人であれば、ぜひとも手にとってもらいたい。

著者の飼い猫だったポーポキと一緒に、「それって平和?」と一つずつ確かめていく絵本。
ポーポキが、どこか遠くの、誰か見知らぬ人の、はるか未来のことにまで、思いを馳せるお手伝いをしてくれる。
私だけが満足していて、私とあなたが愛し合っていても、それだけで十分なんだろうか? ほかの誰かが幸せでいられない時、果たして、あなたは平和で、幸せで、いられるんだろうか?

「平和とは~~である」と一言で定義することは難しいし、言い切ってしまったところから例外を排除する暴力が始まる。
だから、こんな風に、「これは平和?」「これが平和」を立ち止まって考える営みが、シンプルだけどとても大事な気がする。
道徳教育は、伝統的な価値観の伝達という方法もあるけれども、こんな風に倫理的に考えるそのやり方を身に付けるという方法もある。

平和というのも一つの価値観じゃないかと切り捨てようとする人には、それが言えるのも平和だからじゃないのか?と問い掛けてみたい。
善悪というのも、実は同じように定義が難しい概念だ。正義や愛、真理というのも、難しい。カントは直観的な理解と蓋然的な理解という言い方で、そういう定義しづらいものがあることを説明しようとしたし、ヘーゲルは先験的統覚なんて言葉を遣ったりした。フーコーは真理は権力者が決めるのだと分析した。
平和を切り口に考える倫理は、エコロジカルで、善悪よりももう少しイメージしやすくて、具体的で、血肉を持っており、正義よりは暴力的ではなくて、誰もがハッピーであることを願う、暖かで貴い、祈りのような響きがあると思う。

『大事なことはみーんな猫に教わった』という絵本もあったが、ねこは知っているけれど、人間は忘れたり見失うことが多いなあ。
愛らしいイラストや、言葉の端々から、ねことの生活が生き生きと感じられ、愛情が伝わってくる。
このねこさんは既に死んでしまったと聞くが、ねこはポーポキ1匹ではなく、平和も一人だけのものではない。

2007.05.20

四畳半神話大系

四畳半神話大系  森見登美彦 2005 太田出版

すんごい凝っている。
計算しながら構成しないと。勢いで書くのは難しそうだ。
バッハの遁走曲のような綿密さを持つ四つの平行した物語。
最初の3章のある種の冗長さがあるからこそ、4章の孤独感と新展開が印象的だった。

最初は二段に組まれている紙面に、おろろとよろけてしまい本を取り落とした。
が、読み始めると、『太陽の塔』から『夜は短し歩けよ乙女』『新釈 走れメロス』に通じる世界だ。
樋口&羽貫さんのコンビも出てくるが、幻の至宝「薔薇色で有意義なキャンパス」から遠のくばかりの二年間を送り、ふと我に帰った三回生である大学生が主人公である。
物語に飲み込まれるあまり、途中で「蕎麦色?」と見間違えたことを恥ずかしながら告白しておく。

主人公は現実から遁走しかねんばかりの、ぎりぎりの直前で四畳半で踏みとどまっている。四畳半は主人公にとって、仮屋(大塚英志『人身御供論』)である。
作者の文体の妙味が活きており、ばかばかしくも微笑ましく、涙ぐましく、健気でいじましく、しかも珍しいことに、主人公の恋は成就する。
そう。黒髪の乙女である明石さんとの赤い糸も、唾棄すべき友人である小津との運命の黒い糸も。

表紙のもちぐま、本物の画像は森見氏のブログで著者近影として見ることができる。
これは可愛い。ふぎゅうっと抱き潰したくなるような可愛さである。
しかし、可愛いのはもちぐまだけではない。
二十歳過ぎたむさ苦しい男を誰が抱きしめてやりたいと言われれば、私からしてみれば私がしてやりたいと挙手せんばかりに、主人公達だって十二分に可愛いのである。
私はジョニーにほだされやすい、このだらしなさをなんとかせねば。

ジュール・ヴェルヌ『海底二万哩』や『ロビンソン・クルーソー』、『宝島』、あるいは西田幾多郎『善の研究』、カフカ『変身』にハイデガー『存在と時間』、『半七捕物帳』など、本がいろいろ出てくる。特に、この中の『善の研究』の解釈は大好きだ。
かと思えば、三条のアイリッシュパブに木屋町の長浜ラーメン、いつもの進々堂に出町柳商店街など、見知った場所が出てくる。出てくる。
うわーうわーっと、物語に関係なく、固有名詞に声を上げたくなった。
かの大学の人たちは、吉田神社のみならず、下鴨神社の祭神にも奉納舞を捧げるのか……。

