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香桑の近況

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2007年4月

2007.04.30

同窓会

藍川 京 2004 幻冬社アウトロー文庫

受けつがれる夏合宿の儀式。上級生が下級生を上半身裸にし水を含んだ毛筆で背中に万葉集や古今集の恋の歌を書き、それを当てさせるのだ。くすぐったさと怪しい快感に身悶えする千里は三年生の沙千子にすべてを捧げた。……(裏表紙)

この部活の伝統が官能的である。青柳のようにしなやかで、艶かしくも甘やかに、イメージを掻き立てる。
女子校を舞台にしたものとして、ピックアップしてみた。女子校のリアルというより、女子校というファンタジーを利用した小説だ。

もっとも高校時代が描かれるのはプロローグだけ。本文はSM中心。
「愛があればどんなプレイも快感だ」。なるほど。

本文で面白いのは、千里、沙千子、佳菜恵ら女性3人の同性愛を描く物語の中での男性の役割だ。
男性の役割には二つある。
沙千子を巻き込むトラブルの相手である沼田&宇田川は、時代劇の廻船問屋&悪代官のごとく、憎々しくてみっともない悪役である。もちろん、成敗される。
もう一人の内海は、もともとは千里の愛人として出てくるが、いかにもつけたしなのである。男性読者を配慮しての登場人物なのであろうが、レズものエロビデオで最後に必ず出てくる男優ぐらいに人格面の色付けもなければ活躍もない、生きているバイブのようなもんである。

潔いまでの男女の扱いの差。
勧善懲悪の図式に、善に女性、悪に男性を代入した、女性だけが美味しい官能小説。
女性の、女性による、女性のためのエロ。表紙のイラストも清楚で美しい。
園華女子高書道部の設定、シリーズ化しないかなあ、なんて、ひそかに願っている。

2007.04.29

秘密の花園

秘密の花園 (新潮文庫)  三浦しをん 2007 新潮文庫

初めての性行為と、初めての性的な暴力と、どちらが忘れがたいものなのか。
あるいは、初めて好きになった人と。

私は、男性作家が女性を主人公にして書いた小説をあまり好まない。主人公の一人称であるなら、尚更である。
私は男性が女性の性を無邪気に語るとき、違和感を、嫌悪感すら抱くことがある。
その性的な眼差しに。男性による女性の性への、男性との性行為による快感という幻想に、吐気がする。
この小説を書いた人が男性なら、私は感嘆してうめき、敬服して涙したかもしれぬ。

三浦しをんが女性であることに安心しつつ、それでもなお、心の襞の合間にしまいこんでは紛らわせ、奥底から立ち上っては形にならぬ、繊細で敏感で曖昧なものを質感たっぷりに描く筆にうなった。

性的な嫌がらせや暴力は、本人の意思とは無関係に、強制的に、一方的に、人を性的な対象にする。
主体性を剥奪された体験は、その後の性的な生活のすべてに影を落とす。
ぬぐいきれない嫌悪感を、私は知っている。私の体験は書かない。いつどこで、どのような状況で何をされたか、忘れもしないことがある。その直後の友人との会話まで克明に憶えている。
学生の頃の通学電車の中で会う痴漢とか、職場の上司からのセクハラであるとか、知り合いとの望まぬ性行為であるとか、程度の差があったとしても。
女は性的な要求にさらされて当然であると笑う男は、去勢されても当然だと思う怒りを心の奥底に私は持つ。
「洪水のあとに」に、実際にやっちゃまずいとしても、心情の上では私は快哉を送る。それぐらい、腹立たしくも傷つく行為であると思い知れ。

