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香桑の近況

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2007年3月

2007.03.29

占領下パリの思想家たち:収容所と亡命の時代

占領下パリの思想家たち―収容所と亡命の時代 桜井哲夫 2007 平凡社新書

フランスの現代思想に興味を持つ人はもちろんのこと、社会における知識人の役割を考える人、戦争や政治について語る人に、一読を勧めたい。
そのとき、何ができるのか。どう振る舞うべきか。
いや、そもそも、そのときを惹き起こしてはならないと深く戒めるために。

やっと読み終わったー。長かった。厚かった。中身が詰っていた。
古い時代の雑学っぽい文化史や生活史は好きだが戦争史は嫌いな上、気ままな自分の興味のあるところしか教えない歴史の先生にばかり教わってきた所為か、私の近代史から現代史の知識は薄い。
怒涛の歴史には圧倒される。数々の地名と人名に、右往左往しながら、ともかくも最後まで読んでみようと思った。
ここで登場する主な知識人には、サルトル、デリダ、コクトー、ボーヴォワール、レヴィ=ストロース、サン=テグジュペリ、アーレント、デュラス、カミュ、メルロ=ポンティ、ベンヤミンなどなど。

フランスの現代思想と言われるものは小難しそうなイメージが先行して、学生時代は手を出さないように自制し、なるべく避けて回っていた。
それが、内田樹『ためらいの倫理学』をきっかけに、サルトルの『嘔吐』を読んだ後、中山元『フーコー入門』、永井均『ウィトゲンシュタイン入門』、熊野純彦『レヴィナス入門』と重ねたところに、この本を紹介された。
個々の哲学者の背景にあったものが、この本を読むことで、時系列がすっきりと整理され、生々しく肉付けされたように思う。
『茶色の朝』の日々、戦争の世紀の、その只中で生きていたということ。

フーコーは、戦後のフランスは、ハイデガーを乗り越えなくてはならないという使命を帯びていたわけ。
レヴィナスは、ユダヤ人であり、不条理な世界の、無用に過酷な苦しみに対し、私は無垢でありうるのかと問い続けたわけ。
情報量が多すぎて、なんとも感想が難しい。
が、とりあえず、サルトルはやっぱり変な人と思った。あんまり友達になりたくないタイプだなあ。
著者は後書きで中井久夫(『関与と観察』@積読中)を引きつつ、人類がいまだ戦争という宿痾から逃れていないことを指摘し、ベンヤミンから引きつつ、「『物』を媒介にして、相手の嘘に対しても報復行為を行わず、時間をかけて話し合いを続け、相互理解の道をさぐるという、平凡だがきわめて難しい道を歩むほかは、今後われわれが生き残る道はない」(p.299)と述べる。
歴史は、その平凡で当たり前のことを記銘・想起し続けるためにこそ、忘却してはならないと思った。

ちくま新書がお気に入りの最近、次に読む思想関係は、さしあたって船木亨『メルロ=ポンティ入門』、小田亮『レヴィ=ストロース入門』の予定。いよいよ、デリダ、ラカン、バタイユを避けきれなくなりつつある気がする。新書ぐらいで手頃な本があるといいんだけどな。

最後に孫引きになるが、メルロ=ポンティの文章を引いておこうと思う。三崎亜記の『となり町戦争』の主題は、まさにこのことであると思った。これは、日本という土地にいる人においても、また他の国の何かの戦争の時代を生きた人にとっても、共通することではなかろうか。今現在、どこかに戦争がある限り、誰も無関係ではありえない。

 ***

 われわれは、無実ではないし、自分たちが置かれていた状況の中では、非難されないですまされる行為というものはなかったというのは本当である。この地に留まることでわれわれはなんらかの程度、すべて共犯者となったのだ。(中略)武器あるいは宣伝活動で戦争を続けるためにフランスを去った人々も、自分の手が汚れていないと誇ることはできない。というのも、彼らがあらゆる直接的な妥協を免れていたとしても、一時的にこの土地から離脱していたからで、その意味では、われわれと同じく、彼らにも占領による荒廃への責任があることになるからだ。(p.278)

ためらいの倫理学:戦争・性・物語

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 内田 樹 2003 角川書店

この本が、哲学の本を再び読んでみたい欲求を引き起こした。
親密にしていた人に勧められて読んだ一冊であり、その人との諍いを深めた一冊だ。

最初のいくつかの短編の読みやすさ、軽妙な語り口と話題への親しさで、つい引き込まれた。
気軽に読めそうなエッセイ集かと思いきや、硬質な論文まで幅広く集められているところで、途中から裏切られた感もある。
論文は用語の面でわかりにくさを覚える人もいるかもしれないが、その硬質な文章が面白かったのだ。
特にカミュについて。頭のよい人はこういう風に読み解くのか、と感動した。「太陽がまぶしかったから」という台詞の意味を、ようやく悟ることができた気分だ。

