東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ
これは文庫版の出版年なので、元の初版日はもっと前。じゃないと、計算があわない。
大学院受験を考えているときに読んだ。
甚だしくビビった。私はここまでやれんぞ。できんぞ。どーするよ!?
そして、自分に言い聞かせた。東大を受けるわけじゃないし、上野千鶴子に弟子入りするわけじゃないし……。
切れ味のよい批判に惚れ込んだ人も多いだろうし、知に対する厳しさは一目置くとして、ここでは、このタイトルに改めて注目したい。
上野千鶴子流のフェミニズムの流儀と限界を、端的に指摘するもののように思えたからである。
私自身、常日頃、論文は口喧嘩と言い切ることもある。
自論を主張して、相手を批判して、言い負かさなくてはならない。いかに自分の言い分が正当であるかを論証するか。
まあ、口喧嘩みたいなものだと思う。特に、論争を題材に取り扱ったりすると、その感を否めない。
しかし、相手に納得してもらうことと、言い負かすことは、イコールではない。
「相手にとどめを刺しちゃいけません。あなたはとどめを刺すやり方を覚えるのでなく、相手をもてあそぶやり方を覚えて帰りなさい。そうすれば、勝負は聴衆が決めてくれます」と、上野が言ったと遥は書いているが、こういうことをされて、相手は納得するのか? 賛同するのか? 共感するのか?
研究というものも純粋に理論的な世界で展開されるわけではなく、そこには日常的な感覚、個人的な情緒や信条といったものが付随するだろう。
だとすると、ケンカだけでは、他者の了解を取り付けるという目的には、不十分になる。
自己の主張は、他者の理解や承認を得られなければ、結果として、敵だけが増えるだけのような……。
やはり目標にあわせて方法は検討したほうがいいんじゃないか。
言い負かしたり、相手の言葉を封じることには成功したが、それでかえって理解や同意を得ることには微妙に失敗するような手法が、創造性や発展性を失わせたのではないか、と、フェミニズムの失速について考えてみた。
まったくの私見につき、論証する気はないけどね。
(2006.7.17)
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