だが、それが望んで体験した性行為であったとしても、たやすく捨て去られたときの絶望も、致命的な熱さを持つ。
会えないなんて、死ぬのと同じだ。捨て去られることは、殺されることに等しいと、何故、わからないのか。
すべてを投げ出す思いで差し出したものを、受け止める覚悟もなしに性欲の処理をした人よ。後で捨てるぐらいなら、何故、抱いたのか。
愛しい愛しい男に、最早、熱が伝わらぬ。声が届かぬ。求められないならば、息ができない。息することを望まない。この激しさを知れ。
悲痛な叫びが誰にも聞かれることなく、「地下を照らす光」に焼き尽くされる様の残酷さは、作者も手抜かりがない。

ジェンダーを引き受けることは、かくも難しい。いくつもの傷つきを経ながら、女であることも引き受けながら大人になるものだが、そこにどうにも馴染めなかったり、取り残された感じを持つこともあるだろう。
殉死するほどの恋の熱を感じることができない。我を賭して飛び込むこともできない。心に何か欠けているのではないかと不全感に捕われる。
図書館の中、校舎の屋上、通学路をはずれた雑木林に避難をしながら、想像上の友達
に庇護されながら、かすかな希望を祈らずにいられない。
レヴィナスの言う、それが許されないときに初めて希望となるような、災厄の箱から最後に残されたものを、「廃園の花守りは唄う」。
全面的に、無条件に、私を許して欲しい、認めて欲しい、愛して欲しいと。ジェンダーの問題は、存在の問題にシフトする。

那由多も、淑子も、翠も、他人ではない。
誰が自分に近いかといえば、誰もどこか自分に似ている。強いて言えば、どうしても周りと合わせられず、なおかつ、尊い出会いを胸に抱く翠か。
かつて通り過ぎた、女子校という場、思春期という季節を、懐かしく思い出す一冊となった。

ところどころに引かれる短歌もよかった。中島敦がここにも出てきて、再読したい気持ちが増した。

櫻の園

吉田秋生 JETS COMICS

そこは、満開の桜を冠にいただく、夫を持たない王女たちの国。
好きで好きでたまらなくて、ままならなくて、切なくて。
恋や性の最初の体験を自らの肉に刻みつつ、我が身が女であることを思い知らされる頃。恋が思うだけのものから、生身に切迫するようになる頃。
女らしいことを要求される私。女らしくあれない私。

私に触れずに過ぎた男たちが優しかったと思いを馳せるなど、ものの見方に随分と驚かされた。
どれだけ優しいか。同じ作者の『吉祥天女』と併せて読めば、痛々しいほど感じることができるだろう。

時世の違いができてしまったが、世俗から切り離されたかのような女子校の、どこか浮世離れしたことを許される空気を味わうと、作品の古びることない魅力を感じる。
手持ちは文庫化される以前のものであるが、読み返しては手放せず、今に至る。
10代が遠くなっても、胸に深く響くものがある。

女子校を舞台とする作品の中でも傑作であり、女性の高校生のころを描いた傑作でもある。

 ***

三浦しをん『秘密の花園』に、穂村弘が寄せた解説で、これを紹介していた。すこぶる懐かしい。

2007.04.23

鹿男あをによし

鹿男あをによし 万城目学 2007 幻冬舎

十二支十干は60で一巡りする。節目の年には作法がある。
1800年前に始まり、300年前、作法が守られなかったときには災難があった。
神様たちには人知を超えた思惑があり、人知れず祭祀は連綿と続けられてきた。
『鴨川ホルモー』に続く二冊目は、ばかげているようにさえ見える、けれども続け保つに相応の伝統を扱っている点で前作と通底している。
ぐいぐい読ませる面白さ。何重にも仕掛けられた物語。前作以上のスケールがあり、読みやすい上に読み応えがある。物語も文章も危なげなくて、安心して読むことができる。作者のスキルアップも感じた。

面白かったぞー。この人の作風、好き。
今度の舞台は奈良、しかも女子校。若い男性にとって、教師のキャリアが女子校から始まるというのは、なかなかシビアなことだと思う。
剣道の試合の様子は、経験のないものにとっては、具体的に情景を思い浮かべることはできなかったけれども、迫力があった。
そういうリアルな世界と地続きなところで展開される、日常生活のどこかでひっそりと息づくファンタジー。
物語の時期は秋だが、亥年の今年に読んでもらいたい本だ。今年、起きるかもしれない物語だ。