穏健や寛容、中庸なものを意識して好む人と、それらに反感を持つ人の双方に勧めたい。
個人のうちでさえ情緒や思考は一枚岩ではなく、むしろ一つの信念や信条に貫かれて揺らがぬ人のほうがファナティックな危うさを持つ。世界はもともとあまりにも多様。個に優先する普遍があると仮定しても個が普遍や絶対に言及した時点で相対性を帯びる。
その複雑さを複雑なままにしておくこと、自分自身の中の矛盾さや中途半端さを許すことは、言い換えれば、よい対象が実は悪い対象でもあるという抑うつに耐えることでもある。

しかし、自分の中の空白、自己の抵抗が示す抑圧するものを、間断なく見据え続ける作業は、結構、きつい。
この作業は私の仕事にとっては当たり前に必要とされることであり、やりなれた作業でもある。が、プライベートでまで貫徹したいとは思わない。
私にこの作業を要求した人は、しかし、彼自身において実践していたのだろうか。彼が他者の複雑を許容してくれているとは、私には感じられなかったことを残念に思う。
彼との話し合いはすれ違い、お互いの断絶を確かめるばかりだった。彼はお互いに交わることのない断絶があるといい、だからこそ私はそこに橋を架けたいと願ってやまず。その彼の振りかざす、内田やレヴィナスを確かめたくて、本を読んだ。

レヴィナスという名前を意識したのも、本書の中だった。
この本をきっかけにして、積読の山の中からサルトルの『嘔吐』を引き出し、その山にカミュの『異邦人』を置いた。後者は昔読んだが、既に記憶の彼方だ。
ついで、レヴィナスそのものをもう少し知りたいと思った。彼の唱える解釈は妥当なものであろうか。彼をもっと知りたくて、寄り添いたくて、彼に通じる言葉で話したくて、伝えたくて。
実際に読んだのは、さしあたって、熊野純彦『レヴィナス入門』である。仕事の片手間に読むには、オリジナルは敷居が高かった。
倫理について、政治について、死について、愛について、最早、読んだこと、感じたこと、考えたことを話し合う相手はいない。

あの時、いささか、私もむきになった。そのことは反省材料である。
自分を全否定されたら、むきになる。そのことは自己弁護の言い訳である。
本当のところはといえば、レヴィナスなんかどうでもよくて、彼が他の女性と親密にしていた、この本のことでも、彼にとってはやっぱり私は後回しだったという、それが腹が立っただけなんだよねー。結局、わからなかっただろうなあ。
私もちっちゃいことだが、その後、いまだに内田さんの本は読む気になれない。ベストセラーも出ているが、彼と彼女のことを思い出して嫌になるので、どうにも手に取る気になれない。それがなければ、ほかの著書にも手を出していたことだろう。

コミュニケーションの修行の困難さに途方にくれながら、私はそれでもほとんど不可能な夢を見ていた。
夢を見て、見続けて、まだ見ているのかもしれない。
(2006.4.25)

2007.03.26

となり町戦争

となり町戦争 三崎亜記 2006 集英社文庫

戦争は、日常の延長線上にある。
世界に境界線はないのに、誰がイノセントでありうるだろうか。
無邪気でいることはできたとしても、その手は無垢でも、ましてや無実ではない。
私はそんな綺麗事は言わない。私は私の手の汚れを認識していたいと思う。

私の生活は、どこかで誰かの戦争に寄与しており、依拠している。
環境問題に置き換えたほうがわかりやすいだろうか。
私がここでこうして、PCを立ち上げ、ネットにつなぎ、文章を書く。ここで費やすエネルギーが、地球の温暖化に繋がっているのだ。
私が生存していることが、環境を壊す。このことに思いを馳せるとき、私は息を止めたくなり、同時に、喉をかきむしりたくなる。

地方公務員による戦闘行為といえば、有川浩『図書館戦争』と共通するのに、となり町との戦争は、主人公にとって、非日常的で非現実的で、いつのまにか、どこか遠くで起きているかのように見えない。
いたって周囲は普通に日常の生活を営んでいる。戦争の報道は何もない。主人公も戸惑うが、戦争は主人公の妄想というオチになるんじゃないかと心配になるぐらい、戦争の影が見えない。
ここで想起するのは、1939年9月から40年4月までのドイツに対するフランスの「奇妙な戦争」の状態である(桜井哲夫『占領下パリの思想家たち』)。
そして、日々のニュースで、ネットで見てきた、イラン・イラク戦争であり、カンボジアやコソボ、アゼルバイジャンや東ティモール、アフガニスタン、そしてまたイラクの、挙げきれないほどの場所、数えきれないほどの人々の映像。
その遠さ。物理的な距離ではない。心理的な距離を保ちうる。私の身は安全であるかのように錯覚できるほどの遠さ。

