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2007年1月

2007.01.31

人身御供論:通過儀礼としての殺人

人身御供論―通過儀礼としての殺人  大塚英志 2002 角川文庫

同じ作者の小説より読みやすくて面白かった。
私の正直な感想である。日本語まで整っている気がするから不思議だ。
「タッチ」「ホットロード」「めぞん一刻」「トーマの心臓」と、目次並ぶ題材を見て、あまり期待はしないで読んだところ、ウケ狙いどころかとても真面目な内容だった。

なぜ、大人になることはこんなにも難しいのか。
大人になるとはどういうことか。どうやったら大人になれるのだろう。

まず、男子の通過儀礼譚と女子の通過儀礼譚の差異を指摘した上で、後者に当たる「猿聟入」を材料に取り上げたところが面白かった。
この対比は、腐女子と自称する女性たちが、少女マンガよりも少年マンガを好む心理を、それとなく教えてくれたような気がしたからである。
つまり、女子の通過儀礼の拒絶や回避として。

「猿聟入」という昔話から、物語の中に構造化された通過儀礼のフォルムを抽出するというのは、下記のように整理するところから始まる。
  最初の結婚(生家からの分離)
    ↓
  最初の夫の殺害
    ↓
  仮家における人格転換(移行)
    ↓
  異装もしくは試練
    ↓
  第二の結婚(再統合)(p.54)

生家からの分離という死の体験や最初の夫の殺害を、女性の性的な初体験=強姦に等しいものとして、決め付けたくなるのが私の発想であるが、著者はもっと控えめである。
終盤を除外して、大塚が過度に心理学的・精神分析的になることを自制し、物語の構造を読み解く作業に専念している様子に好感を持った。
神話や昔話の民俗学や民族学的な理解の仕方、と言えば、よいのだろうか。
間引きと子殺しの論理や、逸脱者を回収する都市の機能や、偽王が真王になる仕掛けなど、さまざまな指摘が面白かった。
近代社会において加入儀礼を無理に描こうとすると、生からの離脱、すなわち、犠牲死の主題を増幅するという記述が興味深い。

なぜ、最初の夫は死ななくてはならなかったのか。殺さなくてはならなかったのか。
この問いに答えるため、ウィニコットの「移行対象」が出てきたときは、いささか興ざめであった。
母親から子どもが分離するときに一時的に心の支えとなる、ライナスの毛布や、くまのプーさんが、移行対象の一例である。
理想と現実は異なることに気づいた人が、現実を受け容れるために理想を仮託するのが移行対象であるけれども、幻想は徐々に失われて忘れ去られる。
移行対象は、幻想と幻滅の対象であることをクリアに述べているところで、私の興は復活した。

というのも、大塚の問いは、殺人事件が引き金になって惹起されたものであったかもしれないが、同時に、国家に回収されない成熟を模索するものでもあったからである。
国家の成熟と個人の成熟を、アナロジカルに語ることは、誤謬であり、危険である。右傾化傾向に、私は違和感を持つ。
通過儀礼を支える物語を失った社会においては、通過儀礼によって成熟することは難しい。
国家の成熟に同一視して個人の成熟を図るのではなく、成熟を拒絶・放棄して未成熟に留まるのでもなく、モノや物語を移行対象として消費しつつ個人としての成熟を図る岐路を、大塚は示している。
(この点、私は香山リカの解説に齟齬を感じる。私は解説者を好んでいないので、解説を瑕疵とも蛇足とも感じたのだろう。)

最後に、再び「猿聟入」について。この本が初見だと私は思っていたが、よく考えれば、『もののけ姫』の原作ではないか。はたと気づいた。
1993年、製作中の映画の原作として宮崎駿がスジオジブリから絵本を出している。
父親を救ったもののけに嫁入りする三の姫が、もののけを殺す従来の身振りに、宮崎は違和感を持ち、結末をどうするか迷っていた。
絵本では、その逡巡を後書きで語り、結末はもののけが三の姫をお姫様抱っこして逃げ出していた。もののけと三の姫が改めて結ばれて幸せに暮らしたことになっていたと記憶している。
そのように筋を変えたくなるほど、もともとの「猿聟入」はすわりの悪い物語であるのだ。
できあがった映画は、絵本とは絵柄も設定も異なり、もののけ姫は人間ともののけの二つの世界の境界線上から動かない。サンはもののけの世界に、アシタカは都市に回収される。サンもアシタカも所与の共同体から逸脱し、逸脱したまま生きることに変わりない。
あれは成熟の物語が〈外部〉を模索して、共存の物語に書き換えられたんだなあ。