遠足で行った飛鳥の景色が懐かしい。奈良も何度も行った土地である。
のどかな風景がいとしい。古きよきもの、保つべきものを思い起こさせる。
文字情報に収斂されえないものがある。情緒も現象も言葉に回収することが難しい。物自体にいたってはデジタル化して保存することはできない。
自然そのものも、人の思いや仕来り、歴史や伝統というもの、一瞬の現象も、残すべきかどうかの価値判断は別に置き、残すことが難しいものがある。

特別に格好いい人物とか、美しいだけの人物とかは出てこない。それぞれが、魅力的なところと、そうでもないところを兼ね備えた、普通の人たち。
主人公も異常な事態に巻き込まれ、普通に戸惑い、怒り、困り果て、情けなくなり、反省もする。
人間ではないものたちも含めて、作者は、時にユーモラスに、愛着を持って描いているように感じる。
この憎めない感じが好きだ。人物達の健康さに、ほっとする。ここが一番、読んでいて安心するポイントだと思う。

そして、古今、呪い(のろい/まじない)の解除といえば、これよねー。
これしかないといえばない。うむうむ。
時空を超えた愛と、初々しい恋の予感と、ラブの要素も見逃せない。
乙女心強化中の方にもお勧めである。

薬師寺や興福寺、当麻寺、唐招提寺など、奈良にはお寺がいっぱいで、この物語に出てこなかった名所も多い。いつかまた行きたいなあ……。
薬師如来の眷属は十二神将で、彼らは十二支それぞれの守り神とされる。
今年はちなみに丁亥の年。亥年は宮毘羅大将だ。
これ以上、嫌なことや怖いことの少ないよう、よろしくお願いしたいものです。

 ***

京都在住の読書友達ができた。なんと、著者のサインをもらってきてくれた。私の実名入りである。著者のサインも嬉しいが、なによりその友人の気持ちが嬉しく、記念の一冊となった。その後、連絡が途絶えてしまったが、今も作者のサインの入った本は記念である。

 ***

TBのかわりに……

苗坊さんのブログ 『苗坊の読書日記』 鹿男あをによし 万城目学
オススメ!「さあ、神無月だ――出番だよ、先生」

2007.04.18

くくしがるば

くくしがるば 遠藤徹 2007 角川書店

面妖な本を買ってもうた。
タイトルも意味不明ならば、広告の紹介文も了解不能。そのわけのわからなさに興味を惹かれて購入。ちなみに、その紹介文とは下記のようなもの。
「今は昔。ちょうど三日前のことだった。有馬温泉駅前旅館皇女が寝耳に洪水でご懐妊なさったのは。」
はずれそうな予感が半分、怖いもの見たさの期待が半分。好奇心でくるみこんで、えいっと密林書店で購入ボタンをクリック。
モリミーみたいな感じだったらいいな、と、待つこと数日。

読み始めてしばし、首をかしげた。
有馬温泉とくるからには、関西圏の人が書いているのだろうか。
内容は、どことなく関東の人っぽいなあ、なんて思ったのだ。
巻末で著者紹介を見る。……今度は、同志社かいっ。
あとで調べなおすと、同大の教員であるが、東大・早大院を出た人だそうで。
この人の講義ってどんなことになるのだろう? どんなことを専門とする人なのだろう?と調べたくなるような不思議な一冊だったのだ。

スピーディに、ひたすらスピーディに、勢いに乗って読む。
立ち止まっちゃいかん。考えちゃいかん。
だってさ、ツッコミはじめるときりがないよ? しばきたおしてしまいそうだよ?
関西出身の友人からも、そうじゃない友人からも、「きちんとつっこめ」と叱られていた私でもつっこめるぐらい、ツッコミどころ満載なんだもん。
なんで?とか、どうして??とか、疑問は丸投げして、ひたすら音を追うようにして読んだ。