作者が福岡生まれと書いてあったので、都市高速から見える空港の景色には福岡空港、対岸の島に砂嘴が繋がる湾は博多湾を、古い倉庫街のある港には門司港の景色を連想した。
海辺のホテルには、ロッシのデザインしたホテルを。その一室を。一夜ばかり肌を重ねた人を思い出しながら、読んだ。
明日があるとは限らないのに。次があるとは、誰が言えるのだろう。
静かな男女の繋がりの描写が美しいと思った。
隣にいるのに、肌を触れ合わせてもいるのに、わかりあうことがない。まるで、レヴィナスが描く愛撫のようだと思った(熊野純彦『レヴィナス入門』)。

隣国で起きることが隣町で起きていたとしたら、日常の延長線上に戦争があることを想像することが、できるだろうか。そういう想像力を要求する本なのだと思った。
主人公の無自覚さを際立たせるように、本編は砂を噛むような行政の論理以外に説明が少なく、リアリティを感じられないというリアリティに溢れている。
文庫版だけの書き下ろしというサイドストーリーでは、企業の論理が、個人の感傷を駆逐する。この別章では、本章の狙いがよりわかりやすく呈示されている。

静かで息苦しい。目をそむけることを許さない。
けれども、この目に見えないのだ。
戦争の実存性。戦争による喪失。目を閉じて、感じる。
振り向かずにいることは、果たして幸せなのだろうか。

 ***

 夜が明けて、み使たちはロトを促して言った、「立って、ここにいるあなたの妻とふたりの娘とを連れ出しなさい。そうしなければ、あなたもこの町の不義のために滅ぼされるでしょう」。彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。(中略)
 主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。
(創世記第19章 口語訳聖書)

2007.03.25

(雑誌)ホルモー六景:ローマ風の休日

万城目 学 2007 野性時代 Vol.41

雑誌は買わないことにしていたのに。
有川さんだ~モリミーの特集だ~~あららー?と、見つけたのは凡ちゃんこと、楠木ふみのイラスト。
『鴨川ホルモー』は非常に楽しく読んだ本で、その続きがあるとしたら、もちろん読む。
そして、買って帰って、真っ先に読んだ。

初デートと、初恋と。
ローマの休日風に、自転車で走り回る舞台は、やっぱり京都。
あの物語のサイドストーリー。

近々『鹿男あをによし』という新刊が幻冬舎から出るそうで、そのインタビューも併せて載っている。
そこで作者が言っていることだけど、美人じゃないヒロインが綺麗になっていく、そこが腕の見せ所。
ふみちゃんも、そういうヒロイン。モテを意識していない女の子の可愛らしさを描いてくれるところが、私は読んでいて嬉しい。
ふみちゃん好きには、かっこいいふみちゃんの図が、尚更嬉しい。

次の号も買っちゃいそー…orz

 ***

単行本『ホルモー六景』の感想

(雑誌)ホテルジューシー 6

坂木 司 2007 野性時代 vol.41

責任感が強いしっかり者で世話焼き役の長女として育った主人公。
沖縄にバイトするためにやってきて始まる物語。
『Sweet Blue Age』という短編集の中で読んだものの続きが、雑誌で連載されていた。

その最終回に行き当たった。
いろいろな出来事があったらしい。嬉しいことも、苦々しいことも。
大学の夏休みも終わりに近づき、主人公が沖縄から帰らなくてはいけない日が近づいている。

シリアスにもなりそうな空気を不意に破ったのは、某長編少女漫画。
何年もの間、ずーっと完結してない、というか、続きが出ていない。
ここでこれが来るとは、思わなかった。ぶはっと吹き出した。

卒のない文章を書く人だなあ、というのが第一印象だったが、意外に愉快かも?と、この作者に興味が湧いた。
積読本に『切れない糸』『シンデレラ・ティース』追加。

『ホテルジューシー』は夏頃に刊行予定とのこと。
じれったい恋愛のどきどきや、一生懸命な女の子が好きな人に、おすすめかもしれない。頑張っていることが空回りするとき、肩の力を抜くために。
へんてこアロハに長髪のオーナー代行は、ラ○フカードCMの某氏のヴィジュアルが思い浮かんでならなかった……。

2007.03.24

駆け込み、セーフ?

駆け込み、セーフ? 酒井順子 2007 講談社

数独と草むしりには、日常の些事を忘れるという効用があるという。確かに、夜毎の数独は、私には些事を忘れるために必要だ。うっかり夜更かししてしまうのが難点だ。
立ち読みした文章の、指摘の鋭さに笑い、買ってみた。
私にとって、読書も、日常の些事を忘れる方法である。

1つのエッセイが5ページぐらい。最後の1ページの結論部は、うんうんと頷けることが多いのだが、そこに至るまでの感覚や思考の過程がそぐわなくて、あまり楽しくなかった。
結論はいいのだけれども、途中の言葉遣いで何度か眉をひそめる。その描写って、断言って、どーよ?と思う節々はある。ツッコミどころがないわけではないが、そこは敢えて笑って済ませることにする。
不思議と、後ろのほうのエッセイのほうが、言葉のとげとげしさが少なく、読みやすいように感じた。(自分が読みなれただけか?)