物語を物語る者への警句に賛意を込めて引用しておく。

 ***

とにかくも私たちは癒しを求め、〈移行対象〉としてのモノや幻想を消費していく。それが〈癒し〉としての消費の意味である。その意味で、モノや幻想を作り出す人々は、自分たちが誰かのためにいつも〈熊〉(癒しのための移行対象の意。評者注)を作っているのだということを忘れるべきではない。(p.244)

2007.01.29

末枯れの花守り

末枯れの花守り  菅浩江 2002 角川文庫

雑誌掲載時に読んだ。梨木香歩の『家守綺譚』を読んで本書を思い出し、久しぶりに読み返した。
波津彬子の挿絵の印象も強い。主人公の容姿は、挿絵を見ながら書いたのではないかと思うほど、よく似合っていた。
私の手持ちは文庫版であるが、ここにはりつけた表紙は波津彬子による単行本のものだ。

菅浩江といえば、『ゆらぎの森のシエラ』や『暁のビザンティラ』『メルサスの少年:「螺旋の町」の物語』など、優生思想に警句を鳴らすようなSFが初期の作品群である。
『「柊の僧兵」記』『オルディコスの三使徒』『不屈の女神:ゲッツェンディーナー』など、いずれも異世界ものである。
女性たちのがんばりや、たくましさに惹かれて、よく読んだものである。これらの中では、私はオルディコスが一番好きだったなあ。特に心理描写がよかった。
作者の描く世界は、形式的な美しさがあるというか、整いすぎの感がある。それで、物語に引き込む力強さに、多少の物足りなさを感じることもある。

作者が和風のもの(伝統芸能や着物など)への興味を深め、作品に活かすようになったのが、本作だったと思う。
読み返してみても、物語の中の舞台設定、状況説明が、歌舞伎の演出を見るようである。映像を思い浮かべることを意識した書き方であるので、衣装や色彩についての言葉を知らないと、せっかくの情景が薄れてしまうのである。
ここにきて、形式を活かしながら、より幻想的で、より独自な風合いを出すに至った感がした。
永久の姫君たちが耽美で頽廃的な空気をかもしても、涼やかに爽やかに青葉があたりを清める健やかさを持つ。

雑誌が廃刊にならなければ、もしかしたら、異界のものたちの世界の理が説明されたのかもしれないが、それが説明されないままであることが魅力になっているのは、夢枕獏の解説に同意する。
(この世界の理をしようとしはじめると物語の力が弱まることがある。たとえば、小野不由美『十二国記』など)
ただ、もしもその説明があったらならば、最後の黒飴の甘さも、よりひとしおに感じられたことだろうと、少し残念。

2007.01.26

家守綺譚

家守綺譚 梨木香歩 2006 新潮文庫

疎水の近く、山の手の住宅地。山を越えれば湖。
関西弁は一切出てこないが、舞台は京都東山辺り。
舞台と言語のズレが、異世界めいた味わいを増す。

当たり前のように掛け軸の鷺が庭の池に出て鮎を狙い、その池には人魚や河童が訪ねる。
百日紅は家守に懸想し、家守は死んだはずの家主と言葉を交わす。
狸が恩返しをし、小鬼が見回る。死者の声がさざめき、神々が裳裾を閃かせる。
その家は、彼岸と此岸の交わる場所、過去と未来の重なる仮屋。
平気で矛盾を背負い込む健康な衆生ではないものの、避難場所。

どこか自然に、不思議な者達が息づいていた景色。
かすかに懐かしく、驚きに満ちた生活。
物語の筋を追うよりも、日記を読むように、世界の空気を味わう。
美しく優しい、静かで穏やか。寛容さ、泰然さ。

その世界には、危機感や喪失感が潜んでいる。
大事なものが近い未来に失われることを惜しむ。が、嘆き、恨み、憎むのではない。
滅びの予感は雨のようにしっとりと降り注ぎ、やがて滋養となるのだ。

