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香桑の近況

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2007年2月

2007.02.26

彩雲国物語(1-12)

彩雲国物語―はじまりの風は紅く 雪乃紗衣 角川ビーンズ文庫

既刊12冊。仕事を休んでいたのをいいことに、一気読み。
小野不由美の『十二国記』の続きを待ちわびた家人が、いつの間にか『彩雲国物語』を買い揃えていた。
読んでみて、家人が妙に饅頭を食べたい、団子を食べたいと言うことが増えた理由がよくわかった。

基本的に、男性陣はハンサムさん。美少年から美老人まで。
有能だったり、身分がよかったり、金持ちだったり、異能だったり、それぞれ魅力的な男性達に囲まれて、成長していく女の子が主人公。
男性だけが国試を受けることができ、官吏になることができる。初の官吏となった主人公は、若い王の片思いの相手であり、有力貴族の直系の姫なのに苦労人。貧乏生活で料理がうまく、働き者で、外見には自信がない。前向きで、ひたむきな頑張り屋さん。

男女共同参画社会とか、雇用均等とか。
そのために、性別を超えて一元化するイメージを描く人もいるだろうが、多様化するイメージを描く人もいるだろう。この物語はどちらかといえば後者。
女性であることを損ねずに、男性と伍して仕事をする。いいモデルになるような成長物語だなあ、と思った。
女性ということだけで差別や区別を感じさせられるような場面をよく描いている。その点、成長の途中の人だけではなく、大人の女性にとっても楽しめる夢物語だ。
笑いもいっぱいあるけれど、励ます言葉がいっぱい詰ったシリーズ。女性が強い物語が好きな人にオススメ。

最初はかなり夢物語な設定が、人気を招いたのだろうと思った。
巻が進むにつれて、主人公も夢を見てばかりはいられないことを、物語は強いる。
今後の主人公の成長に期待。心配なのは、王様の孤独のほうかな。
むしろ、こういう物語、作者が途中で投げ出すことが一番、心配……。

彩雲国物語―はじまりの風は紅く
彩雲国物語―黄金の約束
彩雲国物語―花は紫宮に咲く
想いは遙かなる茶都へ―彩雲国物語
彩雲国物語 漆黒の月の宴
彩雲国物語 朱にまじわれば紅
彩雲国物語 欠けゆく白銀の砂時計
彩雲国物語 心は藍よりも深く
彩雲国物語 光降る碧の大地
彩雲国物語 藍より出でて青
彩雲国物語 紅梅は夜に香る
彩雲国物語―緑風は刃のごとく

2007.02.23

現代語訳 般若心経

現代語訳 般若心経  玄侑宗久 2006 ちくま新書

夜中に、わははと笑いながら、般若心経を読む人。
我ながら、なにやら不気味だ。

ちくま新書なのに。
この前、小説を読んだばかりの作者名に惹かれて手に取り、その場でぱらぱらと中身を眺めて驚いた。
穏やかで微笑ましい挿絵が入っている。
文章も読んでみると、なにやらコミカル…?
これは面白そうと思って衝動買いした。

物理学(西洋の科学の代表として)を突き詰めると、キリスト教的な神概念ともそぐわなくなる。その辺りは、池内了『物理学と神』が参考になる。
柳澤桂子の例もあるから、近代的で理知的なロゴスの知を推し進めた先に、いつか見た景色のように仏教的な世界を感じとる人は、一人や二人ではないらしい。
この感覚は、それなりに自分勝手に想像をめぐらせていた世界観に馴染むので、私には納得しやすい。

それ以上に、この現代語訳に盛り込みたい!と思ったのが、ウィトゲンシュタインの語りえぬものだった。
続けて読んだ二冊が、期せずしてぴったりと重なり合うような体験が、快い。
これを偶然と呼ぶか、共時性と言うか。

分かる(理解する)ことは、分けることに通ず。言葉を駆使して理解しようとしたときから、かえって遠ざかってしまうものがある。
ロゴスの知ので明をしてから、実践的な知である般若へと視点を転じ、最後に悟りを得る方法を紹介する。
それが、訳しようのない、意味を超えた咒文としての、般若心経。

