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2007.03.04

レヴィナス入門

レヴィナス入門  熊野純彦 1999 ちくま新書

希望は、それが許されないときにはじめて希望となる。希望の瞬間において取りかえしのつかないものとは、希望の現在それ自体である。(p.75)

 ***

目次を見て、くらりとめまいがした。吐気とまではいかないが、揃いすぎている文字列に息詰まりを感じた。
「さしあたって」「とりあえず」といった表現は、厳密性を企図したときに増える。正確に表現しようとして、その目標が充分に達成し得ないことを予想して、断定を留保する言葉を多用する。
「~はずである」「~でなければならない」といった表現がそこに加わると、文章全体が息苦しくなる。ささやかな疑問もいかなる反論も許す余地を与えないような堅苦しさを感じた。
強迫的で肩がこる。哲学らしい、学生時代に馴染んだ極めて哲学らしい文章だった。

既視感。
この人の文章、レヴィナスを論じたかつての友人の文章と特徴が似ている。
語の選択、表現、文の構成。論の展開、全体の形式。レヴィナスを語る人の、共通の言語なのだろうか。

「私」である吐気。存在することへの疲労。これはある日の自分を思い出させる。
とっくに突き詰めて考えることを放棄した問題点と、懐かしくも哲学らしい文章で再会した感がある。
とはいえ、サルトルとの対比、ハイデガーとの対比を通じて語られるレヴィナスは、ホロコーストの時代を生きたヨーロッパのユダヤ人としての経験を無視することはできない。
p.161にあるような「子を、わけても息子をもつことにより、<私>は時間の断絶を超越し、死に勝利する」という発想は、イリガライの批判するような男性性からのものというよりも、ユダヤ的なものとして当然、納得されうるようなものである。
その経験の悲壮には、今よりも誇大な自己愛や万能感に支配されていた時代の自分でしか、太刀打ちできると過信できないものである(あくまでも過信であると自覚する)。

フーコー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナスと入門を読んできたが(原著は私の手に余る)、彼らはフランスで戦後、ハイデガーを超克しなければならなかった。
サルトルが不安と神経症の世界であるなら、レヴィナスは不眠と心身症の世界。自己違和的になった身体の登場。ハイデガーの「手」からレヴィナスの「口」への移行は、自傷行為や摂食障害への理解を深める一助になる。
翻訳らしい風合いの残るレヴィナスの表現は詩的で目を惹く。端的であるために、部分を引いても意味が伝わりにくい。アフォリズムのように、いかようにも利用可能で、かえって引用しにくい。
哲学が好む、語の定義をめぐるヨーロッパ言語圏の言葉遊びには、興を感じなくなったんだよなあ。

私が他者を構成するのではない。他者が私を構成する。乳児からの発達を考えれば当然のように思う。「私が他者を構成する」というのは、成人の発想だ。
私と他者との間の決定的な断絶。「充たされない渇き、どのような対象によっても充足されない欠如、あるいはむしろ不在」、「充足されることでかえって渇くような渇き、それゆえにけっして満足がありえないような渇き、いつまでも・つねに欠如でありつづけ、だからひたすら追いもとめるしかないような疼き」(p.116)は、私にとっては、他者への渇望である。
だからこそ、埋めようもない差異を超えようとして、愛撫し、抱擁し、接吻する。他者が私を受肉する。それは同時に、私と他者との断絶の再確認である。私が私でしかないことの再確認である。
徹底した拒絶と断絶。したがって、性行為が私に残すのは、最早、渇望ではなく、焦燥ですらなく、絶望である。
絶望は私が性的な対象から降板されることによって完成される。逃れる先である未来は奪われた。彼に対する魅力を失うという点で、私は私の老いを、ひたよる死を先取りさせられる。私は消費され、他者に殺され、ものとなる。

いささか連想を自分に引き寄せすぎたが、「私は他者が死ぬことについて有罪である」(p.200)感覚を、突き詰めすぎているとは私は感じない。survivor's guilt(生存者の罪悪感)と呼ばれる心理を、より鋭敏に感じとることを想定すればよい。
他者との関係に、なべて倫理を読み込むため、このいっさいの受動性よりも受動的な、無限の受動性を据えることは卓越だと思った。
「なぜ殺してはいけないか?」という素朴な問いに答える可能性を、世界の一切の不条理と、原罪と言い表されるものとを説明する、仮借のない回答だった。

私が欲していたのは、応答ではない。
私は呼びかけを欲した。
私は呼びかける他者であるところの彼に対して有罪になりたかった。
繋ぎとめられ、私は彼という他者によって構成されたかった。殴打ではなく、愛撫で。
なぜかならば。そこに埋めようがなく、超えようがない、断絶があったからこそ。
あなたは果たして私に、顔と顔とで対峙したのだろうか。

この本で呈示されているレヴィナスは、私にとって親和的であるがゆえに、だから、どうなん?と、立ち止まってしまった。これを読んでいた人は、一体、何を感じとっていたのだろう。
次は、ユダヤの人という繋がりで、マルティン・ブーバーを振り返るのもよい。『我と汝』をどこかに所有していたと思うが……。
それとも、皮膚の所有に関連して、ドウォーキンを再読するのも魅力的だな、と、一冊を読むたびに読みたい本が増えていく。
それにしても、哲学者だけには限らないが、入門書や解説書を必要としないような、わかりやすーい描き方を、なんで最初からしてくれないんだろう……。

 ***

ソクラテスは、死は「夢のない眠り」であり、無上の幸せではないかと語ったそうだ。だとすると、不眠の夜は、死ぬことすら許されない苦痛の時間ではなかろうか。死にたいほどに苦しいにもかかわらず、死を奪われた。アウシュビッツを思い起こす。それほどの苦しみの前では、私程度のものに語る言葉はない。

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