また、梨木作品らしく、庭を愛する人、木々を愛する人には、格段の喜びがあろう。
『裏庭』の頃よりも一層、文章も物語りも洗練された感があった。

坂本の日吉神社から、叡山を越えて吉野へ行く道の懐かしさ。
疎水べりの桜を愛でながらそぞろ歩いた思い出も、胸苦しい。
心の奥深いところにしまった景色を彷彿とさせる小説だった。

この本は是非とも、『村田エフェンディ滞土録』とあわせて読んでいただきたい。
ほかでは、わかつきめぐみの『ご近所の博物誌』『ソコツネ・ポルカ』のような世界、管浩江の『末枯れの花守』や中勘助の『鳥の物語』、あるいは、夏目漱石の『夢十夜』あたりを連想した。
あわせて、どうだろうか。

それにしてもわからなかったのは、河童の皿の使い道である。
井戸のつまりを直すのによいとは、これがフィルターになるのか、浄化作用があるのか……。
誰か、ご存知の人は教えてください。

2007.01.17

昨日のごとく:災厄の年の記録

中井久夫 1996 みすず書房

同じ作者の『1995年1月・神戸:「阪神大震災」下の精神科医たち』を読んでみたいと思った。
残念ながら、そちらは手に入らず、かろうじて購入できたのが本書である。
あの阪神・淡路大震災の後、一年間の記録である。

当時、阪神・淡路大震災についての報道は多かったが、知らないことがどれだけあったことか。
地震後一年間についての精神科医による報告に、建築や都市の観点、倫理学や福祉からの視点が加えられ、ボリュームがある一冊になっている。

あれから10年以上が経ち、社会的な環境の変化もある。
通信ツールを見ても、往時よりも現在のほうが携帯電話が普及し、携帯メールが災害直後の連絡に有効だった例が増えている。
PTSDについての概念も普及し(議論はあるが)、大きな地震が続き、災害援助の経験も残念ながら積まれてきた。
それでも、援助者の消耗、情報の窪地、鋏状の較差拡大など、引き続き課題となっていることもあり、難しさと苦さを感じる。

なにより、この当事者による、その時々の記録だけが持つ説得力は、時間を経て薄れるものではない。
胸が痛み、目頭が熱くなるようなエピソードも多い。
災害時の現象の諸相、予防と対応について、特にメンタルヘルスを主に、貴重な史料である。

地震について、あるいは、災害について、私個人の体験を抜きにして語ることは非常に難しく、自分の身にひきつけて読まずにいることも難しかった。
体力のない私が疲れ果てても仕方がないことであったのかと、自分の体験を、少し、客観的に眺めてみる。
それにしても、私の遭った災害はこれほどの被害をもたらすものではなかった。
同じ条件下に置かれたとき、私はどうするんだろうか。明日は我が身であるかもしれないと思えば、ぞわりと不安が背筋を撫でる。
「次」に、私は何ができるのだろうか。
(2006.10.9)

2007.01.16

サンカの真実 三角寛の虚構

サンカの真実 三角寛の虚構  筒井功 2006 文春新書

この本は、もちろん、三角寛のサンカ論とその評価について、少なくともサンカについての一般的とされる知識をもって読んだほうが、興味深いことだろう。
残念ながら、私はサンカと呼ばれる人たちをあまり知らない。なんとなくのイメージするものはあるが、詳しくは知らない。三角の名前も、もしかしたら見たことはあるのかもしれないが、覚えがない。
見慣れない特殊な用語(それすらも後で批判の材料となるのだが)に戸惑ったり、一般的に三角寛の評価がどのようであるのかわからないことでピンと来ない点はあった。
その程度の知識であってしても、本書はスリリングで面白い本だった。

どこが面白いのか。その読み方はいくつかある。
が、なんといっても、一人の権威を虚言者であることを実証する過程が面白い。
その虚言者を信奉し、その虚言を基盤にして立脚してきた学問領域全体の意義を再検討することになる。
これを可能にしたのは、忍耐強く根気強い、綿密な情報収集と、充分な証拠がなければ断言を控える謙虚な姿勢である。
かえって、著者にして「くだらない」と言わしめる、おおもとの三角のコメントに好奇心を持つぐらい、手厳しいが説得力のある指摘が並ぶ。
紙幅の都合はあっただろうが、いっそ省略せずに三角を引用しつつ、虚偽を指摘してくれたほうが、原典を知らない一読者には親切だったと思う。

