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2007.01.04

二〇世紀精神病理学史: 病者の光学で見る二〇世紀思想史の一局面

二〇世紀精神病理学史―病者の光学で見る二〇世紀思想史の一局面  渡辺哲夫 2005 ちくま学芸文庫

ある種の反感や抵抗があるので、私の感想もネガティブに傾斜しがちだ。
過度に情緒的な文章は、アジテートされているようで、興が冷める。
「われわれ」という主語、表現が大仰で、語調が強いほど、私の気持ちは同調されず、読んでいて疲れてしまう。
共感は、押し付けられるものではない。私は、もう少し淡々と語られる言葉のほうに魅力を感じる。

精神病理学には3つの流れがあると学んだことがある。
第一に、クレペリンに代表される、症状記述式の病理学。
第二に、分析的な病理学。第三に、現象学的な病理学。
著者は冒頭で歴史を詳細に定義するが、精神病理学についての定義はない。
そこで、ふと、戸惑った。精神病理学って、何?

4章までが、私にとっては苦行となった。
著者はヤスパースへのアンビバレントな感情から、その周辺を行きつ戻りつくるくると円舞しているかのようで、気短な私は途中で「それで一体何が言いたい?」といらいらしてしまった。
本書でいう分裂病は、狂気というファンタジー、ロマンチックな狂気であって、統合失調症とイコールとして考えないほうが適切である。
もちろん、本書で語られる癲癇も、てんかんとは異なるものだと思わなければ、不快で読んでいられない。
頻出する「アンテ・フェストゥム」や「ポスト・フェストゥム」(私は木村敏は読んでいないので間違っているかもしれないが)は、クラインの妄想分裂ポジションと抑うつポジションに置換して理解を努めた。

かつては分裂病・躁鬱病・てんかんをして三大精神病と呼んだが、現在は統合失調症および気分障害(うつ病/双極性障害)を精神病とする。
てんかんは精神科ではなく、脳神経内科で診療されるものと紹介されるようになった。(実際は、科目名に関わらず、医師によって得手不得手がある)
内因性の精神疾患は、内分泌系、情報伝達物質の問題が関係していると理解される。外因性のように明らかに身体に変調が起きているとはっきりと検査でわかるようなことはなく、心因性のような発症の原因と誰もが納得しうるような出来事や条件があったわけでもないが、おそらくこれが問題であろうと予測されてはいるが実証されていない謙虚な用語である。
薬という物質が効くということは、物質=身体の問題が起きている、と捉えたほうが、個人的にはすっきりする。
私の前提はそういうものなので、本書の筆者の捉え方とはひじょーに分け隔てがあるのだ。
著者によれば、こういう私の考え方こそ「精神分裂病」から「統合失調症」への以降によって、「精神」が剥奪された状態であり、弊害ってことになる。堕落頽廃しているかもしれない。
だからこそ、治療論の興味の対象は、人格障害へ(あるいは、療育の観点から発達障害へ)と、シフトしてきたんだと思う。

5章では内容に異論はありつつもわかりやすくなり、6章からようやく興味を持てる内容になったと思う。
分裂病を中心に「精神病の病理」を対象とする疾病論について論じていたところを、ここで「20世紀的人間精神の病理」と内容がシフトしているためである。
言い換えれば、精神医学の基礎的な一領域の歴史から、医学の範疇を超えて、思想史に転じている。
ユダヤ人であるフロイトと、ナチスに親和性を持ったユングを対比させつつ、ナチズムという「20世紀的人間精神の病理」を論じるくだりは、興味深かった。

そして、再び疾患の次元を語り始める10章あたりから、私の興味や意欲も半減した。
私は臨床に役立つ知見、精神病の病理に興味を持つ者であるから、めぐりめぐって、p.93で著者が引いている「精神病理学者としては、われわれは汲みつくしえぬ個人の無限性を知っていれば充分である」とヤスパースの言葉で充分な気がする。
判断停止って言われちゃうかもしれないけれど。

おそらく、徹底的に〈歴史不在〉たらんとするならば、言語を放棄するしかなくなるのではないか。
言葉を保持する限り、人は〈力としての歴史〉に守られる。言葉が不完全なツールであっても。完全でないからこそ、持ちうる可能性がある。
何を捨象しても、言葉があれば、そこにはcogitは残る。そのcogitは、〈力としての歴史〉によって常に想起させられてきたもの、世界のただ中に水平にも垂直にもしっかりと結び付けられている。
ソシュールによれば言語とは元からそういうものなのであるのだし、言葉の意味は後から規定されていくものなのだ。この原則を、私は無視できない。
私は言葉によって、過去だけでなく、未来に結び付けられる。
私はそれを束縛だとは思わない。
私は私のために自らの言葉を練り鍛え磨き研ぐ。〈歴史不在〉をも〈伝承〉に組み込むために。
私は同じ言語を用いながらも言葉が徹底的に通じない事態にあって、絶望もし、諦念も持っている。
それでもなお、私は言葉に希望を持つ。

いずれにせよ、この本、若造が書いちゃ怒られるだけだろうな。

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コメント

はじめまして。先日自分は自己反省のブログを始めたばかりなのですが、もしよかったら私のブログに遊びに来て下さい。よろしくお願いします。

コメント、ありがとうございます。
ブログ、拝見させていただきました。
その日の出来事を憶えているからこそ、その日の反省の日記を書けるのではないでしょうか。
いろいろな工夫をなさっている御様子。その中から、tabihikoさんにぴったり役立つものが増えていくといいですね。

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