名づけによって失われるものや、文字によって失われるものを本書でも指摘しているが、そこにとどまらず、より哲学的に近接を図ることを考えたくなった。
物理学よりも哲学のほうが、私には馴染みがある分、腑に落ちやすいだけのことかもしれない。
ウィトゲンシュタインにとって、宗教もまた言語ゲームであり、意味のない音の羅列に咒文の意図を託したときから言語ゲームに取り込まれる。
また、独我論が論として成り立つことによって、独我論は語りえないものとなる。自分にとって自分が特別であることが、誰にとっても可能である、そのことにおいて。
般若心経は「私」を特別で自立したものと捉えるような顚倒夢想の境地を遠く離れることで涅槃に辿りつくという。

遠いなあ…。

咒文をただ唱えるという行為が、思考を超える力を持つことには、まったく同意する。音に浸ることは、言葉で形成される思考を、どこか超越する。
ただ、私自身が、今ここにある自分にこだわりたくて、涅槃を目指したいと思っていないところが、涅槃をますます遠くしているような。
さらさら読める一冊であるが、意味を知った後で読み返す般若心経は、味わい深いものだった。やっとありがたみを感じることができた気がする。

2007.02.22

物理学と神

物理学と神  池内了 2002 集英社新書

哲学や宗教学は好きだし、SFも好きだけれども、物理学は大の苦手。
にもかかわらず、苦痛にならずに、興味を持って、最後まで読むことができた良書だった。

物理学の専門家には物足りないかもしれないし、哲学や宗教学の専門家にとっても物足りないかもしれない。
が、科学史も宗教史もお互いに独立してあるものではない。極めて当たり前なことではあるけれど、学校の授業ではあまり関連付けて習わない気もする。
両方に慣れ親しんでいるわけでない私には、こういう入門書は手軽でよい。高校生ぐらいの物理と歴史の知識があれば、充分に読みこなせるだろう。

無知と知の境界線の向こう側は、物理学(科学)では語りえず、宗教の次元が立ち現れる。
神仏を対照させることで、物理学をとっつきやすく、わかりやすく、解説することに成功しただけではない。
著者は人間を超越している存在を引き合いに出すことで、物理学者のみならず科学者が、無知の領域、未知の領域があることを忘れないよう、謙虚な姿勢を保つことを謳っている。そこに深く共感した。

フラクタルや複雑系など、難しげな専門用語をそれなりに理解できたような気がするし、物理学の姿勢や目的がなんとなくわかった気がする。
これで、少しは私も21世紀の常識に近づけただろうか……。
(2005.9.3)

2007.02.21

茶色の朝

茶色の朝 フランク・パヴロフ ヴィンセント・ギャロ(絵)
藤本一勇(訳) 高橋哲哉 (メッセージ) 2003 大月書店

なぜ、茶色なのか。
その理由は解説を読むまで、私はわからなかった。

茶色のペットしか飼ってはいけない。
茶色だけ。ねこも犬も茶色だけ。ほかの色は殺される。ほかの色のペットを飼う人も社会から殺される。

他の色は刈り取られる。

短いが、しかし、ずしりと響く重苦しさ。
時流に逆らわず、足並みを揃え、目立たず騒がずにいる保身術は、本当に安全なのか。
考えもしなかったと主人公が言っても、彼は茶色の朝から逃れることを許されない。
想定外は言い訳にはまったくならない。

たとえ、何かを行うことが難しいように思えたとしても、考えることはできるはず。
その自由を自ら捨て去ることのないよう、教えてくれる本だ。

言葉を狩る。その先はどうなるか。
有川浩の『図書館戦争』シリーズで、誰も戦わなかったとしたら、こんな結末が待っているのではないか。
検閲や差別用語について考える良書として強く勧めたい。今、この世情だからこそ。
(2006.1.11)

ウィトゲンシュタイン入門

ウィトゲンシュタイン入門  永井均 1995 ちくま新書

私とあなたは、どうしてこれほどわかりえないのか。
決定的で致命的なほどの断絶を体験した。
わかりえなさへの絶望は、わかりあえるはずだという願望と表裏をなす。

こんなにも考え込んで、この人はしんどかっただろうなあ。
突き詰めて突き詰めていく思考の、堅苦しさに息苦しさを感じ、気の毒に思った。
「言語ゲーム」という言葉は、ウィトゲンシュタインを知らない人でも知っているかもしれない。現に私がそうだった。
本書を読むことは、聞きなれた言葉の原点を見直す、よい機会となった。