明日はちょっと京都に行ってくる。昼食はわびすけかイノダ本店か進々堂で食べて、今出川は相国寺で若冲展を見たり、三条やら錦市場をぶらぶらしたり。
明後日は高津古文化館に挨拶して、北野天満宮前を駆け抜け、疎水の対岸より京都市動物園のキツネに向かって一礼をし、インクラインの葉桜を眺め、鮪節のおだしに舌鼓を打ったりなんだりする予定。
あんまり関係する場所を歩き回る時間はないだろうが、疎水べりで一人でにまにま笑っているアヤシイ人がいたら、私かも。

200711142046000森見さんの既刊本を制覇してしまった。新しいの、出ないかなー。たぬきたぬき。

 ***

友人が送ってくれた、私のもちぐま♪ 名前は「もちみぃ」。

2007.05.16

きつねのはなし

森見登美彦 2006 新潮社

とりつかれることがある。
人の顔がケモノに見えることがある。
人からケモノのにおいが立ち上る。
滑稽なキツネの面をつけた人が立っている。

著者の3作目。出版順に読もうと思ったところ、2作目の『四畳半神話大系』が苦手な二段組だったので、こちらを先に読み終えた。
これを最初に読んでいたら、モリミーにはまっていたかどうかはわからない。
『太陽の塔』から見られる独特の古風な文体は見られず、むしろ淡々とした語り口。
『新釈 走れメロス』の中の「桜の森の満開の下」と通じる雰囲気を感じる。
圧倒的なインパクトには欠けると思ったが、これはこれで好ましい。

「きつねのはなし」「果実の中の龍」「魔」「水神」の4編は、ゆるやかに繋がっているが、独立した物語として読んでもよい。
不思議なことが不思議なままにある。静かで不気味な、ほの暗く、少し寂しい。悲しい。切ない。
ホラーという響きには不釣合いで、ひっそりと木陰にたたずむだけの白けた幽霊を見るような心地。

「きつねのはなし」で出てくるきつねは、同じ伏見稲荷に所縁があっても、万城目学『鹿男あをによし』のキツネとは、性格が違うらしい。
きつねは、きつねの思惑で動いているのであって、人の思惑では推し量ることができない。
しかし、この人とは違うきつねの世界が重なり合っている想定が、梨木香歩『家守綺譚』の舞台と重なり合う。

陰の主役は、きつねといってもよいし、龍としてもよいだろう。
「果実の中の龍」は、なんとも物悲しいと同時に、登場人物に病院受診を勧めたい気持ちに駆られた。疾患として治療の余地があったのではないか、このような結末を迎えずに済む可能性があったのではないか、と、興ざめながら考えてしまった。
「魔」と神は、意外に近い。菅野覚明『神道の逆襲』を想起する。人ではない何かの立ち表れるその瞬間がある。

「水神」の景色が好きだなあ。最後が切ない。
たどりつけなかったのだろうか。もとの居場所に。

いなくなった先輩、古書店/古道具店でのアルバイト、下鴨幽水荘の四畳半などなど、要素は他の作品と共通するが、こんなにも異なる作品に仕上がる。
構造分析をしてみたい気持ちなどは横に置き、怪異の空気に淡い夢を見るように読むがよい。

 ***

『夜は短し歩けよ乙女』が山本周五郎賞を受賞したそうで。引き続きモリミーに要注目。

やさしい竜の殺し方 6

やさしい竜の殺し方〈6〉 津守時生 2006 角川ビーンズ文庫

イラストが変わって、ビーンズ文庫になって、シリーズ再発行。それに伴って売り出された6巻。
友人から教えられて初めて知った、この続編。
私の中では終わっている物語だったので、前日談と後日談に興味がわかず、読みかけでながらくほったらかしにしていた。

うぅむ。

「たのしい竜の殺し方」
書かないはずじゃなかったのか?と怪訝に思った。
第5巻の後書き(私が持っているのはスニーカー文庫版)にあった幻の第三部ではないとのことだが、フェンリエッタにも誓約のドラゴンが登場する辺りは、つまんなかった。正直なところ。
美老人トリオのほうが存在感があって、かなり強力でした。素晴らしいです。長老様たち。笑いの発作をいただきました。
美老人って流行なんですかね。メシエからは、指輪の映画のみならず、茶鴛洵@『彩雲国物語』をも連想。

