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2007.02.23

現代語訳 般若心経

現代語訳 般若心経  玄侑宗久 2006 ちくま新書

夜中に、わははと笑いながら、般若心経を読む人。
我ながら、なにやら不気味だ。

ちくま新書なのに。
この前、小説を読んだばかりの作者名に惹かれて手に取り、その場でぱらぱらと中身を眺めて驚いた。
穏やかで微笑ましい挿絵が入っている。
文章も読んでみると、なにやらコミカル…?
これは面白そうと思って衝動買いした。

物理学(西洋の科学の代表として)を突き詰めると、キリスト教的な神概念ともそぐわなくなる。その辺りは、池内了『物理学と神』が参考になる。
柳澤桂子の例もあるから、近代的で理知的なロゴスの知を推し進めた先に、いつか見た景色のように仏教的な世界を感じとる人は、一人や二人ではないらしい。
この感覚は、それなりに自分勝手に想像をめぐらせていた世界観に馴染むので、私には納得しやすい。

それ以上に、この現代語訳に盛り込みたい!と思ったのが、ウィトゲンシュタインの語りえぬものだった。
続けて読んだ二冊が、期せずしてぴったりと重なり合うような体験が、快い。
これを偶然と呼ぶか、共時性と言うか。

分かる(理解する)ことは、分けることに通ず。言葉を駆使して理解しようとしたときから、かえって遠ざかってしまうものがある。
ロゴスの知ので明をしてから、実践的な知である般若へと視点を転じ、最後に悟りを得る方法を紹介する。
それが、訳しようのない、意味を超えた咒文としての、般若心経。

名づけによって失われるものや、文字によって失われるものを本書でも指摘しているが、そこにとどまらず、より哲学的に近接を図ることを考えたくなった。
物理学よりも哲学のほうが、私には馴染みがある分、腑に落ちやすいだけのことかもしれない。
ウィトゲンシュタインにとって、宗教もまた言語ゲームであり、意味のない音の羅列に咒文の意図を託したときから言語ゲームに取り込まれる。
また、独我論が論として成り立つことによって、独我論は語りえないものとなる。自分にとって自分が特別であることが、誰にとっても可能である、そのことにおいて。
般若心経は「私」を特別で自立したものと捉えるような顚倒夢想の境地を遠く離れることで涅槃に辿りつくという。

遠いなあ…。

咒文をただ唱えるという行為が、思考を超える力を持つことには、まったく同意する。音に浸ることは、言葉で形成される思考を、どこか超越する。
ただ、私自身が、今ここにある自分にこだわりたくて、涅槃を目指したいと思っていないところが、涅槃をますます遠くしているような。
さらさら読める一冊であるが、意味を知った後で読み返す般若心経は、味わい深いものだった。やっとありがたみを感じることができた気がする。

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