私の「人生を換えた一書」の一つは、間違いなくキルケゴールの『死に至る病』だと思う。絶望よりも尚救われない強情が、私のアイデンティティとなった。その概念が、私には何より救いとなったから。
高校生にベーコンやデカルトやスピノザを読ませ、カントやヘーゲルを教える教師に出会ったことが、その後の人生をかなり左右した気がする。
その頃にウィトゲンシュタインに出会っていたら、私はかなりはまりこんだかもしれない。傲慢で極端で潔癖な心性は、ウィトゲンシュタインによく呼応しただろう。微にいり細にいり突き詰めて夢想せずにはいられなかった、あの頃であれば。

今はもうそのエネルギーがないなあ、と実感した。
本書はウィトゲンシュタインの初期、中期、後期へと時代を追って、興味と思考の変遷を追う。
言語ゲームは後期の用語で、むしろこの辺りにはそれなりの馴染みがあって、頷きやすい。読み始めは自分自身がこれから何が語られるのかがわからない状態だったのが、読むにつれて問いと語りに慣れていったこともあろう。
その初期から中期にかけてが、「あー、しんど」と思った。この人は思索したというより、悩んだ人なんだろうなあ、と思って。

哲学の面白さは、私にはいくつかある。
自分がぼんやりと考えていたことが「そうそう、これこれ!」」と大きく頷くほど、クリアに言語で表現して呈示して整理してもらえる気持ちよさ。
自分の思いつかなかったような思考と出会うこと。新しいことを知る好奇心を満たす快さ。
ぎりぎりの高みや深みを目指す秀逸な思考に、どこまで自分が追いすがり、ついていくことができるのか、自分の限界を試すようなスリリングな楽しさ。
総じて、哲学を通じて得られた知見といえば、「世の中、いろんな人がいて、いろんなことが考えるんだなあ。私なんてまだまだ修行が足りない」というささやかな感想である。
哲学に答えを求めようと思ったことはない。さまざまな問いと語りから、思考の多様性を味わうことが、私の楽しみである。

というのも、主義主張の違いを整理して理解することが苦手な私は、批判的に読むことなど到底できず、どれもがすごいと思ってしまう。
それなりに納得して、部分的に取り入れて、なんとなくつぎはぎして自分の世界観を作り上げ、それに不自由も違和感も感じない私は、哲学を築く人の峻厳さには圧倒されて頭を垂れるしかない。

 ***

異なる哲学は、どこまでも互いに相手を包み合うことができる。どちらに真実性を感じ、どちらを単なる形而上学(=絵空事!)と見るか、それはその人の世界がどんな世界であるかによるのである。(p.76)

 ***

なんだ、そういうものだったのか。と、安堵する。
著者は、この本を哲学の本であって、人物紹介でもなければ、解説書でもないと述べる。それだけのことがあり、何を考えるか、どう考えるか、考える一冊だった。
ウィトゲンシュタインという視点が、新鮮で示唆は豊富だった。
先に読んだ『フーコー入門』の告白についてのくだりが、ウィトゲンシュタインを考える足がかりとなったのもよかったと思う。
どちらかといえば、今の私のお気に入りはフーコーの考え方だけれども、ウィトゲンシュタインの割り切りにも成る程と思う。

他者を理解すること、その限界と可能性について、p.122の「他人の心」やp.171以降の私的言語など、もうしばらく反芻して咀嚼したいと思う。間主観性や共感性の概念ともひきつけて、吟味したい。まだ消化できていない。
いや、まだ全体が未消化なのだ。理解したとは、言いがたい。二重の意味で。
一つには、特有な語の使用などに惑わされたり、ただ単に難しかったので、理解したようなふりはできない。二つには、著者が「本当に理解できたならもう決して超えることができない」(p.10)と書くものだから、負けず嫌いな私は理解できていたとしても言うことをためらっただろう。
よく理解できていないものをとやかく言うことはできない。