著者が39歳のときに書いたエッセイを集めたものであるので、生殖能力の限界に駆け込みという題がつけられたという。
その酒井の視点のそこかしこで、セクシャルなフィルターを感じる。
「子どもの頃から私はモテ系の夢を持ったことがない」と書くことで、かえって、著者のモテへの執着があぶりだされている、気がする。
私はもてたいと思っているわけではないけれども私の周りには素敵な男性がいるのよ、というのは、ハロー効果狙い?
まだまだ私も捨てたものじゃないの、と、性的弱者となりつつある自身を否認しようとする懸命な努力が透けて見えるようで、気が重くなったのだ。

老化の初期段階、加齢を否認したくなるのが、人情というものだと思う。
生殖能力や性的魅力の喪失を目の当たりにしつつ、それでもいいの、いやそんなことはないの、と行ったりきたりするような、このもごもごした感じが、なんかいや~。
この割り切れない感じが、30代後半の心理的な課題であるのかもしれない。

「いつまでもきれいでいたりモテていたりしなくてはならないという風潮」を、私は内面化しきれなないし、よくわからない。いつまでもきれいでいることも、モテようとすることも、その心性の未熟さに、私は気持ち悪さを感じる。
結婚する日の女性が美しいと黒田清子さんを讃える人が、西亮子さんを侮るのも、よくわからない。私はどちらの笑顔も美しいものだと感じる。幸せそうで自信のある笑顔、綺麗なものではないか。

この著者の『負け犬の遠吠え』は傑作だった。実を言うと、あれ以来、ナチュラルストッキングを多用してみた。
が、いまだ負け犬であり続けている。柄物タイツをはいてみたりしたくなる本性がにじみでてしまうのだろうか。(^^;
自分の今の心境は、限界を超えることを受容したい方向に傾いているので、読んだタイミングが悪かったんだと思う。

メトロセクシャルという単語、私、知らなかった…。
私の住む田舎では、まだ希少種かもしれませぬ。
眼福になるような人が増えると、街歩きも楽しくなりそうです。

2007.03.22

(雑誌)ラブコメ今昔

有川 浩 2007 野性時代 vol.41

パピルスを探しに行ったら見つからなかった。私の「阪急電車」がーーーっ。阪急には愛着があるので読みたいなあ。
代わりに、野性時代を手にとってしまった。モリミーの特集(短編『ペンギン・ハイウェイ』など)にも惹かれたが、『鴨川ホルモー』の続編『ローマ風の休日』が載っているのが決定打。しかも、連載2回目じゃないか。

本を買い始めるとキリがないので、この数年、買うなら文庫本だけと決めていた。
が、有川さんの『図書館戦争』に出会った辺りから、このルールがずるずると崩れていったどころか、ついに雑誌まで買い始めた。
ああああああ、床面積がまた減るぅぅぅ。

この号に載っていた有川さんの短編が、「ラブコメ今昔」。
すっかり自衛隊+恋愛モノが定着した感じがします。

時代遅れと言われても、今回の今村夫妻の有り様には、読んでいてほっとしました。
家族を大事にする人や安定した家庭を築いている人を見ると安心する今日この頃。
連れ添って二十年以上、子ども達も独立させた夫婦という設定に驚きました。

若い頃、邦恵さんのような専業主婦像を自分がやれと言われてできるかどうか不安でした。
それでも、自分がそうするかどうか、そうなりたいかどうかは別にして、女性像として嫌いではないのだと思います。
むしろ、憧れを持っていたのかもしれません。当たり前のように、奢らず誇らず、妻として母として在ることができることに。
……あくまでも憧れであったので、家事からはいまだに逃げて回っていますが。

そしてまた、今村二佐のような男の人も嫌いではない。
人差し指で体重を支えちゃうんですよ。格好をつけたわけではないところが、格好いいです。はい。
これは、やられちゃうや。
若い女性を若い女性扱いしちゃうところも、私としては好感度が高い。
「信頼がおける」というのは、パートナーに対する素晴らしい誉め言葉だなあ、と思いました。

イマドキではないかもしれないけれど、それをまた魅力にしてしまうのが、有川さんらしい。
この今村夫婦を、男性の作家が書いたら、やっぱりフェミだか何だかにひっかかるのかな?
子どもを持つことへの覚悟や責任、フェミも何も関係なく、自衛隊かどうかも関係なく、よく考えてほしいことだよなあ。
ラブコメに見せかけて、メッセージがいっぱいの短編でした。