「かなしい竜の殺し方」
1000年前の炎烈王セファイドと聖女王ナディアの時代の物語。
まだ、世界が二つに分かれる前夜。腐女子のツボも狙うあれやこれや。
セファイドの幼い頃が可愛い。家につれて帰りたいぐらい可愛い。
一番最初の王様は、実は色んなものを押し隠していたということがわかる中編。

総じて、新しい登場人物のほうが面白かった気がする。以前からのキャラ達は、イメージが違うというか、違和感があって。イラストが違っている所為かな。
「迷彩筋肉羊と天然超絶美形の男祭り」の続きのほうが気になります。続きを書いて欲しいという意味ではなく、物語を進めて欲しいという意味で、待ちわびています。

2007.05.10

僕はかぐや姫

松村栄子 1993 福武書店(文庫)

本屋で、タイトルに惹かれては手に取り、ぱらぱらと読んでは痛々しく、買うのはためらわれたまま読みおおせず、今となっては入手が難しそうな一冊。
三浦しをん『秘密の花園』を読んで、こんな小説があったことを思い出した。同じく女子高を舞台にしている点で、読み比べても面白いと思う。
『僕はかぐや姫』の主人公は17歳。彼女を含む文芸部員たちの一人称は「僕」。

女性しかいない中で生活するということことは、男性を意識しないでいいということであり、翻って女性らしくせずともいられることだ。
自分が内面化してきた女性像を意識しないでよいということであり、その内面化された女性像と自らをリンクさせないよいということである。
「僕」と名乗り、旧制高校やギムナジウムの幻想を再現するかのような文学的な会話をたしなむ主人公達は、男子校の文芸部と交流したときに、女性であることに直面せざるを得ない。

彼女たちは、ナマの「男性」になりたかったわけではない。マッチョな、男性らしいオスになりたかったわけではない。
かつて、フェミニズムが「Men(人類)はmen(男性)であって、womenはMenではない」と伝統的な文化は男女差別していると指弾していた表現を援用するならば、ただ人になろうとしていただけである。
家父長制の価値観下では、良妻賢母のような伝統的な意味合いで女性らしい女性は人ではないのだから、女性らしくなることを保留していたのだ。

しかし、教育を受けて自我を発達させることそれ自体が、「おばかで従順でだから可愛らしい弱者」になることと二律背反を起こす。
成長して女性らしさを引き受けるためには、性化されずに保ってきた自分の傷つきを味わわなくてはならない。性化されるという、傷つきだ。対象化され、身体化される、「される」という体験。
それをふまえて更に、自分自身を立ち上げて行くことは可能なのだと思うけれども、性的に未分化な少年から女性になるときのためらいをよく描いた小説だった。
女性としてのアイデンティティ、セクシュアリティ、ジェンダーは、かくも息苦しいものであった。
この小説は80年代を反映しているが、この息苦しさを今も味わっている人もいるのではないか。

今になって、きちんと読んでみればよかった、読んでみたいと思う。
調べてみたら、2006年のセンター試験の問題に使われたそうだ。
興味のある人は、ここをどうぞ。比較的引用も長い。

2007.05.04

太陽の塔

太陽の塔 (新潮文庫)  森見登美彦 2007 新潮文庫

どうしよう。
登場人物を笑うと、己を嘲うことになる。
笑いながらも、変な汗やら汁やらが出そうになった。
断っておくが、私は一応、女であるので、断じて男汁ではない。

著者のデビュー作の文庫化。
太陽の塔と聞いて、『青春の門』のような由緒正しい文学的な香りを予想した。
表紙を見た途端、正体を見たり。
あ、太陽の塔! これか。こっちか。このことか。
肩透かしを食らいつつ、安堵して読み始めた。きっと硬すぎるってことはなかろう、と。

ここから、あの仮想京都&京大生の世界が発展していくのだ。
過剰な自意識と自尊心で防衛している、達成と承認と親和のいずれの欲求も満たしかねている男たち。心の肉球はぷにぷにと柔らかくて傷つきやすく、型にハマった幸せを満喫する人々を目の前にしてぷるぷると震える。
昔の文学青年風の彼らが可愛いし、親しみも憶える。太陽電池でゆらゆら揺れる招き猫なんて、私がもらったら大喜びだけどなあ。
『夜は短し歩けよ乙女』の黒髪の乙女の原型も発見。