私はあなたがわからない。
そう伝えることで、あなたも私がわからない、わかっていない、わかろうとしていない、わかっていないことを知らない、と気づいてもらいたかった。
あなたが私を知っているという前提そのものに、私は疑問を感じていた。
私は私をわかっていないが、あなたは私をわかっているという、非対称で不公平。
そのときに、語りえぬものを語ろうとして私は失敗したかもしれないが、私の背後にありもしない悪意や嫉妬を読み取られたときの絶望感や嫌悪感は、いまだ生々しい。
あなたに私はわかりえない。私もあなたの注意を私に向けたかっただけだった。

最後に印象的だった箇所を付記しておく。

 ***

意味を尋ねるわれわれの問いが突き当たり、突き返される地点がどこかに必ずある。言葉が吃り、空転する地点。言葉の背後にある意図や、言葉に込められた思いを持ちだすことは、何の役にも立たない。それらもまた、同じ言葉で語られざるをえないからである。子どもが言葉を持つようになるのはどうしてか、という問いに答えがないのも、実は同じ理由からである。しかし、言語学者も、心理学者も、そして現象学者も、この問いに答えようとし、言葉の背後にそれを可能ならしめる何かを想定することによって、問いに答えたと思いこむ。だが、ほんとうに難しいのは、問いに答えることではなく、答えがないこと、あってはならないことを、覚ることなのである。(p.66)

2007.02.16

夜は短し歩けよ乙女

夜は短し歩けよ乙女 森見登美彦 2007 角川書店

表題にある第1章を『Sweet Blue Age』という短編集で読んだ。
癖のある文体がクセになる。大袈裟でしかつめらしく、パロディも織りこめられて、ユーモアたっぷりの文章だ。
混沌として狂騒の祝祭の気配に圧倒された。ひどく印象に残った。
その後、友人から本屋大賞にノミネートと聞く。
これもなにかの御縁でしょう。と、本屋さんの店頭で手に取った。

春の先斗町や木屋町界隈を夜を徹して行ったり来たり。
夏の下鴨納涼古本市。本作りに関わる人、本好きな人には殊更ぐっとくるのが、この章ではなかろうか。
秋も終わりの青春闇市たる学園祭。「11月祭」にも、大学ならではの伝説や伝統があるのだろうと思わせる。
そして、冬。クリスマスを前に浮き足立つ街で、ひとりある身はなんとせう。

この本を楽しむには、やはり、京都を知っているほうが有利だ。
京阪三条駅、中書島、六地蔵、糺ノ森、吉田南構内、出町柳駅、百万遍交差点、銀閣寺、哲学の道、京都市役所前広場、東鞍馬口通、北白川、今出川通、清和院御門、寺町通、京都市美術館、四条河原町など。
どちらかといえば東のほうで、やや北のほうに偏っているところが、かの大学に通う人の行動範囲をあぶりだしている。
今出川の進々堂まで出てきたときには、懐かしさにむせび泣きそうになった(大袈裟)。
京都で大学生活を送ったり、京都の大学生の生活を知っている人なら、尚よい。
著者が京都大学出身と知って大いに納得。存分に発揮されている感じがする。

といっても、本書は小説。エッセイでも、ルポでもない。
ひよこ豆のように小さな黒髪の乙女と、その後姿の世界的権威である理系院生の先輩とが、それぞれ一人称で交互に語り進む形式で、この二人の名前は出てこない。
後輩の女の子に一目ぼれし、追いかけて半年以上。外堀を埋めることに邁進するも、なかなか本丸に突撃できない、男の子の恋心が絶妙である。

古本市の神様や風邪の神様がいて、御都合主義をふるまう神様もいてくださる。なむなむ。
自称天狗もいるし、鯨飲する美女やパンツ総番長、詭弁論部など、出る人出る人クセが強い。李白さんにいたっては、人間ではなさそうな気配がする。
不思議なことが至極当然の顔をしてそこに在る。それとも、些細な日常も一大冒険にしてしまうのが、恋なのか。