 ***

単行本『ラブコメ今昔』の感想はコチラ。素敵な短編集でした。

2007.03.18

京のオバケ:四季の暮しとまじないの文化

京のオバケ―四季の暮しとまじないの文化 真矢 都 2004 文藝春秋新書

既に手放した本なので、記憶にしたがって書く。
森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』や万城目学『鴨川ホルモー』など、京都を舞台にした小説で、その地名や場所柄に戸惑いを覚えた人、好奇心を持った人に勧めたい。
糺ノ森や吉田神社、六道珍皇寺なども紹介されている(されていた、と思う)。

タイトルのオバケから、魑魅魍魎の怪談奇談神話伝承を期待するといけない。
オバケというのは、節分の夜に魔除けや厄除けのために異装(女装・男装にコスプレとか?)をする風習のことだ。その風習が祗園に残っているという。
ちなみに、私がオバケを知ったのは、河惣益巳の『玄椿』というマンガだった。
それから、『京のオバケ』を手に取ることとなる。本書の中で紹介されている親子を、まさにその夜その扮装で目撃した記憶があるので、偶然の不思議に驚いたものである。

京都やその近郊に住む人にとっては、当然のように知っていることばかりかもしれない。
著者は東京の出身で、ネイティブ京都人ではない。部外者の目から見ることで、京の町の生活に新鮮な発見があったのだろう。
一瞬で通り過ぎる観光向けガイドブックよりも、もう少し土着の京都、地元民の日常の生活の紹介だと思う。

京都を離れた今となっては、折々の行事にあわせて訪ねることは難しい。
住んでいた頃に知っていれば、あそこもここも、もう少し楽しめたかもしれないのに、と残念に思った。
もちろん、この本には紹介されていない、自分なりの名所も持っているのだけれど。
学生さんとか、期間限定で京都に在住する人にも、面白いんじゃないのかな。

2007.03.17

不健全な精神だって健全な肉体に宿りたいのだ

不健全な精神だって健全な肉体に宿りたいのだ 菅野 彰 2007 角川文庫

29歳の崖っぷち。そこをとっくに越えてしまった私であるが、崖を越えるその前に、これだけの努力をしてみたら、結婚できていただろうか? ……いや、あんまり今と変わらなかった気がする。

以前、菅野がWingsという雑誌で書いたエッセイを読んだ。
小説の中ぐらい夢を見せて欲しいと言いながらボーイズラブを書く人の、現実の男性に向ける視線は決して冷たくない。
むしろ、もーっ!と怒りながら笑うような、どっしりと暖かい感じが気に入った。

平積みにされた新刊の文庫の中、タイトルが気になり、手に取った。
内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』と並べて読んでみたら面白そうとか、思ったから。
レジに並ぶ列で、カバーの著者紹介を呼んで、くだんのエッセイの著者だとようやく気づく。
こりゃあ、買わねば。いそいそ。

誰にも見られたくない、外から見られたくない。
あるある、と笑いながら読む。結婚したくないわけじゃないのに、はるかに縁遠い感じがする。
占いに頼ってみたくなったこともある。私の場合、占い師の身の上を逆に私が聞き取り、悩み相談をしてあげて、料金をただにしてもらった。……占いになっていない。
縁結びのお守りも握り締めてみるが、信心が足りないようだ。出雲大社や戎神社など、各方面からのいただきものを並べて置いているのも、いい加減に期限切れになっている気がする。
減量だけは、彼氏ともめた気苦労と、肝炎のおかげで成功した。もっとも、その揉め事の結果、私は彼と別れたので、ダイエットの達成感はない。ダイエットというか、単なるストレスによる食欲不振や体調不良、その結果による体重減少であって、意識してやったことではない。
そして、最後に話した男性はといえば、家族か上司か、鍼灸師さんに店員さん……。色気や恋愛には程遠い生活で、のほほんと暮らす毎日は穏やかで、結局、これが性に合っている。

自分の通り過ぎた道が思い出されて、女友達と徹夜で話し合い笑い合うような感じ。
30代になると体全体が曲がり角。その前に、なんであれこれしなかった!と後悔しても、努力に繋がらないって、あるよね? ね?
自分でネタにするのはいいけれど、反面で、男性にはネタに仕切れない切なさもあることは知っておいて欲しいと願うのは無理難題だろうか。
男性がこの本でがははと心底無邪気に笑っていたら、多分、私は後頭部に一発かましたい気持ちに駆られるだろう。

壊れかかった卵巣の痛みを抱えて笑うとき、笑うしかないような切なさとか悲しさもひそかにある。健在な肉体は、私も欲しい。切実に欲しい。
でも、適度な運動と規則正しい生活を送るのが、私にも難しい。
おまけに、結婚には年齢制限はないが、出産には年齢制限があるんだよ。
産む機械と呼ばれても結構。機械には、材料も燃料もいるんだ。産んで欲しければ、いい男を連れてきやれ。どーんと受け取ってやる……かもしれない。受け取らないかもしれない……。いや既に手遅れ。