サンカという人々の実生活を知らない。そのため、わたしは知らないものに対しては、批判ができない。
へーほーふーんと、とりあえず受け容れることしかできない。知識や情報を学習する際には間違った姿勢ではないと思う。
小説を楽しむつもりで、現実と空想の区別をつけつつ、空想を楽しむことも問題はないと思う。
しかし、この素直な受け入れ態勢は、学問の世界では有害なことがある。信奉者や追随者になるだけでは、研究者の条件を満たさない。

著者は自分で好事家(アマチュア研究者)と名乗る、元記者である。
だからこそ、これだけの取材ができた。それにもかかわらず、これだけの調査ができた。
文献に信頼がおける場合や、文献研究ならば机上の、紙上の研究でよいかもしれないが、その文献の信頼度は裏付けの検証は必要になろう。

もしも三角が研究の手法や研究の姿勢さえ持っていれば、あるいはまったく違った成果をあげていたのかもしれない。
しかし、著者によると、三角のサンカ論は、ほとんど小説のような創作の世界であり、資料の写真もやらせだった。
これに立脚して論じれば、「三角寛のサンカ論」についての研究にはなりうるが、現実に即した「サンカ」についての研究にはなりえない。

ここにあるのは、民俗学に限定せず、フィールドワークの技法、社会学の姿勢への見直しである。学問全体の倫理の課題であるかもしれない。
形のないものを用いて、どうやって、学を成り立たせるのか。
三角が流行作家のままでいればよかったのだ。著者は、三角を二重に批判する。記者として、研究者として、三角のしたことは取材でも、研究でもないと却下する。
著者の地道な調査と丁寧な推論に頭が下がり、かつ、形のないものを扱うものとしての自制と反省を感じた。

大塚英志の小説を読んだあとだけに、こうして学問はたやすくうさんくさいものになってしまうのかと切なくなると同時に、小説に出てきたエピソードもみつけた。
「木島日記」の乞丐相に出てきた、「岩の坂のもらい子殺し事件」である。これは、新聞記者をしていた頃の三角が書いた、ほとんど虚報に近いものだと紹介されている。まさに偽史。
乞丐相とは随分変わった字面だと思って意味を調べずにいたが、その意味がわかって、あえて用いることに後味の悪さを感じた。

過去のおおらかさに憧れる人もいるかもしれないが、今、同じ轍を踏んでいけない。
この本は個人攻撃と紙一重であるが、まことに本書を読んでつらいのは、文献の信頼度を検討せずに安易に頼ってしまった後進であろう。
研究者たるもの、現物にあたれ、調査を怠るな。資料がないなら、調べればいい。専門家を名乗るからには手抜きはしちゃいけない。取材に手っ取り早い方法などない。
フィールドワークをすることの強みを思い知る思いである。

2007.01.14

木島日記:乞丐相

木島日記 乞丐相  大塚英志 2004 角川書店

北神伝綺が津山三十人殺しで終わり、この小説はここから始まる。
手に取った順番としては正解だったらしい。

前作とキャラの雰囲気が違う。
折口はますます不遇であるが過敏さがやわらぎ、美蘭はふわふわとして浮世離れしているが人間っぽくなり、木島もまた変……というか出番が少ない。
どのキャラクターも、奇矯さが薄れてきたと感じるのは、作者に変化があったのか、読み手である私が彼らに慣れただけなのか。

しのぶちゃんが受けか攻めかで、びみょーなショック。書いているのが男性なだけに、なまめかしさが生々しくてうろたえた。
それにまた、はるみちゃんの祈りが切ない。

人間関係に特に変化があるわけではないが、物語は一層、戦争の予感が色濃くなる。
静かに、気づいたときには手遅れになりそうなほど速やかに、ひたひたと近づき、誰も逃れようのない大きな渦に、既に巻き込まれている空気。
この空気を、小説の外で感じることのほうが怖い。

昔話の貴種流離譚であるとか、異常誕生というのは、両親を離れて育つ子どもの心を守る物語でもあったことを、改めて感じた。

北神伝綺(上・下)