四季には、それぞれの季節の祝祭がある。
巻き込まれて、一緒に笑って酔うがよし。
偽電気ブラン、私も味見してみたいぞー。

 ***

次は、同じ京大出身作者による、同じく京大生男子の片思いの物語をいかが?
 → 万城目学『鴨川ホルモー』

マンガ 『夜は短し歩けよ乙女(1)』も出ました。

2007.02.14

図書館危機

図書館危機 有川浩 2007 メディアワークス

目次を見るのももどかしく、ページを繰った。
シリーズ3冊目となり、登場人物紹介と、今までのあらすじも書いてあるのも、すっ飛ばし、とにかく物語の続きへ。表紙も、実はまだよく見ていない。
第2章雑誌掲載時の感想は→「図書館内乱後夜祭:昇任試験、来たる」

小牧が、いい。
堂上は、いい。
手塚も、いい。
いやいや、やっぱり一番いい男は玄田さんっ!?

最初から、小牧と一緒に上戸のツボを押されて笑ったり、郁と一緒に涙を流したり、身悶えたり、憤ったり、身悶えたり、ときめいたり、心配したり、身悶えたり。
読むほうも非常に忙しい。表情を変えずにいられるものか。

郁が本当によくがんばっている。何度でも、頭を撫でてもらって、叩いてもらってほしい。
柴崎だって、同様だ。自分に厳しい柴崎の頑張りに、だんだん釣られていく人たちも出てくる。
それぞれ戦う場所や、戦い方は違っても、志が篤い。

最後の一章は、章題からして読むのが一瞬ためらわれ、一息ついてから、大事に読んだ。
章題から内容がわかると不満を述べる向きもあるようだが、もともと、この巻の各章題は「○○、××」という形で揃えられていたんじゃないか?と推測してみる。
結末が予測がついても、どうやってそこに繋がるか、物語を私は予測し得なかったので、不満はない。
ただ、そこの理由付けは多少の強引さを感じたり、全体の論の展開に珍しく荒さを感じ、作者が書き急いだのではないだろうか。

図書隊を完全無欠な正義の味方にしてしまわない作者に好感を持つ。
誰か一人の個性に依拠する組織は、その人がいる限りは強固でも、その人が抜けると脆弱になる。
けれども、個性を抑圧した組織は、不自然だ。全体主義になるか、独裁主義になるか、あたかも組織の外部に超越して存在しているかのような圧力を、構成員たる「その他大勢」をまとめる圧力を利用して成り立つような気がする。
「お話」の正義の味方だったら、正義の権威は揺るぎがなくて、構成員は老病死苦には無縁で変わりがなくて、善悪の二元論は単純で混じりがなくて、勧善懲悪してみせるだろうに。
郁は迷うし、驚くし、おののくし、悔やむし、自分が被るものを知った。自分が清潔で綺麗な手を持つ神の代理人ではないことを、深く強く思い知っている。
その苦しみが、貴く、いとおしく、好ましいと思うのだ。

一回読み終わり、すぐに二回目に入った。気に入ったシーンを拾ううちに、すぐに3回目の通し読みになる。
いや、『図書館戦争』『図書館内乱』から通し読みしたくなった。こんなに強い牽引力を持つ物語に出会うことは久しい。
次で最終巻とのこと。楽しみではあるが、惜しいとも思う。魅力的な物語だからだ。終わる前から、その後、外伝も書いてくれないかなあ、と期待している。
絵空事でいいから、最後まで惹きつける結末が待っていますように。

この本のプロポーズを読んで思い出したが、野垂れ死にすることが心配だと言っていた私の友人へ。この記事を読むことはないだろうが、一応、書いておく。
野垂れ死にしそうなことがあったら、その前に呼んでね。拾いに行ってあげるから。
気が向いたら、呼んでよね。あなたが、私の名前を呼んでよね。
冗談口と思ってもらっていてもいいし、約束だと思ってもらっていてもいいけれど。

 ***

  別冊 図書館戦争Ⅱ
  別冊 図書館戦争Ⅰ
  図書館革命
  図書館内乱
  図書館戦争

2007.02.13

図書館の神様

図書館の神様 瀬尾まいこ 2003 マガジンハウス

本を読む楽しみ。
何かを知る、その快楽。
何かを考える、その愉悦。
本を開くだけで、時間を超えて、空間を越えて、さまざまな人になり、人と交わる。
世界を味わい、感情を揺らされ、問題に晒され、思考に挑み、また自分自身へと還っていく。