四条河原町南東角は、学生時代の待ち合わせ場所の一つ。阪急百貨店前に立っていると、夕方、むくむくと見る間に待ち人の群れに飲み込まれ、小さな私は踏み潰されそうな恐怖に巻き込まれたものである。人ごみに埋もれて、待ち合わせた人たちに見つけてもらえないのではないという不安に襲われることが常だった。
梅田HEP5の赤い観覧車に乗ったのは、いつかの年末のこと。その中で撮った写真は、手帳の中に挟み続けてよれよれになった。
万博公園に遊びに行って、待ち合わせた相手を忘れて、時間を忘れて、民族学博物館から出てこなかったこともある。
ああ。
懐かしいやら、恥ずかしいやら。私の心の肉球をもぷにぷにと押されて、泣きたくなった。

これで著者の本を読むのは3冊目であるが、これが著者の素に一番近い感じがする。行動の面ではともかく心理の面で、体験をそのまま書いたのではないか? いいのか? 大丈夫なのか? 心配になるほど、するすると自然に流れるような物語。
ファンタジー大賞受賞とのことだが、ファンタジーらしくないというか、分類しがたいというか、無理にファンタジー呼ばわりしないでもいいというか。
だってさ、失恋したって辛かったって、とてもアクチュアルな物語なんだもの。
とても自然に読むことができる本だった。

 ***

去年の初秋、万博公園に行った。
出張で関西に行ったのだ。当初は複数泊するつもりだったが、恋人と会う予定がなくなり、1泊2日に短縮した。険しい時間の中だったが、民族学博物館のポスターを見て、やっぱり行こうと思って行った。
モノレールが駅に近づくにつれ、太陽の塔の偉容を見んと、わくわくしながら車窓から眺めた。期待にたがわず、そこに静かに立っていた。
駅のロッカーに荷物を押し込み、傘も差さずに歩き出した。
朝一番、しっとりと空気が濡れていた。雨が降るというほどの強さではなく、ちょうど湿度がいっぱいいっぱいになっているような、肌寒い曇りの朝。
テナントも開けたばかり。ゲートを潜り抜け、人気のない公園に踏み入った。客足はまったくない。
芝生の上にどっしりと立つ、太陽の塔を一瞥して敬意を表す。その日の目的は、公園の一番奥だったから、塔に挨拶せずに通り過ぎることはできないが、立ち止まって時間をつぶすのも惜しまれた。
ヒールにはそぐわない早足でずんずん歩く。耳に聞こえるのは、木々が風に揺れる音、葉に降り注ぐ雨の音。シジュウカラやヒヨドリの声が重なる。
深い、深い森に踏み入るような静けさ。その木の中に立ち入って、一緒に立ち枯れてしまいたくなるほど、私はすっかり疲弊していた。
民族博物館の中も無人で、貸し切り状態だった。ここは何度来ても時間を忘れる。すべてを歩き回りたくなる。本来ならば、一日をここで費やす自信がある。前科がある。特別展も見たいが、常設展を削る気はない。もちろん、ミュージアム・ショップも。
ほんの少し、心が湧き立つ。目の前のことに集中すれば、考えたくないことを考えずにすむ。私が彼と出会う前の自分を思い出すこともできる。
四角い建物を組み合わせて作られた民族学博物館には、いくつかの中庭がある。その一つに韓国の民家が再現されており、中庭に出て建物に触れることができるようになっていた。そこの縁側にも座ってみる。誰もいない。コンクリートに囲まれた狭い空間。箱庭。空を横切る鳥の声。
再び歩き始めると、電灯をつけ忘れたらしい薄暗い一画を見つけた。壁際のソファに座り込む。祈る人のいない神像の上に積もった埃をじっと見ていた。あがめる人々の間から取り上げられ、生活や祭祀をふるい落として、神秘を失った微笑のまま、壁につなぎとめられた神像たち。祈りから切り離されたとき、神はいかにして神としてあることができるのだろう。
長い時間、そこにいた気がした。私も忘れ去られた神のように、世界から切り離されて、消えてしまいたかった。それしか、私が彼のためにできることは残されていない。彼とのすれ違いに疲れ果てた私はとげとげしく振る舞い、それに彼をつき合わせ続けるのは、もう気の毒だった。
出張から帰ってすぐ、彼と別れた。

200609160947000

今夜、夢の中で、叡山電車に乗って、あの日の万博公園に遊びに行こう。 

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