その音が面白い。リズミカルな文体は、似たような言葉を3つ重ねる癖がある。
意味や音が近い言葉を重ねることを自分がよくするので、親近感をもって気になった。
その長い文章のそこここに、どこかで見たことがあるようなフレーズがてんこもり。あるいは、どこかで見たことがあるようなものが変形したフレーズも。その上、見慣れぬ熟語や専門用語、慣用句やら、難易強弱入り混じる。
そのフレーズがよく知っている歌詞や、CMだったりすると、頭の中で自然にメロディをつけて読んでしまう。そのたびに、そこはかとない敗北感が湧く。

音読したら、すんごいことになりそうだ。
全編が言葉遊び……というか、作者の方には失礼だが、丸ごとオヤジギャグというほうがノリが伝わると思う。
隠さないエロさがあるわけですよ。萌えを狙っているわけではなく、自分はエロいぞと開き直って曝け出しているような、結果としてセクシーでエロティックな雰囲気は持たずに、下世話さや下品さが残るという。しかして、純愛スペクタル。
物語にしても表現にしても組み合わせにしても、どこをどうとってもカオティック。

いつものように感想を書こうとして、途方に暮れた。
この本の説明も感想も難しい。思春期以前の万能感、空想的で性愛的で魔術的な世界で遊んだような感じとしか言いづらい。
困ったら御地蔵様に祈ってみましょう。なむなむ。

本書には「おがみむし」という短編も収められている。「くくしがるば」とは無関係だ。
こちらのほうが更に神話的で、余計なものがなく、どうとでも読める思わせぶりな感じがいい。
メレディス・アン・ピアス『ダーク・エンジェル』を思い出す。
心臓/心を盗まれる。それが恋だと。

表紙がRテストの図版に見えてしまうところからして、困惑するばかりの本でした。いやはや。

2007.04.16

(雑誌)迷走恋の裏路地

森見登美彦 2007 野性時代 Vol.41

この号は「森見登美彦の歩き方」という特集が組まれていた。
森見さん自身による作品の解説とか、作品世界で迷子にならないための用語集とか、究極の黒髪の乙女との対談とか。
その特集の一つが、この『夜は短し歩けよ乙女』の外伝。

疎水の辺りや校舎の中、古本屋さんに祇園など、京都の景色を横切るぶっとい赤い糸。
そんな写真にあしらわれた短編は、先輩が彼女と偶然の出会いを重ねるために、陰でいっぱい努力して苦労したという、微笑ましくも涙ぐましい奮闘の記録となっている。
かの図書館警察も登場するぞ。キーワードは桃色。

新境地(「ペンギン・ハイウェイ」)の展開も楽しみであるけれども、この仮想京都の世界ももっと読みたいなあ。
作者の頭の中には、活字になっていないネタが、まだまだあるに違いないっ。
たぬきの話も本になるといいなあ。

(雑誌)ペンギン・ハイウェイ

森見登美彦 2007 野性時代 Vol.41

主人公は小学生の男の子。京大生じゃありません。
頭がよいと自負している、ちょっとおませな感じの大人びて変わり者。
本人も大人だと思っている、だけど大人から見たらまだまだ子どもであるに違いない、そんな男の子。

舞台は郊外に開発中の新興住宅。ケヤキ並木があり、歯科医院があり、分譲予定地があって、「海辺のカフェ」があり、荒れ地と森がある。
とりあえず、洛西ニュータウンの景色をイメージする。小塩山(西山)の、サシバの渡りを見たポイントを想起。高槻のほうでもいいな。

子ども同士のつきあいはシビアな面も持っている。
そんないつもの日々に突如と現れたのは、ペンギンの群れ。

初恋の香りが漂う中、物語の導入という感じで、謎がそのまま取り残されている。
不思議に満ちた子ども時代らしい冒険の幕開けとなるか。
お姉さんは一体、何者なのか。
続きがあるんだよね? 続くんだよね? 今後に期待。