同じ本について、人と話し合うのも、たまらなく素晴らしい体験だ。
だからこそ、趣味の合う読書友達は貴重である。
自分なりの考えや思いをつづり、文章を仕立てていく作業もまた、かけがえがない。

図書室の本を制覇せんとばかりに片っ端から読み漁っていた子どもの頃の自分と、若い者を見る目で子どもを見る今の自分と、両方がこの本の中で出会っているようなくすぐったい感じがした。

直前に読んだ「リーラ」に続いて、自殺した人への負い目と赦しの主題が出てきて、偶然に少し驚いた。
いかに許し、赦されるか。これは、今の私の課題なのかもしれない。その時が来た、という。
最後に出てくる三通の手紙の、その三通目に、涙が出た。

私が悲しいとき、寂しいとき、困ったとき、彼の一言や抱擁がほしかった。それだけで元気が充電できるのに、できない。彼が他の人といるとき、私は一人で。不倫をしているわけでもないのに。独りで。
きちんと心の中でお別れしよう。とても大好きだ。けど、もういいや。あなたはあなたで幸せでいてくれ。それでいい。
あなたの人生に、私が不在であることを、悲しむのは、そろそろ終わりにしよう。

それに、私にも「自分以外の世界に触れる方法」(p.160)がある。だから、仕事はとても愛しい。私は今の仕事が大好きだ。
そんな風に、私の心を回復に向けて後押ししてくれた本になった。
(多分、私のことだから、しばらくすると、またうじうじするはず……笑)

2007.02.11

リーラ:神の庭の遊戯

リーラ  玄侑宋久 2004 新潮社

最後を綺麗にしすぎ、と思う私の心は、少々汚れているのだろうか。

3年前に自殺した女性の、その命日の前日。
女性の弟、母親、父親、弟の恋人、自死した女性の友人、ストーカーらが、ふと彼女を思い出す。

確かな質感、熱感をもって、彼女の存在を感じる。
死者の訪ないを感じるときの、不気味な、不思議な、一瞬の体験に臨場感がある。
錯覚かもしれない。そんなことがありえるわけはない。
けれど、肌があわ立つような、背筋がぞくりと、うなじがざわりとするような。
偶然の符丁を勝手に組み合わせたり、安易に深読みしてみたり、人間の主観のゆがみを上手に布置して、物語は進む。

モーニング・ワーク(喪の作業)は、死者の慰霊の形を取るとしても、生者にこそ必要な営みであるように感じる。
悔恨や絶望、悲哀をやわらげながら、明日へ明日へと生きることを強いられるから。
苦痛を味わうことは、まさに苦痛であるが、これを味わい続けることも難しい。
たとえ苦痛であったとしても、生者が死者の記憶に執着するならば、生者は忘却との戦いを避けられない。
同時に、忘却との戦いは、死者に等しく強いられる。

無言電話を繰り返す男の心理描写に、うなる。これは想像してみたこともなかった。
卑劣なことをしてきた男が、懺悔する。赦されることはなくとも、懺悔はできると。
懺悔をした分だけ苦痛が減ったようで、生まれ変わり、どこか赦されたような終わり方に、かすかに不満を持った。
しかし、見方を変えてみれば、犯人が改悛するかもしれないという可能性こそが、被害者や遺族を慰撫するのかもしれない。
何もなかったかのようにされてしまうことは、忘却との戦いにすら持ち込めずに不戦敗することだ。

忘れずに悔やめ。覚えてくれるなら、憶えていてくれるなら、どこかで赦せるのかもしれない。
私の「まぶい」(生魂)も、きっとどこかに落ちている。拾い集めては、また落とした。
オレンジのシャツを着た弟に、オレンジ色のTシャツを好んで着ていた知り合いを重ねて苦笑した。