北神伝綺 (上)  北神伝綺  (下) 角川コミックス・エース 125-2  大塚英志・森美夏 2004 角川コミックス・エース

小説と思って探したら、マンガしかなかった。

動きが大くて、映画っぽい画像だなあ。
絵柄は好き嫌いがあって当たり前なんだが、やっと見慣れてきた。

北神はわりと普通にかっこいい感じで(折口と比べるのだから当然か)、作り手の女性らしい感性をうかがう。
滝ちゃんが可愛い。頭がよく、したたかにたくましい、魅力的な主人公の妹。
木島日記よりもポピュラーっぽいと思ったりなんだり。あわせて読んだ方が面白いとは思う。読み比べるのも、また。

ちょっと原作者・大塚が鼻についてきた気もする。あとがきでトラップをしかけるのは場外乱闘に感じたから、だ。
そこもまた、好き嫌いってことで。

2007.01.08

ロマンティックな狂気は存在するか

 春日武彦 2000 新潮OH!文庫

ただいま絶版中?
こんな良書がもったいない。

狂気と聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。
果たして、狂気と呼べるものを、知っているのだろうか。

 ***

私が分裂病を狂気とほぼ同義としているのは、基本的にそれが状況や環境の変化だけでは治らないからである。つまり彼らが心の安静を得られるような世界は、仮想し得ない。その意味で、狂気は孤独のうちに精神内部が自律的に崩壊していくプロセスといえるかもしれず、不可逆的なニュアンスを帯びるだけ問題が深刻なのである。(p.258)

 ***

渡辺哲夫は〈狂気の原風景〉をてんかん発作に置いたが、春日武彦は統合失調症に置く。
前者から見ると後者は、統合失調症中心主義になるのだろうか。同じ病院に勤務している人たちで、これだけ論調が違うところが面白い。
とはいえ、再読してみると、本書にもちゃんとてんかん発作についても記述されていた。

私の中にも、精神病について、精神病院についての偏見があった。
精神病の王道中の王道というのも変かもしれないが、かつて分裂病といわれた病気について、私はよく知らず、自分のどこからが偏見であるのかもわからなかった。
教科書的な統合失調症の説明だけでは、実感としては、わからない。幻覚妄想状態であるとか、連合弛緩であるとか、人格の荒廃であるとか、どうしてそれが病気であると認識できないのであるのかとか、腑に落ちなかったときに、一番参考になったのが、本書であった。
精神疾患の診断という繊細な営為において、精神科医の考え方の一端を知ることができたのも、本書である。
ここにある病気についての記述は具体的で、現実的で、臨床的で、精神疾患を聖別して幻想化することを戒める、私の参考書の一つになった。

精神病は、無垢の魂の証明でもなければ、精神の可能性を示す超越的な存在でもない。妄想は理性(文化や歴史、常識などと言い換えてもよい)の枠組みに縛られない、自由な精神活動の発露ではない。創造性や革命性を求める根性を、さもしいと著者は判じる。あらゆる突飛なストーリーに説明を与える、万能な材料ではありえない。
精神病院も、安易に辻褄あわせをさせる便利な装置や、どんなにありえないものでもあるに違いない万能な舞台装置でもない。
文学的な好奇心から都市伝説まで、狂気は貧弱で安直なファンタジーに説得力を与える道具として用いられてきた。

事例としてあげてある事件や噂話は、少々古びたかもしれないが、根幹の解説はまったく有効であると思う。
精神病/精神病院の都市伝説の一例として「口裂け女」が出てくるが、私が子どもの頃に聞いたヴァージョンも、かなり初期の類型になるようだ。三人姉妹だとか、精神病院だとか、そういう枝葉の設定はなかった。その時期、関東から関西に引越しをして、地方によってヴァリエーションがあることに驚いたことも憶えている。おそらく、物語の伝播に時差もあったのだろう。
ついでに、もう一つ。私の聞いた都市伝説では、迎えに来るのは、黄色い救急車じゃなくて、緑の救急車だった気がする。これも、カラー・ヴァリエーションがあるのだろうか?

身近に病気を患う人と会ってから、私は他人事の綺麗事のように語ることができない。
不必要な不安や恐怖を喚起し、差別をするのも問題であるが、過剰な賛美や憧憬を示すのもおかしい。
病気の苦痛や、病気による損失を無視して、妄想を持っているのは、一体、誰だ?

