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2007.01.31

人身御供論:通過儀礼としての殺人

人身御供論―通過儀礼としての殺人  大塚英志 2002 角川文庫

同じ作者の小説より読みやすくて面白かった。
私の正直な感想である。日本語まで整っている気がするから不思議だ。
「タッチ」「ホットロード」「めぞん一刻」「トーマの心臓」と、目次並ぶ題材を見て、あまり期待はしないで読んだところ、ウケ狙いどころかとても真面目な内容だった。

なぜ、大人になることはこんなにも難しいのか。
大人になるとはどういうことか。どうやったら大人になれるのだろう。

まず、男子の通過儀礼譚と女子の通過儀礼譚の差異を指摘した上で、後者に当たる「猿聟入」を材料に取り上げたところが面白かった。
この対比は、腐女子と自称する女性たちが、少女マンガよりも少年マンガを好む心理を、それとなく教えてくれたような気がしたからである。
つまり、女子の通過儀礼の拒絶や回避として。

「猿聟入」という昔話から、物語の中に構造化された通過儀礼のフォルムを抽出するというのは、下記のように整理するところから始まる。
  最初の結婚(生家からの分離)
    ↓
  最初の夫の殺害
    ↓
  仮家における人格転換(移行)
    ↓
  異装もしくは試練
    ↓
  第二の結婚(再統合)(p.54)

生家からの分離という死の体験や最初の夫の殺害を、女性の性的な初体験=強姦に等しいものとして、決め付けたくなるのが私の発想であるが、著者はもっと控えめである。
終盤を除外して、大塚が過度に心理学的・精神分析的になることを自制し、物語の構造を読み解く作業に専念している様子に好感を持った。
神話や昔話の民俗学や民族学的な理解の仕方、と言えば、よいのだろうか。
間引きと子殺しの論理や、逸脱者を回収する都市の機能や、偽王が真王になる仕掛けなど、さまざまな指摘が面白かった。
近代社会において加入儀礼を無理に描こうとすると、生からの離脱、すなわち、犠牲死の主題を増幅するという記述が興味深い。

なぜ、最初の夫は死ななくてはならなかったのか。殺さなくてはならなかったのか。
この問いに答えるため、ウィニコットの「移行対象」が出てきたときは、いささか興ざめであった。
母親から子どもが分離するときに一時的に心の支えとなる、ライナスの毛布や、くまのプーさんが、移行対象の一例である。
理想と現実は異なることに気づいた人が、現実を受け容れるために理想を仮託するのが移行対象であるけれども、幻想は徐々に失われて忘れ去られる。
移行対象は、幻想と幻滅の対象であることをクリアに述べているところで、私の興は復活した。

というのも、大塚の問いは、殺人事件が引き金になって惹起されたものであったかもしれないが、同時に、国家に回収されない成熟を模索するものでもあったからである。
国家の成熟と個人の成熟を、アナロジカルに語ることは、誤謬であり、危険である。右傾化傾向に、私は違和感を持つ。
通過儀礼を支える物語を失った社会においては、通過儀礼によって成熟することは難しい。
国家の成熟に同一視して個人の成熟を図るのではなく、成熟を拒絶・放棄して未成熟に留まるのでもなく、モノや物語を移行対象として消費しつつ個人としての成熟を図る岐路を、大塚は示している。
(この点、私は香山リカの解説に齟齬を感じる。私は解説者を好んでいないので、解説を瑕疵とも蛇足とも感じたのだろう。)

最後に、再び「猿聟入」について。この本が初見だと私は思っていたが、よく考えれば、『もののけ姫』の原作ではないか。はたと気づいた。
1993年、製作中の映画の原作として宮崎駿がスジオジブリから絵本を出している。
父親を救ったもののけに嫁入りする三の姫が、もののけを殺す従来の身振りに、宮崎は違和感を持ち、結末をどうするか迷っていた。
絵本では、その逡巡を後書きで語り、結末はもののけが三の姫をお姫様抱っこして逃げ出していた。もののけと三の姫が改めて結ばれて幸せに暮らしたことになっていたと記憶している。
そのように筋を変えたくなるほど、もともとの「猿聟入」はすわりの悪い物語であるのだ。
できあがった映画は、絵本とは絵柄も設定も異なり、もののけ姫は人間ともののけの二つの世界の境界線上から動かない。サンはもののけの世界に、アシタカは都市に回収される。サンもアシタカも所与の共同体から逸脱し、逸脱したまま生きることに変わりない。
あれは成熟の物語が〈外部〉を模索して、共存の物語に書き換えられたんだなあ。

物語を物語る者への警句に賛意を込めて引用しておく。

 ***

とにかくも私たちは癒しを求め、〈移行対象〉としてのモノや幻想を消費していく。それが〈癒し〉としての消費の意味である。その意味で、モノや幻想を作り出す人々は、自分たちが誰かのためにいつも〈熊〉(癒しのための移行対象の意。評者注)を作っているのだということを忘れるべきではない。(p.244)

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