フーコー入門

フーコー入門  中山元 1996 ちくま新書

同じ著者による、同じ人物についての本の2冊目ともなると、少しはフーコーに馴染みができたきたと思う。
『はじめて読むフーコー』(洋泉社)は、フーコーの主要な論点を整理してあるものだったが、『フーコー入門』はフーコーの思想史的な変遷がよりわかりやすい。
全体の内容はより難しめであるが、充実している。

フーコーの著作を時間経過に沿って追うことで、思考の流れをたどる。
これにより、実存主義に構造主義が反論できること、構造主義にフーコーは反論できること、それぞれの論の組み立て方の違いが、ようやくわかってきた気がする。

レヴィ・ストロースやソシュールの考え方が、私は好きだ。
構造主義は「社会の当事者たちが意識していない社会の仕組みを説明してしまう」(p.70)ことができる点が魅力的であり、有用であり、落とし穴を持つ。
その仕組みの説明が妥当であると保証する仕組みを論じようとして、説明が円環を描き、拡散してしまう気がする。
そこに見落とされているものを語るために、論者に見落としがないことをも語るのが、困難なように思えるのだ。

また、構造主義的な発想を日常会話に用いられると、非常に不愉快な思いをすることがある。
「君は自分では気づいていないが、その言葉の背後にある本当のことを私は知っている」と言われて、どんな気持ちになるだろうか。
素直な表現を嘘つき呼ばわりされる気持ちだ。虚言や空言として扱われたときから後は、どんな言葉も力を失う。
「それは投影じゃないか?」との言い返しも同様のトラップである。

この構造主義的な理解に基づく勘繰りを避けようとして疲労困憊した個人的な体験から、そのときそこで語られた言葉に注目するフーコーの方法論に安心した。
権力は、政治は、人が二人以上集まれば、おのずと生じる、生じて当たり前のものであるかもしれない。ならば、それに鈍感ではありたくないと思った。
鋭敏に感じとり、その上で、自己を放棄することなく、他者との関係を変えていきたいものだ。

身体が魂の牢獄なのではなく、魂が身体の牢獄なのだと語るとき、この人はどれほど厳格に社会を内在化させていたのだろうと思う。
現在のネットの発達した社会を、フーコーだったらどのように論じるのか。聞いてみたい気がした。

 ***

このディスクールの概念は、フーコーにとっては、伝統的な歴史学の人物中心主義の方法とは異なる方法で歴史を分析しながら、しかも歴史の目的論を退けることができるという意味で、重要なものである。フーコーがデイスクールにおいて、実際に語られたことだけを対象とするのは、歴史には一つの目的があるという考え方に潜む<罠>にはまらないようにするためである。ディスクールの背後に<言われざる声>の存在を想定した上で、ディスクールや事件を解釈すると、究極的にはこの<罠>にはまってしまうのである。(p.116)

2007.02.06

はじめて読むフーコー

はじめて読むフーコー  中山元 2004 洋泉社

よくよく噛み砕いた平易な文章で、ストレスなくさくさく読める新書だった。
まさにはじめて読むのにふさわしい。

フーコーの著作はどれもインパクトのあるタイトルで、手付かずのまま隠蔽して放置されているテーマを掘り出しており、好奇心をそそるものだった。
学生の頃、しかし、結局は敷居の高さを感じて手に取ることがなかった。
本書は、そんな私のように、フーコーに興味は感じたことはあるけれども、どれから読んでいいか分からないし、読んでも分からない感じがするし…と逡巡している人に勧めたい。
高校生ぐらいでも読みこなす人はいるだろうし、大学の授業で哲学を取ってしまった人の急場も助けてくれそうである。

構成は、1章はミシェル・フーコーの生涯、2章で思想を狂気・真理・権力・主体のキーワードを挙げてまとめ、3章で著作を紹介している。
かなり厳選された内容であると思うが、著作の紹介も丁寧で、次に何を読みたいか、自分の興味に沿うのはどれか、選びやすい。
フーコーの思想の歴史的変遷には、同じ著者の『フーコー入門』"が適切なのだそうだ。