春日という人は、「ぶっちゃけたところ」を語るのが上手いと思う。
皮肉っぽい口調なので、人によっては違和感や抵抗感を持つかもしれない。
その口調を安全策として、本音に近いところを率直に述べているように思う。
でいないことはできないとざっくばらんに語るところが、読みやすい上に、私などはそこに信頼を感じるのであるが。
病気を治療の対象として、ただ病気として取り扱う本書を読むと、ほっとするなあ。

 ***

「狂気」の多様性に注意せよ、
蓋然性につけこんだ拡大解釈に注意せよ、
記号化され形骸化した「狂気」に注意せよ(p.275)

2007.01.04

二〇世紀精神病理学史: 病者の光学で見る二〇世紀思想史の一局面

二〇世紀精神病理学史―病者の光学で見る二〇世紀思想史の一局面  渡辺哲夫 2005 ちくま学芸文庫

ある種の反感や抵抗があるので、私の感想もネガティブに傾斜しがちだ。
過度に情緒的な文章は、アジテートされているようで、興が冷める。
「われわれ」という主語、表現が大仰で、語調が強いほど、私の気持ちは同調されず、読んでいて疲れてしまう。
共感は、押し付けられるものではない。私は、もう少し淡々と語られる言葉のほうに魅力を感じる。

精神病理学には3つの流れがあると学んだことがある。
第一に、クレペリンに代表される、症状記述式の病理学。
第二に、分析的な病理学。第三に、現象学的な病理学。
著者は冒頭で歴史を詳細に定義するが、精神病理学についての定義はない。
そこで、ふと、戸惑った。精神病理学って、何?

4章までが、私にとっては苦行となった。
著者はヤスパースへのアンビバレントな感情から、その周辺を行きつ戻りつくるくると円舞しているかのようで、気短な私は途中で「それで一体何が言いたい?」といらいらしてしまった。
本書でいう分裂病は、狂気というファンタジー、ロマンチックな狂気であって、統合失調症とイコールとして考えないほうが適切である。
もちろん、本書で語られる癲癇も、てんかんとは異なるものだと思わなければ、不快で読んでいられない。
頻出する「アンテ・フェストゥム」や「ポスト・フェストゥム」(私は木村敏は読んでいないので間違っているかもしれないが)は、クラインの妄想分裂ポジションと抑うつポジションに置換して理解を努めた。

かつては分裂病・躁鬱病・てんかんをして三大精神病と呼んだが、現在は統合失調症および気分障害(うつ病/双極性障害)を精神病とする。
てんかんは精神科ではなく、脳神経内科で診療されるものと紹介されるようになった。(実際は、科目名に関わらず、医師によって得手不得手がある)
内因性の精神疾患は、内分泌系、情報伝達物質の問題が関係していると理解される。外因性のように明らかに身体に変調が起きているとはっきりと検査でわかるようなことはなく、心因性のような発症の原因と誰もが納得しうるような出来事や条件があったわけでもないが、おそらくこれが問題であろうと予測されてはいるが実証されていない謙虚な用語である。
薬という物質が効くということは、物質=身体の問題が起きている、と捉えたほうが、個人的にはすっきりする。
私の前提はそういうものなので、本書の筆者の捉え方とはひじょーに分け隔てがあるのだ。
著者によれば、こういう私の考え方こそ「精神分裂病」から「統合失調症」への以降によって、「精神」が剥奪された状態であり、弊害ってことになる。堕落頽廃しているかもしれない。
だからこそ、治療論の興味の対象は、人格障害へ(あるいは、療育の観点から発達障害へ)と、シフトしてきたんだと思う。

5章では内容に異論はありつつもわかりやすくなり、6章からようやく興味を持てる内容になったと思う。
分裂病を中心に「精神病の病理」を対象とする疾病論について論じていたところを、ここで「20世紀的人間精神の病理」と内容がシフトしているためである。
言い換えれば、精神医学の基礎的な一領域の歴史から、医学の範疇を超えて、思想史に転じている。
ユダヤ人であるフロイトと、ナチスに親和性を持ったユングを対比させつつ、ナチズムという「20世紀的人間精神の病理」を論じるくだりは、興味深かった。