2007.04.14

腐女子彼女。

腐女子彼女。 ぺんたぶ 2006 エンターブレイン

ネタがわかるほど笑えるが泣ける、という……。

ブログの書籍化。テンポのよい文章で、うまいな、と思った。
面白いこともあり、さくっと読める。
懐かしいネタもあった。こんな会話を元彼としたことがあるぞ?みたいな。

年上で美人で腐女子な彼女に振り回される、受けセバス系な彼。
途中から、著者のレベルアップを感じます。いろんな意味で。
鍛えられたんだね。うんうん。

ひとつひとつの著者の反応が初々しい。
そんなところが受け決定の由縁かも。
彼女の腐女子っぷりより、著者の泣きと惚気を楽しんだ。
ちゃんと愛情もレベルアップしている感じもよい。
温かい目で見守りつつ、今後の御幸せを祈りたいものです。

ところで、いつから、腐女子という言葉が発生したのだろう。
気づいたら、日常の用語になっている。
オタクと腐女子のメルクマールってなんだ?
津守時生はどっかのあとがきで「貴腐人」なる称号を書いていた。
私もたいがいオクサレ様な文化に親和性がある。
年代モノであるので、腐女子と名乗るのも……。うぅむ。
ちょっぴりアイデンティティの見直しを迫られました。(^^;

そっかー。セバス攻めは古からの取り決めだったのか。
私は受けに一票。

2007.04.12

新釈 走れメロス 他四編

新釈 走れメロス 他四篇 森見登美彦 2007 祥伝社

あ、またパンツ。
色合いも字体もレトロな装丁の表紙の中央に輝くピンクのブリーフ。
ページを開いてみても、字間や行間、文字そのものもどことなく古風で、堅苦しくも真面目な本なのかと思いきや、ピンクのブリーフ。
中島敦『山月記』、芥川龍之介『藪の中』、太宰治『走れメロス』、坂口安吾『桜の森の満開の下』、森鴎外『百物語』を、京都を舞台に森見流にリライトしたもので、表紙にはそれぞれの小説の題の上にイラストが描かれている。
パンツは、著者が書いていて一番楽しかったという『走れメロス』のアイコンだ。
パンツ番長に続き、パンツが好きだなあ…。

『夜は短し歩けよ乙女』を読んで楽しんだ人にお勧めする。
短編はすべて同じ仮想京都を舞台とするからだ。だるまが転がり、天狗が酔っ払い、きつねや狸が神様がいる、あの京都。
詭弁論部があり、パンツ番長戦があり、図書館警察があり、単位取得と桃色遊戯にあまり熟達していない男たちが力いっぱい阿呆をやりぬく、あの大学の、あの文化祭を思い出そう。
短編集であるため物足りない感じもする。が、短編ごとにがらりと雰囲気を変えて見せた上で、登場人物が次の章のどこかに出てくるようなオムニバスになっている。
中島や芥川らの設定や文体というより、雰囲気をもっともよく再現して、再構築しているように思った。

確かに、『走れメロス』は面白かった。
もう。ばかばかしいんだけど、いい。どこかねじれた論理に言いくるめられて飲み込まれて、突っ走れ。
桂駅が出てきただけで私の興奮は最高潮。いやいや、河原町から烏丸への四条の地下道を疾走する箇所も懐かしい。嵐山の辺りは、何度も行った場所だけに思いいれもひとしお。目に蘇る景色の一つ一つがいとおしい。
この脱ぎっぷりには、某小説の影響で、レナウン娘が聞こえてきそうになった。メロディが美しき青きドナウであっても、どことなくやけっぱちな感じが漂うのもよい。
笑うしかない。