フーコーの考え方というのは、ソシュールが言語学で指摘した、言葉の意味は後から規定されるという原則を思い出す。
狂気がなしに正常は語りえない。春日武彦は『ロマンティックな狂気は存在するか』の冒頭で、「病気である」という診断書は書くより「健康である」という診断書を書く難しさを体験的に述べている。
フーコーが狂気と精神医学・心理学について思索を深めたフランスの精神病院の様相の特異さは、中井久夫『西欧精神医学背景史』の記述が参考になる。フーコー自身の知の枠組みを想定する助けとなった。
フーコーの論じた内容を絶対視すると、こういう枠組みの差異に足元をすくわれるのであるから、本書のように繰り返しフーコーの考え方を強調するのは、良心的に感じる。

妄想たくましく面白く読んだのは、修道士では自己の放棄と他者への服従が徳の高さを示した点である。
アン・ライスの眠り姫シリーズと見比べてみよう。一番理想的なSMの関係性はどのようなものであるか、欧米的な感覚が浮かび上がりそうである。こういう楽しそうなことは、もうちょっと体力が回復してから取り組むことにして。

フーコーは、同性愛者であり、SMも積極的に試みたと伝えられている。そこでHIVに感染し、死亡したことはセンセーショナルなニュースだった。
本書を読むことで、当時の空気を思い出さずにはいられなかった。

2007.02.04

クジラの彼

クジラの彼 有川浩 2007 角川書店

綺麗な表紙。綺麗なイラスト。
メディアワークスじゃなくて、角川なんだ。野性時代に掲載されたものを集めているので、そりゃ角川か。レインツリーのときの新潮社といい、会社の垣根を越えて、ってところも、なんだか嬉しい。
出版日から二日遅れで入荷された本に頬擦りせんばかりの私に、本屋さんが『図書館危機』を売り込み、本書購入と同時に次作の予約も済ませたのでした。

さて、短編集なので、どうやって感想を書いたものか。雑誌や他書で既読のものについては、タイトルに以前の感想をリンクさせてみた。

「クジラの彼」
『海の底』の番外編。
別れるのが名残惜しくて、徹夜で語り明かしたくなるような、そんな相手を蹴ったら一生後悔する。いや現に。
横暴セクハラ上司を持つ会社勤めの女性の苦労も如実で、そこに共感する人も多いんじゃないかな。

「ロールアウト」
徹底的にサニタリーにこだわる。有体に言えば、トイレなんだけれども。
男性の小用便器も個室にすべきと主張した人も私の知り合いにいたが、プライバシーについての個人の感覚の違いを追求するのに、トイレを持ってきたところが有川さんらしい巧妙さ。
そこに目を奪われそうになるけれど、製品開発中のメーカーとユーザーの恋愛と書けば、かなり日常的にありえそうな設定になる……はず。
高科があれをやるんだと気づいたときの絵里のわくわく感がよい。にんまりと笑いたくなる。読んで、すっきり。
小ネタで、やっぱり作者と同年代と感じた。

「国防レンアイ」
こいつに裏切られたら致命傷。そんな相手と抜き差しならなくなるのは、勇気がいる。
自分が致命傷をくらったまま立ち直れていないから、物語の二人がうまくいってよかった。
それにしても、かなり限界に挑戦しているヒロインであるが、生身な感じが私は好きだな。

「有能な彼女」
ここ、加筆している?と思った一行があった。雑誌は手元にないから確かめられないなあ。
これも『海の底』の番外編。
自分の好きな人って、自分には魅力的なものだから、他の人にも魅力的なもんだと思いがちなんだよね。
夏木の話だけど、その後の冬原のパパっぷりも要注目。

「脱柵エレジー」
これも自衛隊+恋愛もの。若気の至りの物語。
仕事と私とどっちが大切なの?などという恋人には、男女を問わず、ジャーマンスープレクスなり、かかと落としなり、お好きなものをどうぞ。
仕事が好きで大切な私ごと好きになってもらわないことには、続かないのよね。そこを支えてくれる人は、掛け値なしのいい男だと思う。

「 ファイターパイロットの君」
これは『空の中』の番外編。
光稀さん、可愛いです。これに尽きます。

そして、あとがきでやられた。あゆみと太一郎さん!!
原点が近いところにあるんだな……。あー、びっくりした。
活字でベタ甘ラブロマを堪能できる、心ほかほかの一冊。

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