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香桑の近況

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2006年7月

2006.07.24

フォーチュン・クッキー

フォーチュンクッキー 斎藤綾子 2001 幻冬舎文庫

 むっつり黙ったまま、フェラチオさせる男ほど味気ないものはない。

まったくだ。

……と、ここで話を終わらせちゃいけない。
この短編集、初刊は98年だが、私は文庫されてから読んだ。後書きは俵万智。

複数の小説からセックスのシーンばかり編纂したみたいに なにが出てくるかわからない、フォーチュン・クッキーのような、福袋のようなお得な短編集である。

斎藤綾子は、あっけらかんとした性描写が爽快である。大胆で豪快。
身体感覚を言語化することにすぐれているのだと思う。
その上、ざっくばらんで、ストレートで、際どいところで露悪的になることを免れている。
人によっては、充分に悪趣味と言うかもしれないけれど。

一人称で書かれた、性にまつわる女性の独り言。
こんな内心は、男に知られちゃいけない。

著者の描くセックスは、ひたすら気持ちよい。
そして、現実がちょっと意地悪なときもある。
女も愛しい、男も愛しい。特に、ダメっぷりが愛しい。

気持ちがよいと、幸せなんだか不幸なんだかわからなくなって、とりあえず、まあいっか、と濡れてしまう。
寝顔は優しい男に振り回されているようで実は可愛がっていたり、これぞだまされ上手?なんてしたたかさもあったり、女達がやられっぱなしとは限らない。

レズビアン、ヘテロ、バイセクシャル……と裏表紙には書いてあるが、前作(『ルビー・フルーツ』)よりもヘテロが多いというか、アナルが多いというか、3Pが多く印象に残ったというか。
セックスのファンタジーを補給したいときにいかが?

(2006.7.24)

2006.07.17

東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ

東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ  遥洋子 2004年 筑摩書房


これは文庫版の出版年なので、元の初版日はもっと前。じゃないと、計算があわない。


大学院受験を考えているときに読んだ。
甚だしくビビった。私はここまでやれんぞ。できんぞ。どーするよ!?
そして、自分に言い聞かせた。東大を受けるわけじゃないし、上野千鶴子に弟子入りするわけじゃないし……。


切れ味のよい批判に惚れ込んだ人も多いだろうし、知に対する厳しさは一目置くとして、ここでは、このタイトルに改めて注目したい。
上野千鶴子流のフェミニズムの流儀と限界を、端的に指摘するもののように思えたからである。


私自身、常日頃、論文は口喧嘩と言い切ることもある。
自論を主張して、相手を批判して、言い負かさなくてはならない。いかに自分の言い分が正当であるかを論証するか。
まあ、口喧嘩みたいなものだと思う。特に、論争を題材に取り扱ったりすると、その感を否めない。


しかし、相手に納得してもらうことと、言い負かすことは、イコールではない。
「相手にとどめを刺しちゃいけません。あなたはとどめを刺すやり方を覚えるのでなく、相手をもてあそぶやり方を覚えて帰りなさい。そうすれば、勝負は聴衆が決めてくれます」と、上野が言ったと遥は書いているが、こういうことをされて、相手は納得するのか? 賛同するのか? 共感するのか?


研究というものも純粋に理論的な世界で展開されるわけではなく、そこには日常的な感覚、個人的な情緒や信条といったものが付随するだろう。
だとすると、ケンカだけでは、他者の了解を取り付けるという目的には、不十分になる。
自己の主張は、他者の理解や承認を得られなければ、結果として、敵だけが増えるだけのような……。


やはり目標にあわせて方法は検討したほうがいいんじゃないか。
言い負かしたり、相手の言葉を封じることには成功したが、それでかえって理解や同意を得ることには微妙に失敗するような手法が、創造性や発展性を失わせたのではないか、と、フェミニズムの失速について考えてみた。
まったくの私見につき、論証する気はないけどね。
(2006.7.17)

2006.07.13

親指Pの修業時代

親指Pの修業時代 上 親指Pの修業時代 下  松浦理英子 1993 河出書房


雑多な性の世界を修行して巡回することになってしまった親指P。
ある日、目が覚めると、主人公の右足親指がペニスになっていたという奇抜な設定から物語りは始まる。
猥褻というほどの淫靡さを抜きにして、むしろ、戸惑いを持って語られる猥雑さ。