文庫本は、単行本から抜粋・編集されているそうで、省略された部分がもったいない気がした。
単行本のほうも読みたいな。面白かったです。

2007.03.14

嘔吐

嘔吐 Jean-Paul Sartre 白井浩司(訳) 1994 人文書院

サルトルを初めて読んだのは学生の頃だった。哲学の講義に出てきた『存在と無』を一部だけ読んだ。
デカルトの点的コギトをいかに超克するか。サルトルは突破口を「まなざし」に求める。

『レヴィナス入門』を読んでから、サルトルが思い出されて仕方がない。
人間は世界を享受することで生きている、「口」では人間と世界が一致する。
享受が世界の恣意によって挫折し、労働の必要を生み、「手」で掴み取る。(ハイデガー『存在と時間』)
労働により、世界と私の間に隔たりが生じ、「目」で隔たりを測る世界が作り出される。
その目は、「顔」を見る目は、サルトルのまなざしを懐かしくも想起させた。

もっとも、私が『存在と無』を読んだときの感想といえば、「エロオヤジ?」という単純にして口にはばかられるものであったが。
頭はいいのかもしれないが、露悪的というか、変わり者の感じの悪い人という印象が強い。その印象は、今もあまり変わらない。

『嘔吐』を手に取ったのは、ストレスのために、まさに吐気と食欲不振に苦しんでいた数年前のこと。
原題のLa Nauseeは、嘔吐ではなく、吐気の意である。邦題については、本書の後書きを参照されたい。
体重がぐいぐい減っていく中、本屋さんの店頭で出合った表紙は、そのときの自分の状態、関心事にぴったりで、思わず手に取った。
読み始めるまでには、それから一年を要す。

実存主義というもの、ただ実存するという世界観について、小説の手法だからこそ描けるわかりやすさがある。
淡々と続く、現実や自己との違和感の増大。統合失調症の発症を想起させる、この描写は見事だ。
世界が気持ち悪いものになっていく、その過程に、主人公に気持ちを寄り添わせようとすればするほど、居心地が悪い。

主人公はある歴史的な人物の伝記を書こうとしていた。ふと気づく。その対象の人物を考えることで、自分自身のことを考えずにすんでいたのだ、と。
自分の人生の凡庸さに気づく。自分の人生が、意味ある、意義ある、価値ある、冒険に満ちた華々しいものではなく、ありふれた日常の中に飲み込まれていく。
記憶の不確実さ、物語ることで経験を消費するということ、自分の存在を感じないために誰かを必要とすること等など、含蓄のある文章が盛りだくさん。
デカルトの独我論批判の変奏も随所に感じる。

人は手軽な冒険として、恋愛を体験する。自分の人生が、ある日突然、語られるべき素晴らしいものになる、そういう冒険であることを夢見て。
愛と性とが取り違えられている感じがする。それがまた、人と人とが関わりあえない絶望を感じさせる。
自分が存在することへの吐気。最後では、病み疲れたようなある種の落ち着きが、老いのようにじんわりと主人公を包み込む。
存在の鈍く苦い軽さ、露悪的な不器用さに、私が吐きそう…と思ってしまった。

気軽に手に取りたい本ではない。読み返す気にもなりそうにない。
が、後書きを読んで、著者の歴者や訳者の時代を知り、改めて本書の輝きに気付かされた。
私は好きにはなれないけれども、読み応えのある逸書だった。
(2006.5.29)

2007.03.13

大統領の理髪師

大統領の理髪師 韓国

外国から見て日本の20世紀後半の歴史がどんなものかは日本に住む日本人の私にはわかりかねるけれども、私から見て韓国の20世紀後半は、それまでに負けず劣らず激動続きだったように感じる。その時代を、政治の表面で目立つ人々ではなく、市井にいるはずの家族を通して描く。

コミカルな部分もあるが、政治の残酷さをきっぱりと描いており、驚かされた。このあたりの容赦のなさが、韓国らしい感じがする。政治権力とのつきあい方を考えさせつつ、家族への愛情を主軸にした、暖かい映画。台詞も演技もよく、哀しみを覚えさせながらも軽妙で、上手なドラマ。こういう映画が好き。

2007.03.12

デュエリスト

デュエリスト デラックス版 韓国

カンドンウォンがセフィロス様。
台詞が少ない映画だ。かなり映像に凝ったのだとは思う。が、なんだか笑ってしまう。
場所などを示すもともとの映画のテロップ(日本語字幕ではなく)も非常に短時間で見落としそうになる。
殺陣は、主役二人よりもベテランさんのほうが上手のように感じました。日本刀の使い方や時代考証については、敢えてツッコミを控えます。
正直なところ、凝り過ぎて、観る人に不親切で、あんまり面白くなかった。
映像を見せる時間が長い分、物語が薄くなっちゃったのかな。本当は可哀想で、もう少し感動する映画になったような気がするのだけど。
もうちょっと、なんとかしようがあったのではないかなあ。もったいない気がします。