そして、再び疾患の次元を語り始める10章あたりから、私の興味や意欲も半減した。
私は臨床に役立つ知見、精神病の病理に興味を持つ者であるから、めぐりめぐって、p.93で著者が引いている「精神病理学者としては、われわれは汲みつくしえぬ個人の無限性を知っていれば充分である」とヤスパースの言葉で充分な気がする。
判断停止って言われちゃうかもしれないけれど。

おそらく、徹底的に〈歴史不在〉たらんとするならば、言語を放棄するしかなくなるのではないか。
言葉を保持する限り、人は〈力としての歴史〉に守られる。言葉が不完全なツールであっても。完全でないからこそ、持ちうる可能性がある。
何を捨象しても、言葉があれば、そこにはcogitは残る。そのcogitは、〈力としての歴史〉によって常に想起させられてきたもの、世界のただ中に水平にも垂直にもしっかりと結び付けられている。
ソシュールによれば言語とは元からそういうものなのであるのだし、言葉の意味は後から規定されていくものなのだ。この原則を、私は無視できない。
私は言葉によって、過去だけでなく、未来に結び付けられる。
私はそれを束縛だとは思わない。
私は私のために自らの言葉を練り鍛え磨き研ぐ。〈歴史不在〉をも〈伝承〉に組み込むために。
私は同じ言語を用いながらも言葉が徹底的に通じない事態にあって、絶望もし、諦念も持っている。
それでもなお、私は言葉に希望を持つ。

いずれにせよ、この本、若造が書いちゃ怒られるだけだろうな。

2007.01.02

風が強く吹いている

風が強く吹いている 三浦しをん 2006 新潮社

文句なしに、面白い。

今年の一冊目は、箱根駅伝が始まる前に読み終わりたかった。
元旦に、風邪を引いたのをいいことに、初詣もせずに家にこもって読んだ。
ひたひたと、一文字も飛ばさずに一気に読み進んだ。
一歩を積み重ねる、まるで、長距離を走るように。

ひたひたと、その日が近づくにつれ、スタートが近づくにつれ、ゴールが近づくにつれ、こみ上げ押し寄せるのは、興奮か緊張か不安か歓喜か。
途中で予想がつくような、まさに王道をいくような展開であるかもしれないが、どうしてどうして、途中で何度も涙ぐむほど心を揺さぶられる。
テンポのよい短文が、読みやすい。リズムのよさから、読むにつれて、なにかがスピードアップする。

たった10人でいどむ、箱根の山は天下の険。
一つところに集まった10人のうち、足に故障を抱えた先輩と、暴力事件から陸上から離れた後輩の出会いが主軸であり、主人公格になる。
この二人を中心に集団として進んでいた物語であるが、当日には1人ずつの物語となる。
この構成が、駅伝により、活きる。
まさに襷を繋いでいくように、順番を待ち、出番に走る。

この10人が、どれもまた、可愛いのだ。
私より年下なんだから、いい子といってもよかろう。
女性から男性への期待もこめた、いい子そろいで、かっこよい。
こうじゃなくっちゃ、と、物語も、人物も、ツボをおさえている。

孤独と自由と平等と。
魂の底から追い求めるもの。追い続けずにはいられないもの。
信じる強さ。信じられる、強さ。信じてもらえることで与えられる、この力。
どんなに苦しくても、面倒臭くても、ややこしくても、抑えがたく愛しいと感じる。
愛しているとさえ言える。神さまに選ばれなくても、愛することはできる。
ここに性愛をさしはさむと、野暮になる。走ることが、これほどに気持ちいいのだ。
あくまでもストイックに、走れ。

速く強く。うつくしく。

読んで欲しいので、これ以上、詳しいことは言わない。

運動嫌いな私が、少しは走ってみたい気分になるぐらい、酔ってしまうような、つられてしまいたくなるような、そういう熱を持つ一冊。
川原泉の『銀のロマンティック…わはは』や『メイプル戦記』にも通じるような、綺麗で残酷で、少し切ないスポーツの世界。 
箱根駅伝を見る目が変わり、今年は特に応援に力が入りそうだ。

答えは風の中に…。

 ***

そして、現実は、更に、常に、ドラマティックだ。

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