私が語りはじめた彼は
寝盗った者と寝盗られた者。その間に、寝盗られた者を裏切った者がいる。
裏切り者と寝盗った者は、物語のはるか遠景で二人だけの幸せに浸り、ほとんど不在である。
この本は、裏切られた者たちが、紡ぐ連作だ。彼らに振り回された者たちの嘆きの物語だ。
もう、途中で呪われている気分になったですよ。
『風が強く吹いている』で知った作者の本、他のも読んでみよううかと本屋で手を伸ばした。
最初のページの、漢の呂后(呂太后)を想起させるエピソードがショッキングだった。
エグい話も、グロい話も苦手だ。しかし、ここからどうなるのかが気になって気になって、棚に戻せなくなった。
予想外にも、そのエピソードの激しさを押し殺して、物語は表面ばかりは静かに、派手な出来事の一つもなく進む。
登場人物たちの悲嘆が、怨嗟が、懊悩が、苦悶が、憐憫が、諦念が、呪詛のように、ぐぐーっと圧迫感を持ってのしかかってくる息苦しさ。
淡々としている日常は、薄氷の下に素顔を隠している。
夫を寝盗られた妻と、恋人に裏切られて教授に見捨てられた若手研究者。妻を寝盗られた夫。父親に捨てられた息子。母親に閉じ込められて追い詰められた娘。父親に捨てられた娘と、恋人に遊ばれて捨てられて忘れ去られた男。
美しく狂え。人生を狂わされたのだ。
そして、裏切り者は、もはや何の承認も交渉もなしえない彼方に去り、振り回された者たちは、自尊心の傷つきを抱えたまま取り残される。
裏切り者に、ほんの少しの後悔や、せめてもの不幸があれば、こんなにも傷つかなかったことだろう。裏切り者は、容赦がない。
最後に、かすかな希望を感じたのだ。
思っても思っても想っても思っても、思い知らせることのできぬ思いは無駄であっても。
時間がすべてを洗い流していく。慰撫されることのなかった喪失も、喪失の主体と客体の双方を、時間は過去にと追いやることができる。
裏返せば、この喪失だけが残されたもの、誰にも奪えぬ私だけのもの、私の一部になったあなた、死ぬまで抱く愛のようなもの。
性愛でも恋愛でもなく、そんな愛のような他者への記憶を抱きながらも、私はほかの誰かと違う関わりを目指すことができる。
私を価値のないものにしたあなたの振る舞いを忘れることはなくとも、私もあなたにおいていた価値をないものとすることはできる。
もう、いい。
もう、どうでもいい。
そう思えるときも来るから。
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