驚きだったのが、ハジウォンが青木さやかに見えてしょうがなかったこと。似てたんだ。ハジウォンが捕盗庁に所属している点でも、映像の点でも、「チェオクの剣」を思い出しましたが、キャラは見事に別物でした。可愛かったですよ。

一回、観たので、気が済みました。

2007.03.08

鴨川ホルモー

鴨川ホルモー 万城目学 2006 産業編集センター

表紙を見ただけでも、うふふと笑ってしまう。
これがどこか、京都在住経験者には、一目で知れることだろう。

十人の大学生が集まって挑む、大学対抗の競技。
同じ十人の大学生なのに、三浦しをん『風が強く吹いている』とは大違いで、箱根駅伝ではない。
対戦するは、京大青竜会、京産大玄武組、立命館白虎隊、龍大フェニックスの4チーム。野球でもなければ、ラグビーでもない。
さて、ホルモーとはなんぞや?

葵祭のバイトに始まり、祇園祭を経て、気づけば吉田神社で奉納舞。
出てくる地名の一つ一つが懐かしい。今出川に百万遍、丸太町通に四条烏丸、河原町。京阪三条、岩倉、衣笠。舞台は、微妙に東よりで北のほうに集中する。
西院の自動車教習所って、あそこっすか?
同志社は鬼を扱うには向かないんですかね。むしろ、人が鬼? しくしく。
京大生に橙色のリュックサックはデフォルトなのか? いや、友人はオレンジ色が好きだったが。確かに持っていたけれども、しかし。
自然、独り言も増えた。

この本も楽しむには、やはり、京都を知っているほうが有利だ。
京都で大学生活を送ったり、京都の大学生の生活を知っている人なら、尚よい。
森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』と同じく、標準語で描かれているが、京大出身者による、京大生を主人公とする物語だから、だ。
そして、片思いに舞い上がり揺れ落ちる男心模様を描くところも、この二冊は印象が重なり合う。

ホルモーがなにゆえ始まり、続くのか?
競技者達は考えずにはいられないけれども、それはそういうものなのだ。
物語にも余計な説明はない。その作者の潔さがよい。
登場人物たちは、謎を解くわけでもなく、その呪いにも似た伝統を解体するのでもなく、巻き込まれ、走り回り、戦い抜き、そして歴史は繰り返される。
安部が主人公なら、芦屋とは仲が悪い。それは、そういうものなのだ。
わからなくても、わからないままに、続いていくもの。物語の全体が、一つのお祭りのように織り成される。
祭りとはそういうものなのだ。続けることは、正しい身振りだ。祀ることは祟りを避けるために始まるのだから。

京都なら、魑魅魍魎が歩き回っていようと、それはそれで許されるかもしれない。
京都大学なら、青竜会やら詭弁論部やらがあって……いいのか? いいのかもしれない。思い描いてみると、楽しいではないか。
奇想天外な設定に、妙に説得力のある大学生活と繊細な男心の描写とあいまって、妙な迫力があり、一気に読まずにいられない。
学生気分を思い起こし、ひとしきり笑いながら楽しんだ末、読後に颯爽と香るは、春の青々しい楠の匂い。

最後に、後書きで目を丸くした。これだから、学生って。

 ***

続編 → ホルモー六景

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TBのかわりに……

苗坊さんのブログ『苗坊の読書日記』 鴨川ホルモー 万城目学
このごろ都にはやるもの、勧誘、貧乏、一目ぼれ。

2007.03.04

レヴィナス入門

レヴィナス入門  熊野純彦 1999 ちくま新書

希望は、それが許されないときにはじめて希望となる。希望の瞬間において取りかえしのつかないものとは、希望の現在それ自体である。(p.75)

 ***

目次を見て、くらりとめまいがした。吐気とまではいかないが、揃いすぎている文字列に息詰まりを感じた。
「さしあたって」「とりあえず」といった表現は、厳密性を企図したときに増える。正確に表現しようとして、その目標が充分に達成し得ないことを予想して、断定を留保する言葉を多用する。
「~はずである」「~でなければならない」といった表現がそこに加わると、文章全体が息苦しくなる。ささやかな疑問もいかなる反論も許す余地を与えないような堅苦しさを感じた。
強迫的で肩がこる。哲学らしい、学生時代に馴染んだ極めて哲学らしい文章だった。