最初の『山月記』も、好きだなあ。もとの小説も秀逸なんだけれども、この『山月記』も印象深い。ばかばかしいところが、物悲しく憐れである。
この後、飛び去った彼はどうなったんだろう。樋口さんに弟子入りできたら、祗園に飲みに行くこともできるようになるのかなあ。

『藪の中』『百物語』は共に、原作の書き方を再現しており、どちらかといえば淡々とした短編。
私は、テンションの高いほうが好き。短編の雰囲気に合わせて、自分のテンションも下がった感じ。
前者は、やはり悲しみが透ける。一つの出来事の中でも、人によって見方や捉え方、語り方が変わる。そこから染み出る人となり。人は見たいように見る、見たいものしか見ないという、人のありようの悲しみ。
後者は、宴会の空騒ぎ。そこに体はあるけれども心が一体になれぬ人の孤独感が妙。この孤独感は、しかし、この本の全体に共通して登場人物の誰かが感じているものでもある。

『桜の森の満開の下』は。
南禅寺から銀閣寺までの哲学の道から蹴上インクラインの桜並木。
そこに花見に連れて行ってもらった、自分の思い出があるために、私の切なさも最高潮になった。
かつて、そこに一緒にいた。私の人生の持ち時間の中でも、ほんの一瞬であるかもしれないが。
写真も振り返る気にならない、彼と歩いた景色が思い出されて、ほろ苦かった。息が苦しくて、胸が痛くて、久しぶりに過呼吸になりかかったほどである。
ゆえに、語るのは避けよう。私はあの満開の桜の下に、何を埋めてきたのか。
私の記憶が正しければ、その景色の中に、作中に何度も登場する、かの鉄筋コンクリートのアパートがあった気がする?

この小説の中で、京都の四季が出てくる。折々のお祭りも出てくる。
葵祭りが出てくれば、京都青竜会がアルバイトをしているんじゃないかと思い。
祇園祭の宵山では、四つの大学から、四色の揃いの浴衣を着た学生が顔見世をしているように感じ。
鴨川デルタと見るだけで、「ホルモー!」と叫び声が聞こえてくる心地。
あっちこっちで、万城目学『鴨川ホルモー』の登場人物とニアミスしそうな地名と行事。
私の頭の中では、二人の作者の世界が渾然一体となってしまったようです。

もう少し積読本を消化したら、森見さんのほかの本も集めてみよう、と。

 ***

蛇足であるが。「藪の中」の注で「多用な読み」とあったが、「多様な読み」の間違いではないか、気になった。

 ***

TBのかわりに……

水無月・Rさんのブログ 『蒼のほとりで書に溺れ。』 『【新釈】走れメロス 他四篇』/森見登美彦 ◎
森見登美彦さんが、京都を舞台に日本近代文学を翻案?!そこに描かれるのは「腐れ大学生」なのか。「魑魅魍魎」なのか?!

パイド・パイパー:自由への越境

パイド・パイパー - 自由への越境 Nevil Shute 池 央耿(訳) 2002 創元推理文庫

パイド・パイパー。ハメルンの笛吹きのように、主人公の元に子どもが次々に集まってくる。本人が望むと望まざるとに関わらず。
主人公は70歳のイギリス人男性。既に引退した人間だと、自覚しているような人物である。ピーター・オトゥールの風貌と発音を思い出しながら、読んだ。
いかにもイギリス人らしい主人公は、こんな風に年を取れたらよいかもしれないと、理想を投げかける「大人」の人物である。
彼の忍耐強さには感服する。本当にすごい。とってもすごい。

この本は第二次世界大戦の真っ最中に書かれた。
だからだろうか。
私は空爆にあうロンドンの雰囲気や、牧歌的な農村風景と戦々恐々と逃避する人々との対比や、そんなところに戦争の臨場感を覚えた。