出版されて間もなくの評判が高く、書店の店頭で平積みされている頃に読んだ。
インパクトはすごいが、内容に感動も感銘もなかった。
正直なところ、あんまり好きにはなれなかったのだ。

あとがきで、著者自身が、「ナチュラル・ウーマン」のほうが真面目でよい小説なのだと語っていたと思う。
それで、同じく松浦の「ナチュラル・ウーマン」も読んだ。内容はすっかり失念してしまったが、ひどく貴重なものに出会ったと思ったことを憶えている。

その頃、フェミニズムが今よりも活発で、革命途中であるかのような輝きと力強さを誇っていた。
その筆頭に、日本では、上野千鶴子の活躍を挙げることができるだろう。
女性らしさを考えたとき、上野千鶴子に嫌気が差し、かといって落合恵美子は苦手だし、松浦のスタンスが一番好ましいものに感じた。
卑下することなく、攻撃することなく、女性らしさを女性らしいままに、囚われずにかつ極める。
その視点に沿って、私は女性の作者による、女性の同性愛を描いた小説を、意識して読むようになった。

しかし、「ナチュラル・ウーマン」の粗筋は忘れてしまって、「親指Pの修行時代」は憶えているのだから、やっぱり後者のインパクトはすごかったんだと思う……。
(2006.7.13)

2006.07.12

微熱狼少女

微熱狼少女  仁川高丸 1992 集英社

10年以上前に一度読んだきり。うろ覚えもいいところ。
同性愛から家族の問題に光を当て、それなりの愛情を見出す。十代の主人公の持つ反抗期の名残のようなつっぱった感じが初々しかった。

当時、熱血少年という単語に対して、微熱少年という言葉を遣った人がいて、更に、狼が追加。
女の子だって襲っちゃうぞ、という意味のオオカミ少女。

キスだけでイってしまったのは初めてだった。というのは、この小説に出てきた一節だったと記憶しているのだが。
そういう極上のキスができる恋人は特別だ。

主人公の名前は忘れたのに、三島の名前は憶えている。スラックスか、タイトのミニしか、はかないという設定がひどく印象的だった。
今読み直せば、当時は大人に見えた三島でさえ、生きる上での不器用さを抱えた一人の人間に過ぎないとわかるかもしれない。
ふにゃりと曖昧に笑む、そういう人物だったと記憶しているから。

別の小説に、その後の三島が出てきて、まだ主人公との関係は保たれていた。
そのことにほっとした。やりきれなくなるような日々を乗り切る若さと勢いを、三島よりも主人公が持っていたんだと、後になって理解することができた。
そっちの『プラトン・アカデミーの回廊にて』 の雰囲気も好きだった。
(2006.7.12)

2006.07.11

白い薔薇の淵まで

白い薔薇の淵まで 中山可穂 2003 集英社文庫

ひどく切ない、上質の恋愛小説だった。
途中から涙が出た。
そして、最後。
一瞬の間をおいて、最初のページに戻った。
涙も引くほど、胸を突かれる思いがした。
この空白の時間が見事だった。

この人の小説を読んだのは、「猫背の王子」から数年経って、これが二冊目だ。
「猫背の王子」では、女性の同性愛という主題が、前面にあった。
女性であり、同性愛者であり、生きにくさを抱えた主人公。

「白い薔薇の淵まで」にも、同じ不器用さを抱えた登場人物が出てくる。
しかし、この小説では、同性愛という主題は、後景に押しやられている。
女性であるからこその物語ではなく、ただ女性であったというだけの、性別は最早特別語るほどではない、ただ自然な気持ちの流れだけが描かれる。

レズビアンという要素が苦手な人にも気にならない程度であるとは思うが、苦手な人には、やっぱり勧められないかな?
斉藤綾子の奔放さや豪胆さとも違い、森奈津子の豪放さや捨て身な感じとは違う。仁川高丸とは、ちょっと近い感じがする。

かつて咲いた薔薇に想いを込めて。酔うように読みたい一冊。
(2006.7.11)

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