既視感。
この人の文章、レヴィナスを論じたかつての友人の文章と特徴が似ている。
語の選択、表現、文の構成。論の展開、全体の形式。レヴィナスを語る人の、共通の言語なのだろうか。

「私」である吐気。存在することへの疲労。これはある日の自分を思い出させる。
とっくに突き詰めて考えることを放棄した問題点と、懐かしくも哲学らしい文章で再会した感がある。
とはいえ、サルトルとの対比、ハイデガーとの対比を通じて語られるレヴィナスは、ホロコーストの時代を生きたヨーロッパのユダヤ人としての経験を無視することはできない。
p.161にあるような「子を、わけても息子をもつことにより、<私>は時間の断絶を超越し、死に勝利する」という発想は、イリガライの批判するような男性性からのものというよりも、ユダヤ的なものとして当然、納得されうるようなものである。
その経験の悲壮には、今よりも誇大な自己愛や万能感に支配されていた時代の自分でしか、太刀打ちできると過信できないものである(あくまでも過信であると自覚する)。

フーコー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナスと入門を読んできたが(原著は私の手に余る)、彼らはフランスで戦後、ハイデガーを超克しなければならなかった。
サルトルが不安と神経症の世界であるなら、レヴィナスは不眠と心身症の世界。自己違和的になった身体の登場。ハイデガーの「手」からレヴィナスの「口」への移行は、自傷行為や摂食障害への理解を深める一助になる。
翻訳らしい風合いの残るレヴィナスの表現は詩的で目を惹く。端的であるために、部分を引いても意味が伝わりにくい。アフォリズムのように、いかようにも利用可能で、かえって引用しにくい。
哲学が好む、語の定義をめぐるヨーロッパ言語圏の言葉遊びには、興を感じなくなったんだよなあ。

私が他者を構成するのではない。他者が私を構成する。乳児からの発達を考えれば当然のように思う。「私が他者を構成する」というのは、成人の発想だ。
私と他者との間の決定的な断絶。「充たされない渇き、どのような対象によっても充足されない欠如、あるいはむしろ不在」、「充足されることでかえって渇くような渇き、それゆえにけっして満足がありえないような渇き、いつまでも・つねに欠如でありつづけ、だからひたすら追いもとめるしかないような疼き」(p.116)は、私にとっては、他者への渇望である。
だからこそ、埋めようもない差異を超えようとして、愛撫し、抱擁し、接吻する。他者が私を受肉する。それは同時に、私と他者との断絶の再確認である。私が私でしかないことの再確認である。
徹底した拒絶と断絶。したがって、性行為が私に残すのは、最早、渇望ではなく、焦燥ですらなく、絶望である。
絶望は私が性的な対象から降板されることによって完成される。逃れる先である未来は奪われた。彼に対する魅力を失うという点で、私は私の老いを、ひたよる死を先取りさせられる。私は消費され、他者に殺され、ものとなる。

いささか連想を自分に引き寄せすぎたが、「私は他者が死ぬことについて有罪である」(p.200)感覚を、突き詰めすぎているとは私は感じない。survivor's guilt(生存者の罪悪感)と呼ばれる心理を、より鋭敏に感じとることを想定すればよい。
他者との関係に、なべて倫理を読み込むため、このいっさいの受動性よりも受動的な、無限の受動性を据えることは卓越だと思った。
「なぜ殺してはいけないか?」という素朴な問いに答える可能性を、世界の一切の不条理と、原罪と言い表されるものとを説明する、仮借のない回答だった。

私が欲していたのは、応答ではない。
私は呼びかけを欲した。
私は呼びかける他者であるところの彼に対して有罪になりたかった。
繋ぎとめられ、私は彼という他者によって構成されたかった。殴打ではなく、愛撫で。
なぜかならば。そこに埋めようがなく、超えようがない、断絶があったからこそ。
あなたは果たして私に、顔と顔とで対峙したのだろうか。

この本で呈示されているレヴィナスは、私にとって親和的であるがゆえに、だから、どうなん?と、立ち止まってしまった。これを読んでいた人は、一体、何を感じとっていたのだろう。
次は、ユダヤの人という繋がりで、マルティン・ブーバーを振り返るのもよい。『我と汝』をどこかに所有していたと思うが……。
それとも、皮膚の所有に関連して、ドウォーキンを再読するのも魅力的だな、と、一冊を読むたびに読みたい本が増えていく。
それにしても、哲学者だけには限らないが、入門書や解説書を必要としないような、わかりやすーい描き方を、なんで最初からしてくれないんだろう……。

 ***

ソクラテスは、死は「夢のない眠り」であり、無上の幸せではないかと語ったそうだ。だとすると、不眠の夜は、死ぬことすら許されない苦痛の時間ではなかろうか。死にたいほどに苦しいにもかかわらず、死を奪われた。アウシュビッツを思い起こす。それほどの苦しみの前では、私程度のものに語る言葉はない。

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