戦争中なのにロンドンからフランスの山村に釣りに行ことする心境や、それが可能となる状況が不思議だった。
ドイツの侵攻、主人公はフランスから帰国を図ろうとする。イギリスへ、自由のある場所へ。主人公に託される子ども達。
フランスとドイツとイギリスでどのように戦争が進んでいったのか。その辺りは、桜井哲夫『占領下パリの思想家たち:収容所と亡命の時代』を読んだ今なら、もう少し舞台背景を想像できる気がする。

キャラクターは魅力的で、物語は結末まで飽きさせない。
戦争という非日常の状況で、主人公は日常の自分らしさを失わない。
もしも、少し穏やかな気持ちになりたかったり、ほっとするような慰めをほしかったり、勇気を忘れそうになったら、この本が役立つかもしれない。
こんな世情だからこそ、作者のメッセージはいまだ色褪せない。若い世代の方にも読んでほしい。

パイド・パイパーと聞いて、真っ先に思い出したのはLed ZeppelinのStairway To Heavenの歌詞。
  And it's whispered that soon if we all call the tune
  Then the piper will lead us to reason.

(2005.1.26)

シンデレラ・ティース

シンデレラ・ティース 坂木 司 2006 光文社

『ホテルジューシー』と双子の物語。
歯医者嫌いの大学生が、歯医者でアルバイトをすることになった、ひと夏。
ただし、アルバイト先は、昔ながらの歯医者ではない。都心にあり、サービスを重視した、進化形のデンタルクリニック、だ。
実際に、この小説にあるような歯科医のイメージの方向転換はある。子どもの頃の記憶から、歯医者嫌い、もしくは、歯医者恐怖症になっている人は、主人公と一緒に自分の歯のケアを見直すことができるだろう。

かく言う私自身が、歯医者行かなきゃ歯医者行かなきゃ…orz……と、言い続けて数ヶ月ってところなんですが。

デンタルクリニックに来る患者さんは、症状もそれぞれ、背景も様々。
主人公のサキにとって、「なんかおかしい」と思ったケースの、事情を探る謎解きの形を取る。
前半は、歯科技工士の四谷の慧眼が冴えて、謎解きの要素が強い。この四谷、手フェチにはたまらない魅力を持つキャラ。
後半は、徐々に恋愛の要素が濃度を増してくる。
王子様。この単語に敏感に反応するのは、『図書館戦争』を思い出すから。
ついでに、濃いぃ美人の歯科衛生士の歌子さんは、鯨飲する美人の羽貫さん@『夜は短し歩けよ乙女』『四畳半神話大系』を彷彿とした。

ベタ甘とまではいかないかもしれないけれど、結構、この本も甘めな感じ。
安心して読める、ハッピーで爽やかな本。にまにましながら読んだ。
ものすごく豪華な猫まんまが垂涎です。

2007.04.08

私が語りはじめた彼は

私が語りはじめた彼は 三浦しをん 2004 新潮社

寝盗った者と寝盗られた者。その間に、寝盗られた者を裏切った者がいる。
裏切り者と寝盗った者は、物語のはるか遠景で二人だけの幸せに浸り、ほとんど不在である。
この本は、裏切られた者たちが、紡ぐ連作だ。彼らに振り回された者たちの嘆きの物語だ。

もう、途中で呪われている気分になったですよ。
『風が強く吹いている』で知った作者の本、他のも読んでみよううかと本屋で手を伸ばした。
最初のページの、漢の呂后(呂太后)を想起させるエピソードがショッキングだった。
エグい話も、グロい話も苦手だ。しかし、ここからどうなるのかが気になって気になって、棚に戻せなくなった。

予想外にも、そのエピソードの激しさを押し殺して、物語は表面ばかりは静かに、派手な出来事の一つもなく進む。
登場人物たちの悲嘆が、怨嗟が、懊悩が、苦悶が、憐憫が、諦念が、呪詛のように、ぐぐーっと圧迫感を持ってのしかかってくる息苦しさ。
淡々としている日常は、薄氷の下に素顔を隠している。

