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2007.02.21

ウィトゲンシュタイン入門

ウィトゲンシュタイン入門  永井均 1995 ちくま新書

私とあなたは、どうしてこれほどわかりえないのか。
決定的で致命的なほどの断絶を体験した。
わかりえなさへの絶望は、わかりあえるはずだという願望と表裏をなす。

こんなにも考え込んで、この人はしんどかっただろうなあ。
突き詰めて突き詰めていく思考の、堅苦しさに息苦しさを感じ、気の毒に思った。
「言語ゲーム」という言葉は、ウィトゲンシュタインを知らない人でも知っているかもしれない。現に私がそうだった。
本書を読むことは、聞きなれた言葉の原点を見直す、よい機会となった。

私の「人生を換えた一書」の一つは、間違いなくキルケゴールの『死に至る病』だと思う。絶望よりも尚救われない強情が、私のアイデンティティとなった。その概念が、私には何より救いとなったから。
高校生にベーコンやデカルトやスピノザを読ませ、カントやヘーゲルを教える教師に出会ったことが、その後の人生をかなり左右した気がする。
その頃にウィトゲンシュタインに出会っていたら、私はかなりはまりこんだかもしれない。傲慢で極端で潔癖な心性は、ウィトゲンシュタインによく呼応しただろう。微にいり細にいり突き詰めて夢想せずにはいられなかった、あの頃であれば。

今はもうそのエネルギーがないなあ、と実感した。
本書はウィトゲンシュタインの初期、中期、後期へと時代を追って、興味と思考の変遷を追う。
言語ゲームは後期の用語で、むしろこの辺りにはそれなりの馴染みがあって、頷きやすい。読み始めは自分自身がこれから何が語られるのかがわからない状態だったのが、読むにつれて問いと語りに慣れていったこともあろう。
その初期から中期にかけてが、「あー、しんど」と思った。この人は思索したというより、悩んだ人なんだろうなあ、と思って。

哲学の面白さは、私にはいくつかある。
自分がぼんやりと考えていたことが「そうそう、これこれ!」」と大きく頷くほど、クリアに言語で表現して呈示して整理してもらえる気持ちよさ。
自分の思いつかなかったような思考と出会うこと。新しいことを知る好奇心を満たす快さ。
ぎりぎりの高みや深みを目指す秀逸な思考に、どこまで自分が追いすがり、ついていくことができるのか、自分の限界を試すようなスリリングな楽しさ。
総じて、哲学を通じて得られた知見といえば、「世の中、いろんな人がいて、いろんなことが考えるんだなあ。私なんてまだまだ修行が足りない」というささやかな感想である。
哲学に答えを求めようと思ったことはない。さまざまな問いと語りから、思考の多様性を味わうことが、私の楽しみである。

というのも、主義主張の違いを整理して理解することが苦手な私は、批判的に読むことなど到底できず、どれもがすごいと思ってしまう。
それなりに納得して、部分的に取り入れて、なんとなくつぎはぎして自分の世界観を作り上げ、それに不自由も違和感も感じない私は、哲学を築く人の峻厳さには圧倒されて頭を垂れるしかない。

 ***

異なる哲学は、どこまでも互いに相手を包み合うことができる。どちらに真実性を感じ、どちらを単なる形而上学(=絵空事!)と見るか、それはその人の世界がどんな世界であるかによるのである。(p.76)

 ***

なんだ、そういうものだったのか。と、安堵する。
著者は、この本を哲学の本であって、人物紹介でもなければ、解説書でもないと述べる。それだけのことがあり、何を考えるか、どう考えるか、考える一冊だった。
ウィトゲンシュタインという視点が、新鮮で示唆は豊富だった。
先に読んだ『フーコー入門』の告白についてのくだりが、ウィトゲンシュタインを考える足がかりとなったのもよかったと思う。
どちらかといえば、今の私のお気に入りはフーコーの考え方だけれども、ウィトゲンシュタインの割り切りにも成る程と思う。

他者を理解すること、その限界と可能性について、p.122の「他人の心」やp.171以降の私的言語など、もうしばらく反芻して咀嚼したいと思う。間主観性や共感性の概念ともひきつけて、吟味したい。まだ消化できていない。
いや、まだ全体が未消化なのだ。理解したとは、言いがたい。二重の意味で。
一つには、特有な語の使用などに惑わされたり、ただ単に難しかったので、理解したようなふりはできない。二つには、著者が「本当に理解できたならもう決して超えることができない」(p.10)と書くものだから、負けず嫌いな私は理解できていたとしても言うことをためらっただろう。
よく理解できていないものをとやかく言うことはできない。

私はあなたがわからない。
そう伝えることで、あなたも私がわからない、わかっていない、わかろうとしていない、わかっていないことを知らない、と気づいてもらいたかった。
あなたが私を知っているという前提そのものに、私は疑問を感じていた。
私は私をわかっていないが、あなたは私をわかっているという、非対称で不公平。
そのときに、語りえぬものを語ろうとして私は失敗したかもしれないが、私の背後にありもしない悪意や嫉妬を読み取られたときの絶望感や嫌悪感は、いまだ生々しい。
あなたに私はわかりえない。私もあなたの注意を私に向けたかっただけだった。

最後に印象的だった箇所を付記しておく。

 ***

意味を尋ねるわれわれの問いが突き当たり、突き返される地点がどこかに必ずある。言葉が吃り、空転する地点。言葉の背後にある意図や、言葉に込められた思いを持ちだすことは、何の役にも立たない。それらもまた、同じ言葉で語られざるをえないからである。子どもが言葉を持つようになるのはどうしてか、という問いに答えがないのも、実は同じ理由からである。しかし、言語学者も、心理学者も、そして現象学者も、この問いに答えようとし、言葉の背後にそれを可能ならしめる何かを想定することによって、問いに答えたと思いこむ。だが、ほんとうに難しいのは、問いに答えることではなく、答えがないこと、あってはならないことを、覚ることなのである。(p.66)

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