夫を寝盗られた妻と、恋人に裏切られて教授に見捨てられた若手研究者。妻を寝盗られた夫。父親に捨てられた息子。母親に閉じ込められて追い詰められた娘。父親に捨てられた娘と、恋人に遊ばれて捨てられて忘れ去られた男。
美しく狂え。人生を狂わされたのだ。
そして、裏切り者は、もはや何の承認も交渉もなしえない彼方に去り、振り回された者たちは、自尊心の傷つきを抱えたまま取り残される。
裏切り者に、ほんの少しの後悔や、せめてもの不幸があれば、こんなにも傷つかなかったことだろう。裏切り者は、容赦がない。

最後に、かすかな希望を感じたのだ。
思っても思っても想っても思っても、思い知らせることのできぬ思いは無駄であっても。
時間がすべてを洗い流していく。慰撫されることのなかった喪失も、喪失の主体と客体の双方を、時間は過去にと追いやることができる。
裏返せば、この喪失だけが残されたもの、誰にも奪えぬ私だけのもの、私の一部になったあなた、死ぬまで抱く愛のようなもの。
性愛でも恋愛でもなく、そんな愛のような他者への記憶を抱きながらも、私はほかの誰かと違う関わりを目指すことができる。
私を価値のないものにしたあなたの振る舞いを忘れることはなくとも、私もあなたにおいていた価値をないものとすることはできる。

もう、いい。
もう、どうでもいい。
そう思えるときも来るから。

2007.04.01

切れない糸

切れない糸 坂木 司 2005 東京創元社

多分、ミステリ。
商店街のクリーニング屋の跡を継がざるを得なくなった主人公の最初の一年。
起こる事件は、生じる謎は、殺人などの犯罪ではなく、日常の出来事。
主人公である新井が困ると、友人である沢田が魔法の言葉を教えてくれる。

舞台は、地名は出ないけれども、東京。おそらく蒲田のあたり。
商店街はプロフェッショナル集団と位置づける評価が新鮮だった。
砂糖とミルクが最初から入っている甘いコーヒーを出す京都の喫茶店といえば、イノダに決まっている。
いくつかの映画の名場面や名台詞も、小道具として魅力的だ。
クリーニングのマメ知識もいっぱいだった。

来る者は拒まず、去る者は追わず。そんな言い草、私は好きじゃない。
見て見ぬふりができないだけ。優しいわけじゃないと言い切る冒頭の主人公。
だけど、途中から、放っておけないのは自分なんだと、このまま見過ごすのが嫌なんだと、主人公は周囲に関わり始める。
私は、去る者は追わず、というのは、寂しくて悲しくて苛立たしい。聞いていて、すごく情けない気持ちになる。物理的には離れていても心のどこかや記憶のどこかで繋がってる在り様と、撥ね付けて切り捨てて追い出して忘れ去ってしまうことは、違うよね?
来る者は拒まずと嘯いて、自分の主体性を覆い隠して、被害感を振りかざして他責的になるような、そんな人には、私はなりたくないな。

そばにいなくても大丈夫。
連絡だって、たまにでいい。
私が困ったとき、弱り果てたときに連絡を取りたくなる、昔からの友人を思い出しながら、読んだ。
ふらふらと頼りなく漂っていた私の糸を、しっかりと握ってくれた。傍観者だった子どもを見つけてくれた人。
この人だけは私を裏切らない、いつだって味方なんだと悟ったきっかけは忘れたが、今もその信頼が私を支えている。
だから、安心して、ますますふらふらしているのかも。

喪失体験を超えて、繋がれていく糸。
居場所をくれる人。しっかりと地面につなぎとめてくれる存在。
離れていても、繋がっている。
確かな拠り所、いつか、いつでも、還ることのできる場所。
絶対の信頼と安心。
その関係の構築のドラマが、心地よかった。
ミステリというより、学生という浮遊した立場から、社会や世間に軟着陸していく成長の物語。

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